風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

貴女と蒼穹を翔びたかった 第2話

2013年03月21日 07時02分11秒 | 文学小説『貴女と蒼穹を翔びたかった』

 出撃準備


「やったぞ」
 誰かがデッキで叫びました。
 乗組員がわっと彼を取り囲みます。
 私はスパナを持った手をとめ、甲板にできた人だかりを愛機の上から見下ろしました。
『龍驤』飛行機隊がうれしい知らせを打電してきたそうです。作戦の日は誰も彼もが興奮気味で、いいニュースも悪いニュースもすぐさま艦中《ふねじゅう》へ広がります。
 天佑《てんゆう》というべきかダッチハーバーの上空だけぽっかり晴れていたそうで、『龍驤』飛行機隊はダッチハーバーへの突入に成功しました。爆撃隊が無線電信所と重油タンクに打撃を与え、戦闘機隊が港に繋留してあった哨戒飛行艇へ機銃掃射を浴びせて破壊したとのことです。地味かもしれませんが、貴重な戦果です。とにもかくにも、目的の一部を達成できました。このほか、港近くの入江に米軍の駆逐艦が五隻も停泊しているのを発見したとのことでした。魚に喩《たと》えれば鰯みたいなものですが、ようやく獲物らしい獲物が見つかったとみんな大はしゃぎです。
「第二次攻撃隊が出て駆逐艦をやっつけることになるな」
 私はつぶやき、作業を急ぎました。
 今度は、機体内部に張り巡らされた操縦索の調整です。
 操縦索とは、操縦桿や操縦ペダルと舵を繋《つな》ぐ鉄製のワイヤーのことです。操縦桿と操縦ペダルの動きに連動して伸縮し、舵を動かしてくれるのですが、寒さのために縮んでいますから、長さを調節して操縦しやすいようにしなければなりません。私が操縦するのは偵察機なので、こちらから相手へ空中戦を挑むことはめったにありませんが、万が一、敵と交戦することになった場合はとっさにうまく回避運動をできるかどうかが勝負です。ワイヤーの長さを何度も微妙に変えてみては操縦桿と操縦ペダルを試し、自分の手足にしっくりくるようにしました。これで思う存分、翼を操れます。
 九五式水上偵察機は、デビュー当時は傑作機と呼ばれたほどの非常に評価の高い飛行機でした。
 癖のないすっきりとしたデザインの複葉機です。ひいき目かもしれませんが、何度眺めても飽きのこない美しさがあります。クラシックな感じがなんともいえません。
 木材と金属の混合式骨組みに、今では珍しい布張りの翼。鍛え上げたバレリーナの体に肋骨が浮かぶように、翼の骨組みがきれいに縦に並んでいます。胴体の下に着水用の大きな主フロートがあって、翼の左右の端には子供が乗る独楽《こま》付き自転車のように小さな補助フロートがついていました。複座式ですので独立した座席が二つ並んでいて、前に操縦士が乗り、後ろに偵察兼爆撃員が乗り組みます。
 エンジンは、タイヤのような丸いカバーのついた寿二型改・空冷式星型発動機。出力は六百三十馬力で、最高時速は二百九十九キロ。あと一キロで三百の大台に乗るのに惜しいところですが、私の同期には追い風参考記録とはいえ時速三百二十キロを記録したパイロットもいました。整備を良好に保って品質のいいガソリンを使い、あとは気象条件さえそろってくれれば三百キロは出せるようです。武装は機首の七・七ミリ固定式機銃一丁と、後部座席についた七・七ミリ旋回式機銃一丁の合計二丁でした。威力の弱い七・七ミリ機銃がたった二丁だけとは貧弱な武装ですが、なにぶん偵察機ですので、これで十分です。
 水上機はお腹の下に余計なものをぶら下げていますから、艦上機や陸上機と比べれば当然速度も遅く、ほかの性能も落ちてしまいますが、九五式水偵は水上機ながらも運動性能に関してはゼロ戦の一世代前の九六式艦上戦闘機と比べてもひけをとりませんでした。むしろ、こちらのほうがいいのではないかと言うパイロットもいたくらいです。速度、航続距離、上昇性能、操縦性、安定性といった各性能に関しても当時の水上機としては抜群によく、この高性能ぶりを買われた九五式水偵は、偵察機にもかかわらず中国戦線で爆撃作戦を実施したり、はたまた、陸上戦闘機の替わりに用いられて敵の陸上戦闘機と空中戦を行ない、敵基地上空を制圧したことさえありました。実に優れた水上機です。
