雲南省の昆明で留学していた頃、ワ族という少数民族の村を訪ねてを旅したことがある。二〇〇五年五月のことだ。
昆明から寝台バスに十七時間ほど乗り、ミャンマーと国境を接する滄源そうげんという名の町へ行った。この町はワ族の自治県になっている。ワ族はクメール民族(カンボジア人)と同じ系統の民族だ。濃い褐色の肌をしている。
滄源は辺境の小さな田舎町だから、乗り合いタクシーがたくさん走っている。僕は乗り合いタクシーが集まっているところへ行き、お目当てのワ族の村までどう行けばいいのかを地元のおじさんに聞いた。おじさんは行き方を教えてくれた後、どこから来たのかと訊く。日本からだと答えると、おじさんは感心したようにうなずき、
「中華人民共和国へようこそ」
と握手を求めてきた。日本人などほとんどくることがないだろうから、おじさんは日本人に会うのははじめてなのだろう。嬉しそうニコニコしていた。
タクシーの運転手と値段を交渉して郊外のワ族の村の近くまで乗った。
ワ族の村は車で十五分ほどのところにあった。盆地をぐるりと囲む山の谷合にある。
滄源はワ族の自治県になっているが、滄源の支配的な民族は、実はタイ族(タイ人と同じ民族)だ。タイ族が盆地の真ん中、つまり稲作に最も適した場所を占めているため、米の収穫がいちばん多くて経済力がある。その経済力をバックにして周辺の民族に対して優位に立つ。ワ族は谷合や山の中に集落を築き、米の収穫はそれほど期待できず、貧しいままとなる。雲南省には二十五の少数民族がいるが、その少数民族同士のなかにもヒエラルキーがあったりする。
もっとも、タイ族が優位に立ったのは、平野での稲作には欠かせない灌漑技術を持っていたからだそうだ。灌漑技術についていえば、谷合に棚田を作るのがいちばんやりやすい。山から流れてくる水を棚田に引き入れ、それを下へ落としてやれば給水も排水もうまくいく。これに対して、平野では川から平地へ水を引くため複雑な技術がいる。タイ人はこの技術を以て、誰も切り拓かなかった平地の湿地帯へ入り込み、きれいな水田を作って比較的優勢な経済力を手に入れた。
サトウキビ畑のなかのあぜ道を通り、村を目指した。村の前を流れる川では幼い子供たちが川へ入って遊んでいた。水しぶきをあげてはしゃいでいる。あぜ道が細くなり、僕の背丈よりも高いサトウキビのなかを進む。突然、サトウキビのなかで茣蓙を敷いて弁当を食べている農家の家族に出くわした。僕はびっくりした。
「你好ニイハオ!」
僕が言うと、農家のおばちゃんが笑いながら、
「御飯!」
と言って茶碗を箸で叩く。食べていけという誘いのようだったけど、「ありがとう。もう食べたから」と言って道を急いだ。それにしても、かなりおおらかだ。勝手に人の畑へ入ったら、ふつうは怒りそうなものだけど。
橋を渡り、ゆるやかな坂道を上る。穏やかな勾配に作られた棚田にはサトウキビが植えてある。その棚田のうえにワ族の集落があった。
ワ族は高床式の家に住むと本に書いてあったので、木の葉で屋根を葺いた木造の古びた家を想像していたのだけど、コンクリートブロックで壁を作り小豆色のスレート屋根を葺いたぴかぴかの新築の家ばかり並んでいた。高床式ではなく、平土間づくりだ。田舎の村なのに、まるで開発したての郊外の住宅地のように新築の家がずらりとならんでいる。なんだか不思議な感じだった。
村の外れの階段をすこしばかり登ると、崖の壁にお目当ての壁画があった。
滄源壁画と呼ばれるこの壁画は、三千年前、この村に住んでいた人たちが描いたものだ。祭りや踊りの様子、猿、猪、鹿、象、虎といった様々な動物、弓を引きながら狩猟する模様、人が水牛を引っ張っている姿などが素朴なタッチで描かれている。
