遥を守りたい
肚《はら》を決めた僕は、携帯電話を握り締めながらドアを開けた。ただし、チェーンはつけたまま。相手がどう出るのかを見たかった。もし、足をドアの隙間に入れてくるよう真似をするなら、すぐに警察を呼ぶつもりでいた。
遥の父は、ハイボールの似合いそうな渋い中年男だった。碁盤のようにしっかりとあごの張った四角い顔に小さく整った端正な鼻をしている。鼻筋は遥にそっくりだ。すらりと背が高く、歳相応の貫禄はついているけど肥っているというわけでもない。ポマードでなでつけた髪を七三に分け、縁なし眼鏡をかけていた。小さな目の眼光は鋭い。頭の切れそうなインテリ・サラリーマンといった風情だ。
「なんの御用ですか」
僕が素っ気なく訊くと、
「御用って、君」
と、中年男は途惑い気味に咳払いする。
「ここは天草遥の部屋かね」
「そうです」
「遥に会いたい。遥を出してくれ」
「外出しています。いたとしても会わせられません」
「君はいったいなんなんだ」
「遥の彼氏です。いっしょに暮らしています」
「同棲か」
男は顔を背けたまま苦虫を噛み潰し、横目でぎろりと睨む。
「遥はいつ帰ってくるんだ」
「知りません」
「開けなさい。遥が帰ってくるまでなかで待つ」
「あなたを部屋へ入れるわけにはいきませんよ」
「私は遥の父親なんだがね」
「他人です。残念ですが、親権はないですよね。離婚された時に失った。違いますか?」
僕の問いかけに遥の父親は押し黙った。彼のいらついた仕草がうっとうしい。
「私の意図をきちんと把握してほしいものだな」
男は居直る。僕は許さない。
「意図というより、わがままといったほうがいいんじゃないでしょうか。あなたの言うとおりにしなくちゃけいない義理も道理もありません」
「もちろん君は他人だが」
遥の父親の横顔には困惑と傲岸さが浮かんでいる。それから、弱みを見せまいとする虚勢も。目の色には、自分の意のままにならないことへの憤りと相手をねじ伏せたいという動物そのものの獰猛さが浮かんでいた。嘘喝《きょかつ》で凝り固まった人だった。
「外で話しませんか? きちんと言っておきたいことがありますから」
僕は男を誘った。
「話? ――わかった。そうしよう」
彼はしぶしぶうなずき、また嫌そうに顔を背けた。
国道沿いの喫茶店まで黙ったまま歩いた。遥の父親は根掘り葉掘り尋ねたがっていたけど、僕は着いてから話をしましょうと言ってとりあわなかった。
歩きながら何度も拳を握り締めた。
こみあげてくる怒りを何度も抑えた。
僕の大切な遥を不幸にしたのは、ほかならない彼だ。先入観で人を判断するのはやめようと心がけているつもりだけど、彼にだけはどうしてもできない。遥の父親というよりも、遥を傷つけたろくでもない男だと、そんなふうにしか思えない。もし遥の家が普通の家庭だったら、娘の彼氏にいきなり出くわした父親の途惑いを理解しようとしただろうし、彼と仲良くしようとも試みたのだろうけど。
喫茶店のガラステーブルを挟んで彼と向かい合った。市販のレトルトカレーを電子レンジで温めてそのまま出すような、なんの工夫もない安っぽい店だ。椅子のクッションはすり減って硬い。色あせた無機質な内装のなかで、水着姿のキャンペーンガールを写したビールのポスターだけが真新しかった。
「ところで、どうやって僕たちの住所を知ったのですか?」
僕は彼の目を見据え、切り出した。遥の父はうろんそうに僕を見て目をそらし、
「君は知らなくていい」
と、木で鼻をくくったように言う。
「それを言っていただけないのなら、僕はなにも話しません」
「それより、君が名乗るのが先だろう」
「では、帰らせていただきます」
僕は腰を浮かした。
「わかった。話せばいいんだろ。遥の通っている大学に伝《つて》があって、それで調べてもらったんだ」
「それって犯罪ですよね。個人情報保護法で他人に明かしてはいけないはずじゃないんですか?」
「だから君は知らなくていいと言った」
