食事の後、たまにゆっくり散歩する。
歩く速度を普段の半分から三分の一くらいに落としてみる。老人がぶらぶらとゆっくり歩くような感じで。
そうしてみると、見慣れた町でも新しい発見があったりする。
通りの店の店員の何気ない動きが目に止まったり、道行く人のふとした表情や連れ立って歩く恋人たちの仕草が目に飛びこんできたりする。気分がゆったりして落ち着く。
物事を考えるのは歩きながらがいい。
血の巡りがよくなるから、僕のぽんこつな頭でもすこしばかり冴えてくれて、考えがすすむ。
京都には「哲学の道」と呼ばれる遊歩道がある。観光名所になっているので行ったことのある方もいるだろう。水路沿いの気持ちのいい道だ。哲学者の西田幾多郎はその道を歩きながら思索に耽ったのだとか。
イタリアにはニーチェが思索に耽ったという哲学の道がある。
こちらは、ほとんど断崖絶壁とも思える急斜面の階段を昇り降りすることになる。一度そばを通ったことがあるけど、しんどそうなので昇るのはやめにした。さすが、「神は死んだ」などとのたまったニーチェだ。スケールが違う。でも、あんな心臓破りの坂道を昇り降りしながら思索になんか耽っていたら発狂してしまうのもむりはない、とちょっぴり思った。
今の季節は夜の散歩にちょうどいい時期だ。榕樹《ガジュマル》が植わった街角で涼しい夜風に吹かれながら、最近読んだ本のことや書きかけの小説のことをぽつりぽつり考えたりする。
(2011年5月26日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第106話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/