風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

川のほとりで女神は

2016年04月13日 06時45分45秒 | 童話

 小鳥が元気よくさえずっています。
 風は、やさしくかろやかに森のなかを吹きぬけます。
 森の一日が始まりました。
 朝の光が梟の眉をくすぐると梟は、
「こんな時間か。どおりで文字が読みづらいと思った」
 と頭をかき、本を閉じて寝支度をしました。といっても、梟の寝る準備はかんたんです。木の上をすこしばかり動いて、葉に隠れるようにするだけ。梟は考えごとをするのが大好きですから、ほかのことはあまりかまいません。誰かに眠りをじゃまされなければそれで十分というわけ。梟は枝の上でもういびきをかいて眠ってしまいました。
 お館の扉が開きました。
 森のお館は丸太で組んだ大きなお屋敷です。しんと澄んだ木々のなかにひっそりと建っていました。ふたりの侍女が玄関の前でかしずきます。子鹿や栗鼠や熊や犬といった森に棲むいろんな動物たちはお屋敷を遠巻きにして眺めます。
 美しい女神さまがゆったりと姿をあらわしました。
 ふんわりとした巻き毛の長い髪。白乳色の輝く肌。桜貝のような麗しい唇。口元にはやさしいほほえみをたたえています。
「みなさん、おはよう」
 女神さまがきらきらとした瞳であいさつをします。
「女神さま、おはようございます」
 森の動物たちは元気よく返事をします。ただ、はずかしがりやの子鹿だけは、顔を真っ赤にして逃げ出してしまいましたけど。子鹿はいつもこうなのです。
 女神さまは侍女から木の皮で編んだ籠を受け取り、階段を降ります。栗鼠が階段の下までさっとかけより、花で編んだ冠をさしだします。女神さまが栗鼠を掌にのせると、栗鼠は女神さまの頭に冠をかけました。
「ありがとう」
 女神さまは栗鼠の頰へお返しの口づけをします。栗鼠は照れてしまってただ頭をぽりぽりとかいていました。
 女神さまはふたりの侍女をしたがえて、森の径(こみち)へ入っていきます。女神さまが足を一歩進めるごとに、裳裾(もすそ)から黄金色の光の粉がさらさらとこぼれます。栗鼠が駆け寄って、光の粉を手に取ると、あら不思議、光の粉は七色の金平糖になりました。栗鼠はおいしそうに金平糖をかじります。
 森を抜けて広い野原に出ました。
 陽の光が一面を照らすから、とてもまぶしいです。野原には色とりどりの花が咲いています。花々は女神さまを見上げ、出迎えるように揺れました。
 野原のはしに水車小屋が建っています。水車小屋のそばには大きな楡(にれ)の木がそびえ、涼し気な陰を落としていました。
 女神さまが水車小屋からのびた桟橋のうえで空へ手を差し伸べます。女神さまの腕に玉のような赤子が姿を現しました。
「やさしく育ちなさい」
 女神さまは赤ん坊の額にくちづけます。赤子はむじゃきにわらうばかりです。女神さまが侍女へ赤ん坊を渡すと、侍女は慣れた手つきで赤子を布でくるんで木の皮で編んだ小舟のなかへ入れました。舟は赤ん坊がちょうどおさまるくらいの大きさです。川へ浮かべた舟はきらきらと光る川面を滑るように流れました。この川の流れの果て、女神さまの森が終わるところで、舟は地上、つまり人間の住む世界へ流れ落ちてゆくのです。赤子はどこかのお母さんのお腹へ入って、地上での暮らしを始めます。
「素敵な絵を描きなさい」
「おいしい料理を作るのよ」
「たくさん運動をしなさい」
 女神さまは一人ずつ声をかけて祝福します。
「あら」
 ある赤ん坊を抱きあげたとき、女神さまは首をかしげてうかない顔をしました。
「どうなさいました?」
 侍女が女神さまにたずねました。
「ううん、なんでも」
 女神さまは首を振ります。輝く金髪の長い髪がやわらかく揺れました。
「ちょっと悲しい運命かな。でも大丈夫。怖くない。強く生きるのよ」
 女神さまはにっこりほほえみます。なにも知らない赤子はただ笑っていました。