「まあ、いいですよ」
僕は椅子に腰かけた。
「瀬戸佑弥と申します。遥とは中三の時からの付き合いです。恋人になったのは一年ほど前ですけど。あなたのことは遥からいろいろ聞いています」
「遥、遥って、気安く呼ばれちゃ困るね。よそ様の家の子供にはさんづけで呼ぶのが礼儀だろう、君」
男は貧乏ゆすりを始めた。僕は目障りなその足を睨みつけた。
「もう一度言いますけど、あなたに親権はありません。他人です。遥もあなたを父親だとは思っていません。遥が高校へ上がる時、あなたは遥を取り戻しに行って拒絶されたそうですね」
僕がそう言うと、男はひりつくように顔をしかめた。プライドを傷つけられたようだ。こんなことを初対面の人間に言われたら、誰でも腹を立てるだろう。だけど、彼の表情にはひとかけらの後悔や娘に対してすまないという気持ちも現れていなかった。
――自分の体面がすべてなんだ。
僕はそう感じた。
「君は知らないかもしれないが、私は約束通り、遥が二十歳になるまで毎月養育費を支払った。一度も遅れることなく、きっちりとだ」
「お金の問題じゃないですよね」
「そうとも。金の問題じゃない。誠意の問題だ。私は誠意を見せた。だから、遥には帰ってきてほしい」
男は金の問題ではなく誠意の問題だというけど、どうも混同しているようだ。お金を払うのが誠意のすべてだと勘違いしている。まるでお金さえ払えば自分の娘が帰ってくるかのように。僕が聞きたかったのは、ほかの言葉だった。
「離婚協議書で約束したことは反故《ほご》にして、あくまでも取り戻したいということですか」僕は訊いた。
「遥は私の娘だ」
「他人です。どうしてそんなにこだわるんですか? 遥は嫌がっているのに」
「血は水よりも濃いと言ってね。親子の絆は簡単に断ち切れるものじゃない」
「遥はあなたを忘れたがっています。あなたが遥のお母さんをいじめたのが、トラウマになっているんですよ」
「あんなやつがなんだ」
男は吐き捨てた。
「私は遥の母親とは性格が合わなかったんだよ」
「合わせようとしたのですか? 理解しようとしたのですか?」
「君にそんなことを言われる筋合いなどない。夫婦のことなど、君の歳ではわからんさ。惚れたの腫れたのって言っているだけなんだからな」
「失礼ですね。そんなことはありません。僕は、遥のことは誰よりも知っているつもりです」
僕は遥の状況を説明した。
遥は自分を責めすぎて悩み苦しんだ状態からようやく立ち直りかけたところなので、あなたに現れてもらっては迷惑だとはっきり告げた。男は、またプライドを傷つけられたような顔をしたけど、僕はかまわなかった。彼のゆがんだプライドなど、知ったことじゃない。悲しみを乗り越えて生きようとする遥を守るほうがよっぽど大切だ。
「あんな鬱病の母親といっしょにいたからそうなるんだ。鬱がうつったんだ」
「どうして遥のお母さんのせいにするんですか? 遥のお母さんを鬱病にしたのは、あなたですよ。あなたが遥のお母さんをいびりまわして人格を破壊するような真似をするから、そうなったのですよ。わかっているんですか」
「君には関係ない」
「遥の問題は、僕の問題です」
「娘のことをそこまで考えてくれるのはうれしいがね。君は遥の代理人というわけか」
男は唇を皮肉に曲げた。
「言っておくが、鬱病になったのはあいつ自身の問題じゃないか。私にはなんにも関係ない。離婚した時、あいつはまだ病気じゃなかった」
「言い逃れですね。遥の幼い頃から、遥のお母さんはいつも死にたいって口走っていたそうですよ」
「記憶にないな」
男の視線が一瞬、宙に浮いた。嘘をついている。
「また言い逃れですね。どうして、ほんとうのことを話してくれないんですか?」
「どうして君はそう喧嘩腰なんだ?」
「あなたが喧嘩腰だからです。あなたは信用できません」
「もともと信用しようなんて気はないじゃないか。誰も私のことをわかってくれようとはしないんだ」
男は声を荒げる。