滄源壁画が滄源以外の人々に知られるようになったのは、ベトナム戦争の時だった。中国は北ベトナム支援のために軍隊を送ったのだが、その兵士のなかに村人がいた。お前はどこから来たのだと上官に問われた兵士は、
「滄源の壁画の村から来ました」
と答えた。このことがきっかけとなり、滄源壁画の調査が行われ、村以外の人々にも知られるようになった。
崖の前に渡した橋からゆっくり壁画を眺めた。
三千年も昔の生活はいったいどんのようなものだったのだろうと想像してみる。村とその周辺で生活のすべてが完結してしまう小さな世界。その小さな世界から抜け出して外の世界へ飛び出すことなど考えることもなく過ごす一生。だが、アニミズムを通じて見えない大きな世界へつながっていたのだろう。星空がよく見えるぶんだけ、かえっていろんなことが見えていたのかもしれない。
壁画村の村人たちは、自分たちは三千年前に壁画を描いた人たちの末裔だと素朴に信じている。しかし、単純に今の村人が壁画を描いた人々の子孫だとは言えない。もしかすると、壁画を描いた村人たちはその後、谷間の村を捨ててどこかへ移住してしまったかもしれないし、戦争や疫病で全滅してしまったかもしれない。今の村人たちは、その昔廃村となった今の村へ入植した可能性も大いに考えられる。壁画を描いた村人と今の村人とのつながりは、今後の研究が待たれるところだ。
壁画を見終えた僕は村へ戻り、ぐるっと一周してみた。村の男たちがおしゃべりしていたので話しかけ、村の暮らしを聞いてみた。今、サトウキビを植えている田んぼはもうすぐ収穫となり、その後、米を植える。もち米の稲も植えるという。
男の一人が古風なライフルを持っていた。第二次世界大戦のその前から伝わるイギリス製の鉄砲だそうだ。森へ一週間ほど入って狩猟することもあり、野生の猪や鹿や鳥などをとってくるのだとか。
話しているうちに、どういうわけか元村長の家に招かれた。村で栽培したお茶を御馳走になる。元村長のおじさんは小柄で痩せた五十代半ばくらいの方だった。今は、息子さんが村長をしているという。
「息子には村長なんて苦労が多いだけだからやめとけって言ったんだけど、本人は張り切ってやってるんだよ」
元村長のおじさんはそうぼやく。地方政府や各種の行政機関との折衝は骨が折れて大変なのだとか。日本でも大変な仕事だけど、中国ならなおさらしんどそうだ。
僕は思い切って首狩りの習俗について、元村長さんに尋ねてみた。実は、ワ族は首狩りという恐ろしい風習を持つ民族だった。人間の首を狩るのだ。周囲の他の民族からは恐ろしがられていたわけだけど、さすがに残酷だということで、共産党が中国を支配した後、政府が強制的にやめさせた。元村長さんが生まれたのは一九五〇年前後だろう。幼い頃のことだから覚えていないか、物心がついたころにはもう廃止になっていたのだろうなと思ったのだが、
「首狩りは楽しかったよ」
と元村長さんの目が輝いた。
「田植えの前にその前の広場で首狩りをやるんだ。人間の首を切ると血が吹き飛ぶ。血潮が高く上がれば上がるほど、その年は豊作になるんだ」
話を聞いて、首狩りは祝祭だったとわかった。
年に一度の楽しいお祭り。
大人も子供もみんな楽しみにしている。
村人が広場に集まり、豊作祈願の儀式を行なう。そのクライマックスが首狩りだったのだろう。そこには、人間の首を狩ることの罪悪感などはない。神様へ生贄を捧げるのだ。うまく首が狩れたなら、それでめでたし。祭りの酒もうまくなるというものだ。ぎょっとする話ではあるけれど、彼らには、彼らなりの世界の理解のしかたがあり、そのなかですこしでもしあわせになろうとしただけのことだ。
ただ、僕はてっきり新中国の成立(1949年)後すぐに首狩りを廃止したのだとばかり思っていたけど、元村長の話からすると、解放後しばらくは続いていたようだ。