 そんな大活躍を見せた九五式水偵ですが、日米開戦の頃にはすでに旧式化していました。全金属性複葉機の零式水上観測機や単葉機の零式水上偵察機が新登場したため、急速にその地位を譲り、練習機として使用されるようになっていました。
 第一次攻撃隊の飛行機がぽつりぽつりと帰ってきました。『龍驤』飛行機隊は首尾よくやったのですが、『隼鷹』飛行機隊は、残念なことにダッチハーバーまでたどり着けなかったそうです。やはり厚い雲に行く手を阻まれて道に迷ってしまったとか。北緯五十五度という未知の領域で、しかも悪天候下での作戦ですから、『龍驤』飛行機隊が敵を爆撃できただけでも、よしとすべきなのでしょう。北の最果ての海では、敵と戦う前にまず天気と格闘しなくてはなりません。厳しい戦いです。
 攻撃隊も帰還したことですし、そろそろ偵察命令が下りてもいい頃だと思ったのですが、その命令はまだ届きません。
 通常、攻撃隊がどこかの目標へ向けて発進する際は、偵察機が先乗りして現地の模様を報告します。天候、雲量、風向き、風速といった気象情報や敵情を調べて打電するのです。ちょっと様子を窺えばいいように思われがちですが、実は危険な任務です。
 相手の姿を見るということは、私の姿もまた見られているということです。敵を発見した時には、こちらも発見されたと思わなければなりません。
 偵察機に上空をうろちょろされたのではいい迷惑ですから、敵は必ず迎撃戦闘機を何機か発進させて偵察機を撃墜しようとします。偵察の後は敵戦闘機と鬼ごっこです。もっとも、こちらは鈍足の複葉水上機ですから、鬼にはなれません。隠れやすそうな雲を探してそのなかへ突っこみ、ひたすら逃げるだけです。
 首尾よく逃げ切った後は、別の方角から敵基地上空へ接近して再び偵察します。そして、敵の戦闘機に見つかれば、また逃げます。身軽で小回りが利く飛行機なので、蝿のように逃げ回ることはできますが、真正面から相手に立ち向かうなどということは、相手が時代遅れの飛行機でない限りむずかしいです。刀の抜けない忍者のようなものでしょうか。開戦当初の南方作戦では、偵察先で英軍の最新鋭陸上戦闘機スピットファイアに襲われ、もうこれでお陀仏かなと観念しかけたことも何度かありました。
 ようやく整備も終わり、ほっと一息つきました。いつでも偵察へ出かけられます。ちょうど戦闘食のおむすびが配られたので操縦席に坐りながら頰張っていると、
「安田、爆弾をつけろ」
 と、飛行帽をあみだにかぶった川島掌飛行長が下から私へ声をかけてきました。
 川島さんは『摩耶』水偵隊の隊長でした。飛行長の前についた「掌」という肩書きは現場を掌握するベテランの責任者というほどの意味です。掌飛行長は私の操縦する九五式水偵の後部座席に乗り組み、いつもコンビを組んでいました。見た目は華奢で痩せているのですが、鍛え上げた刀を思わせる強靭な筋肉の持ち主でした。剣道、柔道、銃剣術、相撲、水泳、バスケットボール、ラグビー、野球となんでもこなせるスポーツ万能の人です。親分肌の掌飛行長は仕事のできる方ですし、部下の面倒をよく看てくれましたので、私たちはみんな彼を信頼して慕っていました。仕事の後は、毎晩水上機隊員の部屋で車座になって酒を飲んだものです。掌飛行長は犀のような小さい目を人懐っこく緩めながら冗談を言い、いつでも私たちを笑わせてくれました。
「えっ、爆弾ですか?」
 私は思わずコックピットから身を乗り出し、聞き返してしまいました。
「聞こえただろ。三番を二発だ」
 掌飛行長の目は私をせかしています。三番とは三十キロ爆弾のことで、航空爆弾のなかでもいちばん小型のものでした。さっきも話したように九五式水偵は旧式になっていましたから、太平洋戦争の開戦以来、訓練以外で爆弾をつけたことはありませんでした。
「どこへ行くんです?」
 いつも掌飛行長に叱られてしまうのですが、私は納得できないことがあればとことん質問してしまう性質《たち》です。