「それはどうでもいいんですけど」
僕は冷たく受け流した。ほんとうにどうでもよかった。遥のことだけが心配だった。
「僕はずっと遥を支えてきました」
「面倒くさいなら、ほかの女性を探せばいいだろう。いくらでもいるじゃないか」
「そんなことは一言も言っていません。これからもずっと遥を支えるつもりです。でも、あなたに邪魔されたんじゃ、遥は元気になれないんです。そっとしておいてあげてくれませんか。そのほうが遥のためなんですよ」
「君ではらちがあかない。遥に会わせろ」
「それはできません。どうしてもと言うのなら、警察を呼びます。あなたの会社にも電話します」
「けっこう汚い手を使うんだな。おぼこい顔をしてさ」
遥の父親はいらだたしそうにテーブルをこつこつ叩き、蔑んだ目で僕を睨む。だけど、その目は本心から蔑んでいるのではなかった。自分自身が後ろめたいことをした時に、逆に相手が悪いと責めるための戦術だ。そうしたほうが、相手にダメージを与えられるからという計算でしかない。なにも信じていない人間特有の狡猾な目つきだった。
「大学に裏から手をまわして、僕たちの住所を手に入れたのは誰でしょうか? 遥のためだったら、僕はなんでもします」
「私だってそうだ」
「でしたら、遥には会わないでください。もし遥があなたと会う気になったら、いつか会えるでしょうから」
「だからそれはいつなんだ。私はいつまで待たされるんだ」
「わかりません」
「離婚してあの子に悲しませてしまったのは悪かったと思っている。だが、私はもう十分に償った。どうしてわかってくれないんだ」
「あなたを許すかどうかは、遥が決めることでしょう。どうして、自分のことしか言わないんですか。僕は不思議です。娘がかわいいって言いながら、結局、いちばんかわいいのはあなた自身なんじゃないですか」
「誰だってそうだろう」
「そんな理由で正当化できることではありません。遥は幼い時に心の痛手を負って、今でもそれと闘っているんです。その姿を間近で見ていないからご存知ないかもしれませんけど、トラウマの元凶が目の前に現れたらどうなるか、見当がつくでしょう」
「ずいぶんな言い方だな」
「何度同じことを言えばいいんですか。あなたが遥のお母さんを罵倒したからです。幼い頃の遥はそれを見て、いつも怖くて震えていたんですよ。あなたが怖くてしかたないんです。あなたは取り返しのつかないことをしてしまったんです」
「遥を手放したのは間違いだった。ばかみたいにお人好しで、世間知らずで、頭のおかしいあんなやつと一緒に暮して、さぞ苦労したことだろう。あいつの母親もいけすかないばばあだからな。私は償った。養育費だって払った。遥に嫌われるのが耐えられない」
男はどんとテーブルを叩いた。異様なくらいの音が響く。コーヒーが飛び跳ね、焦げ茶色の滴がテーブルに散らばった。
「私は自分の家族を取り戻したい。ただそれだけなんだ」
遥の父は肩を震わせる。
「自分のために遥を利用するだなんて、あんまりですよ。すこしは遥のことも考えてあげてください」
「どうして遥はそんなに私を嫌うんだ。あの子に母親にいろいろ吹きこまれたんだろう。自分の母親を信じているのかもしれないが、あいつはなにもわかっちゃいないやつなんだ」
遥の父は、僕の話を聞かずに激高しだした。このエゴイズムの塊のような性格が遥の母親と遥を追いつめたのだろう。会社のなかではそれで通用するのかもしれないけど、そのやり方を家族に応用したのでは、家庭が壊れるに決まっている。僕は冷ややかに彼を見た。
「なんでもする。土下座でもなんでもする。殴って気が済むのなら、殴ってくれて結構だ。遥にそう言ってくれ」
「だから、もう取り返しがつかないんですよ。あとは、あなたがその事実を受け容れるかどうかの問題なんです。覆水盆に返らずって言いますよね。そういうことなんですよ。とりあえず、落ち着いてください」