 午前中いっぱい、女神さまはせっせと赤ん坊たちを地上へ送り出しました。
 昼ごはんを食べた女神さまは、テラスで紅茶を飲みながら、ほっと一息いれます。赤子を抱き上げつづけるのは、なかなか骨の折れる仕事なのです。
 そよ風に吹かれて庭の花々を眺めていると、蹄の音が響いてきました。女神さまはテラスをおりて、庭へ出ました。馬が一声いなないてとまります。馬の上には黒づくめの衣装を着て黒いマントを羽織った騎士が乗っていました。
「叔父さま」
 女神さまは嬉しそうにほほえみます。騎士は目深にかぶった帽子を上げました。
「久しぶりだな。元気そうだね」
 騎士は片目だけで笑います。彼は左目に鉄の眼帯をかけていました。遠い昔、戦いで矢を受け、目玉を失ったのです。
「どうぞなかへ入ってくださいまし」
 女神さまは騎士をお館へ誘(いざな)います。騎士はさっと馬をおりて女神さまの後をついていき、ふたりはテラスのテーブルにつきました。
 女神さまは騎士のために手ずから紅茶を入れます。
「ここは変わらないね」
 騎士は懐かしそうに庭を眺めます。
「あら、叔父さまもちっとも変わりませんわ」
「そうかな」
「わたくしが小さな頃とおなじですもの」
「嬉しいことを言ってくれるね」
「ねえ叔父さま、旅の話を聞かせてくださいな」
「ああいいとも」
 騎士は乞われるままに西の砂漠に住む魔法使いの蛇や東の果ての海に浮かぶ楽園の島のことを話しました。騎士は若い頃から旅のなかで暮らしています。女神さまは叔父から知らない世界の話を聞くのをいつも楽しみにしていました。
「それでね、お前のお父さまから頼まれたことがあってね」
 旅の話をひととおり語り終えた騎士はふと改まった調子になりました。
「あら、まだ早いですわ」
 女神さまは驚いた顔をして、それでもきっぱりと言います。
「まだなんにも話していないのだが」
 騎士は、片目だけをぱちくりさせて途惑いました。
「すぐにぴんときましたもの。わたくしのお婿さん探しでしょう」
「察しがはやいね。賢い子だ。お前を肩車してあげた頃から聡明だった」
「叔父さまったら、わたくしをいつまでも子供扱いされては困りますわ。立派な大人ですもの」
「そう、もういい大人なのだから、そろそろ結婚してもいいのじゃないかな。お前のお父さまが素敵な若者を見つけたそうだ。こんど休みを取ってお父さまのもとへ行ってみてはどうだろう。お父さまが引き合わせてくださるよ」
「ここの仕事を休むわけにはまりませんわ」
「お前が帰っているあいだは、わたしが代わりをするよ」
「叔父さまが赤ちゃんを取り上げますの?」
「そうだが」
「似合いませんわ」
 女神さまはおかしくて吹き出します。
「すこしのあいだだけなら、わたしだって大丈夫だよ」
「お見合いをする気にはなれませんわ」
「堅苦しく考えなくていいのだよ。気に入らなければ断ればいい。ともだちになるだけでもいい。とりあえず会ってみればいいだけのことだ」
「そんな簡単なふうにおっしゃって、いざ会えば、みんなでよってたかってわたくしをお嫁にしようと躍起になるのでしょう。わかってますわ」
「やはりだめかね」
「ええ。わたくしはこのお仕事が気に入ってますの。命を地上へ送り出す大切なお役目ですもの。今はこのお勤めをしっかりやり遂げたく思います」
「そうはいってもねえ。いつかはお前も嫁がなくてはならないのだよ。お父さまも心配しておられる」
「わたくしの心配より叔父さまはどうですの? 叔父さまだっていつまでも旅暮らしというわけにはまいりませんわ」
「わたしは自由と放浪の神だ。家庭にしばられたりすれば、それこそお笑い種だ。わたしはさすらいつづけて生きるのさ」
「叔父さまったら」
 女神さまは楽しそうに笑い転げます。
「お前のお父さまにもうすこし待っていただくように伝えるよ」
「ありがとうございます。叔父さまはわたしのことをわかってくださるのね。叔父さま、大好き」
 女神さまは騎士の頬に口づけました。
「さあ、わたしはそろそろお暇するよ」
「きたばっかりですのに。夕食のしたくをさせますから、ご一緒しましょうよ」
「今回は急ぐ旅なんだ。お前のお父さまからもう一つ頼まれごとがあって、それを片づけなくてはならないのだ」
「なにですの」
「野暮用さ。南のほうで神様が喧嘩したらしい、それをいさめに行くのだよ。なに、すこしばかり話をすればすぐに仲直りするさ」
「出発は明日でもよろしいじゃございませんこと」
「お前も知ってのとおり、お前のお父さまはせっかちなのだよ。すぐに結果をご報告せねばならない。ご機嫌が悪くなってしまうからな」
「こんどいらっしゃるときはもうすこしゆっくりしていってくださいね」
「つぎはそうさせてもらうよ」
 騎士は帽子を取り立ち上がりました。女神さまは名残惜しそうに騎士を送ります。騎士を乗せた馬が森の木立のなかへ消えるまで、女神さまはその後ろ姿を見送りました。