「決まってるだろ。ダッチハーバーだよ。さっき司令から命令が下りた。空母艦載の二十機と『摩耶』『高雄』の水偵が二機ずつ出て、第二次攻撃隊を編成する。目標はダッチハーバー付近の敵飛行場だ」
「飛行場があるんですか」
 私はびっくりしてしまいました。こんなさびしいところですから、基地といっても歩兵隊と工作隊の駐屯地くらいで、さすがに航空基地はないだろうというもっぱらの噂でした。
「第一次攻撃隊の連中が撮影した写真を現像したら、飛行場が写っていたんだとよ。こいつを叩いておかないと俺たちがやられちまう。わかったか。急げよ。――おい、復唱はどうした」
「はい。三番を二発、至急装着いたします」
 私は、はっと気をつけの姿勢をとりました。
「よし。俺はこれから『高雄』水偵隊の連中と作戦のすり合わせをやるから、準備は頼んだぞ」
 掌飛行長は忙しそうに去ってゆきました。
 私はさっそく作業にかかりました。射出機《カタパルト》に載っていた愛機をクレーンでいったん水上機甲板へ下ろし、整備員が弾薬庫から運び出してくれた三番爆弾を右翼と左翼に一つずつ取り付けます。
 旗艦の小型空母『龍驤』には猛将と謳《うた》われた角田覚治《かくたかくじ》少将が坐乗し、ダッチハーバー攻撃作戦の指揮を執っておられました。どんな時でも闘志にあふれ、なにがあっても諦めない方です。状況が困難であればあるほど心の炎をたぎらせ、敵に立ち向かう提督です。小型の三十キロ爆弾を二発しか搭載できない水偵を出してでも敵を叩きたいという角田司令の意志に、熱い激情を感じました。なにがなんでも米軍飛行場を爆撃しなくてはなりません。飛行機の不調のために途中で引き返す羽目にでもなれば、掌飛行長は大目玉を食らうことでしょう。
 私はもう一度エンジンをチェックし、それからまたクレーンで吊り上げて射出機へ戻しました。いざ発進という時にカタパルトがきちんと作動してくれなければなんにもなりませんから、それも点検しました。すべて正常です。九五式水偵とカタパルトの間に射出用のゲタをかましてあるのですが、固定用のピンさえ抜けば射出準備完了です。
 私はパイロット控室へ入り、川島さんが戻ってくるのを待ちました。
 出発前には必ず、任務の概要と目的、飛行経路、爆撃目標、敵情、天候について打ち合わせをしなくてはなりません。控室には僚機のパイロットと偵察兼爆撃員もいて、ふたりはたわいもない冗談を言い、猫がじゃれあうようにしてふざけあっています。ふだんなら私も会話に加わって出撃前の緊張をほぐすところですが、とてもそんな気にはなれませんでした。嫌な胸騒ぎがします。どんよりとした天気のせいばかりではなく、なにかが胸の奥でひっかかってしかたないのです。
 飛行靴の紐を締めなおしていると、紐がぷつりと切れました。
 ――帰れなかったらどうしよう。
 不安が胸をかすめます。我知らず、足が震えてしまいました。
 ――そんな弱気じゃいけない。
 私はすぐに首を振り、不吉な予感を頭から追い払おうと努めました。
 悪いことを考えていると、本当にそうなってしまうことが往々にしてあるものです。私の同僚の飛行機乗りでも、今日は縁起でもないことを口にするなと思ったら、そんな時に限って出撃したまま還ってこなかったりしたものでした。
 私はじっと目を閉じて、貴女の姿を思い描きました。
 貴女はまだ覚えているでしょうか?
 夏の日暮れ時は、鹿の子模様のかわいらしい浴衣を着た貴女と連れ立ち、夕涼みがてら蛍狩りへ出かけたものでしたっけ。貴女は、小川のほとりを乱れ飛ぶ蛍をまぶしそうに見つめていましたね。草むらや川面に現れては消える萌黄色の光がきれいでした。貴女のつぶらな瞳に流れ星のように照り映る蛍の光がとても素敵でした。虫のすだく音が今でも耳の奥に残っています。貴女の姿さえ心のなかで抱きしめていれば、貴女が見守ってくれるような、そんな気がします。生き永らえることができるように思えます。
 新しい靴紐に取り替え、ずっと貴女のことばかり考えていました。
 どれくらいそうしていたでしょう。泣き叫ぶようだった私の心は、ようやく落ち着きを取り戻しました。



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