「あの子の母親と離婚した後、私は会社でずいぶんつらい思いをした。針の筵に坐るようだった。いろいろ陰口を言われたものだよ。そのせいで出世だって遅れた。だが、養育費を支払わなければならない。あの子の姉さんだって育てなくちゃいけない。だから、仕事を続けた。私はこれまで努力してきたんだ。どうしてそれを認めてくれないんだ」
「あなたが相手を認めようとしなかったからです。とりわけ、遥のお母さんを。だから、あなたはその報いを受けているだけなんだと思いますよ。いちばんの問題は、さっきも言いましたけど、あなたが自分のことしか言わないことです。はっきり言って、傲慢だと思います」
「たしかに、私はプライドが高いと言われる。だが、そんなことは君には言われたくない。赤の他人なんだからな」
「そうですよ。赤の他人ですよ。これからもずっと他人です。遥とあなたとの間柄も」
僕は、自分でも嫌なことを言っていると自覚していた。こんなことを僕に言わせた彼を憎んでもいた。でも、遥を守るためだ。遥のためだったら、なんでも言う。言わなくちゃいけないことは、きちんと言う。
「とにかく、遥の前には現れないでください。きっと、遥はパニックになります。またひどく落ちこんでどうしようもならなくなってしまうのは目に見えていますから。この間は、友人が助けてくれたこともあってなんとか持ち直しましたけど、今度そうなったらどうなるかわかりません」
「もういいっ」
遥の父は席を蹴り、
「話をするというから、私のことを聞いてくれるのかと思ったのに」
と、捨て台詞を吐いてそのまま喫茶店を出て行った。
僕は彼の後ろ姿を見送り、水に濡れた伝票を持ってレジへ立った。
「悪いことはもう起きないって遥に約束したんだけどな」
僕はつぶやいた。
喫茶店の店主は不機嫌そうな顔で僕を見る。遥の父が大声を出していたので腹を立てたようだ。
「なんでもないです」
さすがに遥の父親のかわりに謝る気にはなれず、僕は首を振った。二人分のコーヒー代を支払ってさっさと店を出た。
肚《はら》を決めた僕は、携帯電話を握り締めながらドアを開けた。ただし、チェーンはつけたまま。相手がどう出るのかを見たかった。もし、足をドアの隙間に入れてくるよう真似をするなら、すぐに警察を呼ぶつもりでいた。
遥の父は、ハイボールの似合いそうな渋い中年男だった。碁盤のようにしっかりとあごの張った四角い顔に小さく整った端正な鼻をしている。鼻筋は遥にそっくりだ。すらりと背が高く、歳相応の貫禄はついているけど肥っているというわけでもない。ポマードでなでつけた髪を七三に分け、縁なし眼鏡をかけていた。小さな目の眼光は鋭い。頭の切れそうなインテリ・サラリーマンといった風情だ。
「なんの御用ですか」
僕が素っ気なく訊くと、
「御用って、君」
と、中年男は途惑い気味に咳払いする。
「ここは天草遥の部屋かね」
「そうです」
「遥に会いたい。遥を出してくれ」
「外出しています。いたとしても会わせられません」
「君はいったいなんなんだ」
「遥の彼氏です。いっしょに暮らしています」
「同棲か」
男は顔を背けたまま苦虫を噛み潰し、横目でぎろりと睨む。
「遥はいつ帰ってくるんだ」
「知りません」
「開けなさい。遥が帰ってくるまでなかで待つ」
「あなたを部屋へ入れるわけにはいきませんよ」
「私は遥の父親なんだがね」
「他人です。残念ですが、親権はないですよね。離婚された時に失った。違いますか?」
僕の問いかけに遥の父親は押し黙った。彼のいらついた仕草がうっとうしい。
「私の意図をきちんと把握してほしいものだな」
男は居直る。僕は許さない。
「意図というより、わがままといったほうがいいんじゃないでしょうか。あなたの言うとおりにしなくちゃけいない義理も道理もありません」
「もちろん君は他人だが」
遥の父親の横顔には困惑と傲岸さが浮かんでいる。それから、弱みを見せまいとする虚勢も。目の色には、自分の意のままにならないことへの憤りと相手をねじ伏せたいという動物そのものの獰猛さが浮かんでいた。嘘喝《きょかつ》で凝り固まった人だった。