 女神さまは庭の花の手入れをしたり、栗鼠や小鳥たちを手のひらに乗せては話しかけたりして午後の時間を過ごしました。
 陽が西へ傾きます。ぼんやりとしたオレンジ色の光が森の上にやわらかく注ぎます。女神さまは夕方の仕事の支度して、ふたたび川のほとりの水車小屋へ行きました。
 女神さまはやはり侍女をふたりしたがえて、水車小屋の桟橋に立ちます。川の下流から小さな舟が何隻もさかのぼってきました。舟のなかには七八人が坐り、いちばん後ろには白装束の男が櫓をこいでいます。舟は次からつぎへと桟橋につき、舟のなかの人たちが桟橋へ上がりました。ほとんどは老人ですが、なかには中年や若者も、それから子供も混じっています。
「おかえりなさい」
 女神さまはみんなを出迎えました。
 そうです。彼らは女神さまが送り出した赤子たちなのです。地上で何十年の時を経て――といっても女神さまの森ではほんの数日の出来事ですが――命の森へ帰ってきたのです。
 女神さまは一人ひとりにお疲れさまのキスをします。そうして、金平糖を一つ口に含ませます。するとどうでしょう。おじいさんやおばあさんはみるみる間に二十歳の若者に若返ります。肌はつやつやになり、曲がった腰もしゃんとして元気な姿になりました。
「女神さま、ありがとう」
 若者たちは女神さまの頬へお返しのキスをして水車小屋のそばにとまっている三頭立ての馬車へ乗りこみます。馬車は十数人ほどの乗ったところで出発です。馬は翼を広げ、茜色した空へ翔びたちます。東の国へ、西の国へ、南の国へと、それぞれの場所へ女神さまの子供たちを送り届けるのです。
 絵描きの心を持った魂は画家の村で、楽器の好きな魂は演奏者の村で、家具づくりが得意な魂は家具職人の村でとそれぞれのふるさとで穏やかに楽しくすごし、そうしてしばらくすると、彼らはまた赤ん坊の姿に戻って女神さまの手で地上へ送り出されるのです。
「ごめんなさい」
 ちょうど幼稚園くらいの姿をした男の子が女神さまの足に抱きついて泣き出しました。
「どうしたの?」
 女神さまは男の子の頭をなでます。
「ぼく、ぼくね――」
 男の子はしゃくりあげて声をつまらせます。その男の子は腕白な坊やで元気に遊びまわっていたのですが、ある日突然、流行り病にかかって命を落としてしまったのでした。
「いたずらばかりしてたから、死んじゃったんだ。ぼくはわるいことをたくさんしたもん」
「あら、わるいことなんてなんにもしてないわよ」
「それじゃどうして死んじゃったの? パパもママも泣いてた。ぼくがわるいんだ」
「坊やはなにもわるくないわ。肉体を持つというのはすこしばかりたいへんなことなのよ。うまくいかないことだってあるわ。坊やはただ病気になっただけ。運がわるかったのよ。ただそれだけよ」
 女神さまは金平糖を男の子の口に含ませます。瞬く間に二十歳の若者の姿になりました。晴れやかな表情になった彼は女神さまの頬へ口づけ、「女神さま、さようなら、お元気で」と手を振り、馬車へ乗りこみました。
「女神さま、どうしてわたしはここにいるのでしょう」
 若い女が呆然と女神さまを見つめます。若い女は住んでいた村からバスに乗って町へ買い出しに出かけました。ですが、その町が空襲にあい、爆撃に巻き込まれてしまったのでした。事実を言わないわけにはいきません。女神さまはありのままを話しました。
「わたしがばかだったから。夫は危ないからやめなさいって何度もわたしをひきとめたのです。でも、どうしても娘にダウンジャケットを買ってあげたくて。――夫と娘はぶじでしょうか」
「大丈夫よ。元気に暮らしているわ。悲しんではいるけど」
「お願いです。わたしを地上へ戻してください。わたしがいなければ、だれが家族の世話をするのでしょう。わたしの気持ちをわかってくださるでしょう」
「それはできないの」
 女神さまはかなしそうに首を振ります。
「つらいのはわかるけど、戻ってきた魂はしばらくここで暮らすのが定めなのよ。後戻りはできないの」
 これまで女神さまはいったいどれほどのこの願いをしりぞけてきたことでしょうか。
「どうしてこんなことに」
「もうすこし生きたいという願いはだれもがもつものよ。でも、運命を受け入れるよりほかにすべはないの。これで終わりではないわ。次があるのよ。また生まれ変わるから」
 女神さまは金平糖を食べさせます。若い母親はすこしだけ若返り二十歳の娘になりました。
「あら、わたしったら」
 娘は自分の体を眺めて驚き、
「女神さま、ありがとう」
 とおじぎします。娘はもう地上での記憶をほとんどなくしました。嬉しいことも悲しいことも思い出として残っていません。かすかに記憶の影といったものを覚えているだけです。金平糖には地上でのことを忘れさせる作用があるのです。娘は馬車へ向かっていきました。
 女神さまはにこやかな笑顔をつくって娘を見送りました。そして、女神さまはふと真顔になって考え込みます。人はなぜ死ななければならないのか。もうすこし生きることがどうしていけないのか。女神さまもじつはよくわからないのです。もっとわからないのは、祝福して送り出した命がなぜおたがいに苦しめあうようなことをするのかということです。傷つけあう理由など、ほんとうはないはずなのに。地上の悲しみや苦しみなど消してしまおうと思えばすぐにでもできるはずなのに。女神さまは、人間をもっとも苦しめるものが人間自身であることがとても残念でなりませんでした。
 最後に、灰色の顔をした人たちが舟に乗ってやってきました。
 この命たちは地上で恐ろしい罪を犯してしまったのです。みんな無口でいらだっているようです。女神さまは彼らに金平糖を与えません。彼らはそのままの姿で檻の馬車へ乗りこみます。女神さまは、灰色の顔をした人たちの不仕合せがいやされることを祈りながら、いつの日か魂が清められて昔暮らしていた東の国や、西の国や、南の国にある郷里の村へ戻れる日のくることを願いながら、たださびしそうに見送るだけです。
 檻の馬車は北へ向かって飛び立ちます。北の国には、女神さまのおじいさまが番をしていて、おじいさまが彼らをさばくことになります。おじいさまは厳しい方でした。女神さまにはとってもやさしいのですが。

 今日の仕事を終えた女神さまは、お館へ戻りました。あたたかいクリームシチューとレタスサラダを食べ、お風呂にゆっくりつかります。
 女神さまはバルコニーのソファーに腰かけました。夜空は満天の星です。白や赤や青の色とりどりの星が咲いています。女神さまは、洗い髪を星明りで乾かしながら夜空を眺めるこのひとときが大好きでした。
 天空のメロディーが聞こえてくるようで荘厳な想いが胸を満たします。世界はなんて美しいのだろうと思わずにはいられません。そして、命の不思議を考えます。それは女神さまにも解けない宇宙の神秘なのです。女神さまは空を満たす星々にむかって、今日送り出した命たちがしあわせになれますようにと祈りをささげました。梟の鳴き声が夜の涼しい風に乗って森の梢からかすかに流れてきました。







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