「外で話しませんか? きちんと言っておきたいことがありますから」
僕は男を誘った。
「話? ――わかった。そうしよう」
彼はしぶしぶうなずき、また嫌そうに顔を背けた。
国道沿いの喫茶店まで黙ったまま歩いた。遥の父親は根掘り葉掘り尋ねたがっていたけど、僕は着いてから話をしましょうと言ってとりあわなかった。
歩きながら何度も拳を握り締めた。
こみあげてくる怒りを何度も抑えた。
僕の大切な遥を不幸にしたのは、ほかならない彼だ。先入観で人を判断するのはやめようと心がけているつもりだけど、彼にだけはどうしてもできない。遥の父親というよりも、遥を傷つけたろくでもない男だと、そんなふうにしか思えない。もし遥の家が普通の家庭だったら、娘の彼氏にいきなり出くわした父親の途惑いを理解しようとしただろうし、彼と仲良くしようとも試みたのだろうけど。
喫茶店のガラステーブルを挟んで彼と向かい合った。市販のレトルトカレーを電子レンジで温めてそのまま出すような、なんの工夫もない安っぽい店だ。椅子のクッションはすり減って硬い。色あせた無機質な内装のなかで、水着姿のキャンペーンガールを写したビールのポスターだけが真新しかった。
「ところで、どうやって僕たちの住所を知ったのですか?」
僕は彼の目を見据え、切り出した。遥の父はうろんそうに僕を見て目をそらし、
「君は知らなくていい」
と、木で鼻をくくったように言う。
「それを言っていただけないのなら、僕はなにも話しません」
「それより、君が名乗るのが先だろう」
「では、帰らせていただきます」
僕は腰を浮かした。
「わかった。話せばいいんだろ。遥の通っている大学に伝《つて》があって、それで調べてもらったんだ」
「それって犯罪ですよね。個人情報保護法で他人に明かしてはいけないはずじゃないんですか?」
「だから君は知らなくていいと言った」
「まあ、いいですよ」
僕は椅子に腰かけた。
「瀬戸佑弥と申します。遥とは中三の時からの付き合いです。恋人になったのは一年ほど前ですけど。あなたのことは遥からいろいろ聞いています」
「遥、遥って、気安く呼ばれちゃ困るね。よそ様の家の子供にはさんづけで呼ぶのが礼儀だろう、君」
男は貧乏ゆすりを始めた。僕は目障りなその足を睨みつけた。
「もう一度言いますけど、あなたに親権はありません。他人です。遥もあなたを父親だとは思っていません。遥が高校へ上がる時、あなたは遥を取り戻しに行って拒絶されたそうですね」
僕がそう言うと、男はひりつくように顔をしかめた。プライドを傷つけられたようだ。こんなことを初対面の人間に言われたら、誰でも腹を立てるだろう。だけど、彼の表情にはひとかけらの後悔や娘に対してすまないという気持ちも現れていなかった。
――自分の体面がすべてなんだ。
僕はそう感じた。
「君は知らないかもしれないが、私は約束通り、遥が二十歳になるまで毎月養育費を支払った。一度も遅れることなく、きっちりとだ」
「お金の問題じゃないですよね」
「そうとも。金の問題じゃない。誠意の問題だ。私は誠意を見せた。だから、遥には帰ってきてほしい」
男は金の問題ではなく誠意の問題だというけど、どうも混同しているようだ。お金を払うのが誠意のすべてだと勘違いしている。まるでお金さえ払えば自分の娘が帰ってくるかのように。僕が聞きたかったのは、ほかの言葉だった。
「離婚協議書で約束したことは反故《ほご》にして、あくまでも取り戻したいということですか」僕は訊いた。
「遥は私の娘だ」
「他人です。どうしてそんなにこだわるんですか? 遥は嫌がっているのに」
「血は水よりも濃いと言ってね。親子の絆は簡単に断ち切れるものじゃない」
「遥はあなたを忘れたがっています。あなたが遥のお母さんをいじめたのが、トラウマになっているんですよ」
「あんなやつがなんだ」
男は吐き捨てた。
「私は遥の母親とは性格が合わなかったんだよ」
「合わせようとしたのですか? 理解しようとしたのですか?」
「君にそんなことを言われる筋合いなどない。夫婦のことなど、君の歳ではわからんさ。惚れたの腫れたのって言っているだけなんだからな」
「失礼ですね。そんなことはありません。僕は、遥のことは誰よりも知っているつもりです」
僕は遥の状況を説明した。
遥は自分を責めすぎて悩み苦しんだ状態からようやく立ち直りかけたところなので、あなたに現れてもらっては迷惑だとはっきり告げた。男は、またプライドを傷つけられたような顔をしたけど、僕はかまわなかった。彼のゆがんだプライドなど、知ったことじゃない。悲しみを乗り越えて生きようとする遥を守るほうがよっぽど大切だ。
「あんな鬱病の母親といっしょにいたからそうなるんだ。鬱がうつったんだ」
「どうして遥のお母さんのせいにするんですか? 遥のお母さんを鬱病にしたのは、あなたですよ。あなたが遥のお母さんをいびりまわして人格を破壊するような真似をするから、そうなったのですよ。わかっているんですか」
「君には関係ない」
「遥の問題は、僕の問題です」
「娘のことをそこまで考えてくれるのはうれしいがね。君は遥の代理人というわけか」
男は唇を皮肉に曲げた。
「言っておくが、鬱病になったのはあいつ自身の問題じゃないか。私にはなんにも関係ない。離婚した時、あいつはまだ病気じゃなかった」
「言い逃れですね。遥の幼い頃から、遥のお母さんはいつも死にたいって口走っていたそうですよ」
「記憶にないな」
男の視線が一瞬、宙に浮いた。嘘をついている。
「また言い逃れですね。どうして、ほんとうのことを話してくれないんですか?」
「どうして君はそう喧嘩腰なんだ?」
「あなたが喧嘩腰だからです。あなたは信用できません」
「もともと信用しようなんて気はないじゃないか。誰も私のことをわかってくれようとはしないんだ」
男は声を荒げる。
「それはどうでもいいんですけど」
僕は冷たく受け流した。ほんとうにどうでもよかった。遥のことだけが心配だった。
「僕はずっと遥を支えてきました」
「面倒くさいなら、ほかの女性を探せばいいだろう。いくらでもいるじゃないか」
「そんなことは一言も言っていません。これからもずっと遥を支えるつもりです。でも、あなたに邪魔されたんじゃ、遥は元気になれないんです。そっとしておいてあげてくれませんか。そのほうが遥のためなんですよ」
「君ではらちがあかない。遥に会わせろ」
「それはできません。どうしてもと言うのなら、警察を呼びます。あなたの会社にも電話します」
「けっこう汚い手を使うんだな。おぼこい顔をしてさ」
遥の父親はいらだたしそうにテーブルをこつこつ叩き、蔑んだ目で僕を睨む。だけど、その目は本心から蔑んでいるのではなかった。自分自身が後ろめたいことをした時に、逆に相手が悪いと責めるための戦術だ。そうしたほうが、相手にダメージを与えられるからという計算でしかない。なにも信じていない人間特有の狡猾な目つきだった。
「大学に裏から手をまわして、僕たちの住所を手に入れたのは誰でしょうか? 遥のためだったら、僕はなんでもします」
「私だってそうだ」
「でしたら、遥には会わないでください。もし遥があなたと会う気になったら、いつか会えるでしょうから」
「だからそれはいつなんだ。私はいつまで待たされるんだ」
「わかりません」
「離婚してあの子に悲しませてしまったのは悪かったと思っている。だが、私はもう十分に償った。どうしてわかってくれないんだ」
「あなたを許すかどうかは、遥が決めることでしょう。どうして、自分のことしか言わないんですか。僕は不思議です。娘がかわいいって言いながら、結局、いちばんかわいいのはあなた自身なんじゃないですか」
「誰だってそうだろう」
「そんな理由で正当化できることではありません。遥は幼い時に心の痛手を負って、今でもそれと闘っているんです。その姿を間近で見ていないからご存知ないかもしれませんけど、トラウマの元凶が目の前に現れたらどうなるか、見当がつくでしょう」
「ずいぶんな言い方だな」
「何度同じことを言えばいいんですか。あなたが遥のお母さんを罵倒したからです。幼い頃の遥はそれを見て、いつも怖くて震えていたんですよ。あなたが怖くてしかたないんです。あなたは取り返しのつかないことをしてしまったんです」
「遥を手放したのは間違いだった。ばかみたいにお人好しで、世間知らずで、頭のおかしいあんなやつと一緒に暮して、さぞ苦労したことだろう。あいつの母親もいけすかないばばあだからな。私は償った。養育費だって払った。遥に嫌われるのが耐えられない」
男はどんとテーブルを叩いた。異様なくらいの音が響く。コーヒーが飛び跳ね、焦げ茶色の滴がテーブルに散らばった。
「私は自分の家族を取り戻したい。ただそれだけなんだ」
遥の父は肩を震わせる。
「自分のために遥を利用するだなんて、あんまりですよ。すこしは遥のことも考えてあげてください」
「どうして遥はそんなに私を嫌うんだ。あの子に母親にいろいろ吹きこまれたんだろう。自分の母親を信じているのかもしれないが、あいつはなにもわかっちゃいないやつなんだ」
遥の父は、僕の話を聞かずに激高しだした。このエゴイズムの塊のような性格が遥の母親と遥を追いつめたのだろう。会社のなかではそれで通用するのかもしれないけど、そのやり方を家族に応用したのでは、家庭が壊れるに決まっている。僕は冷ややかに彼を見た。
「なんでもする。土下座でもなんでもする。殴って気が済むのなら、殴ってくれて結構だ。遥にそう言ってくれ」
「だから、もう取り返しがつかないんですよ。あとは、あなたがその事実を受け容れるかどうかの問題なんです。覆水盆に返らずって言いますよね。そういうことなんですよ。とりあえず、落ち着いてください」
「あの子の母親と離婚した後、私は会社でずいぶんつらい思いをした。針の筵に坐るようだった。いろいろ陰口を言われたものだよ。そのせいで出世だって遅れた。だが、養育費を支払わなければならない。あの子の姉さんだって育てなくちゃいけない。だから、仕事を続けた。私はこれまで努力してきたんだ。どうしてそれを認めてくれないんだ」
「あなたが相手を認めようとしなかったからです。とりわけ、遥のお母さんを。だから、あなたはその報いを受けているだけなんだと思いますよ。いちばんの問題は、さっきも言いましたけど、あなたが自分のことしか言わないことです。はっきり言って、傲慢だと思います」
「たしかに、私はプライドが高いと言われる。だが、そんなことは君には言われたくない。赤の他人なんだからな」
「そうですよ。赤の他人ですよ。これからもずっと他人です。遥とあなたとの間柄も」
僕は、自分でも嫌なことを言っていると自覚していた。こんなことを僕に言わせた彼を憎んでもいた。でも、遥を守るためだ。遥のためだったら、なんでも言う。言わなくちゃいけないことは、きちんと言う。
「とにかく、遥の前には現れないでください。きっと、遥はパニックになります。またひどく落ちこんでどうしようもならなくなってしまうのは目に見えていますから。この間は、友人が助けてくれたこともあってなんとか持ち直しましたけど、今度そうなったらどうなるかわかりません」
「もういいっ」
遥の父は席を蹴り、
「話をするというから、私のことを聞いてくれるのかと思ったのに」
と、捨て台詞を吐いてそのまま喫茶店を出て行った。
僕は彼の後ろ姿を見送り、水に濡れた伝票を持ってレジへ立った。
「悪いことはもう起きないって遥に約束したんだけどな」
僕はつぶやいた。
喫茶店の店主は不機嫌そうな顔で僕を見る。遥の父が大声を出していたので腹を立てたようだ。
「なんでもないです」
さすがに遥の父親のかわりに謝る気にはなれず、僕は首を振った。二人分のコーヒー代を支払ってさっさと店を出た。