おいとまをした時、元村長は表まで送ってくれた。彼はひゅうと口笛を吹き、
「若い頃は、夜になるとこうやって合図して、娘っこを外へ連れ出したもんだよ」
と嬉しそうに笑う。元村長も若い頃はご盛んだったのだろう。どうやら自由恋愛の風習のようだ。僕は元村長に礼を言って村を出た。
村外れの山の中腹に一軒だけぽつんと建っている家があった。僕はその家を目指して山道を登った。急な斜面に段々畑を作ってナスやキュウリといった野菜や茶を植えている。赤ん坊を負ぶった若いワ族の夫婦が農作業をしていたので、「ニーハオ」と挨拶をすると笑顔で応えてくれた。「子供は何か月なの?」と話しかけ、すこし立ち話をした。斜面の痩せた畑を耕していたのでは暮らしは楽ではないだろう。どうしてこんな離れたところに一軒だけ家があるのか訊いてみたかったけど、さすがにはばかられた。
「照葉樹林文化論」という学説がある。
西日本から台湾及び長江の南側、貴州省、雲南省、ミャンマー、インド北部のアッサム地方、ブータンにかけては照葉樹林帯が連なっており、この一帯には、同一起源の似たような文化があるという議論だ。似たような文化とは、たとえば、納豆などの発酵食品の利用、茶の栽培、モチ米などのモチ種を好むこと、歌垣、漆器作成などがあげられる。
このワ族の村も「照葉樹林文化」のなかに入るのだろう。風景は日本の農村とそれほど変わらないような気がする。山間に村があって水田がある。もち米も茶も栽培している。このワ族の村に限らず、雲南省には懐かしさを誘う風景が多い。「照葉樹林文化」は壮大な仮説といったもので、はっきり論証できたものではないけど、たぶんそうなんだろうな、そうだといいなとうなずきたくなるものがある。あとで調べてみると、日本でも、古代には同じような首狩り祭りが行なわれていたとする研究者もいた。将来的に照葉樹林文化の解明が進めば、首狩りも共通文化の一つとされるようになるのだろうか?
滄源そうげんから乗り合いバスに乗って、次の目的地へ向かった。
バスといっても大型ではなく、マイクロバスだった。席はすべて地元の人たちで埋まっている。バスは山道を走り続けた。道端で手を挙げる人がいると、バスは止まって客を乗せる。あらかじめ運転手にどこで降りると伝えておけば、そこで止まってくれる。
山道は舗装されていない土道だから、それほどスピードは上がらない。けっこう揺れた。ひとしきり山のなかを走っては、山のなかの小さな集落を通る。山のなかの集落では中年以上の女性はほとんど民族衣装を着ていた。若い女性はTシャツにジーパンといった姿が多い。男で民族衣装を着ている姿は見かけなかった。ある集落にとまった時、上半身裸のおばあさんがいたのにはびっくりした。あまり気にしていないのかもしれない。
昼過ぎ、山のなかにある班洪という名の町へ到着した。ワ族の町だ。僕は班洪でバスを降りた。
班洪は渓谷沿いの中腹にあるとても小さな町だ。土道沿いに小さな商店がいくつか軒を並べ、小学校がある。学校の門のそばに米線(米粉で作った麺)の小さな店があったが、ほかに食べ物を売る店もレストランらしきものもなかった。谷の向こうには緑の山が連なっている。
とりあえず宿を探そうと思って歩いたのだけど、正式なホテルはなかった。薬局に宿の看板がかかっていたので店主に訊くと泊まれるという。薬局の二階が宿になっていて、ベッドを十台並べただけの相部屋があった。値段は一泊十元(約百五十円)。シャワーもなにもない。ただベッドに寝るだけの宿だった。
宿に荷物を置き、僕は土道を歩き始めた。この町へ入るすこし手前に高床式の家がずらりと並んだ集落があったので、そこを訪ねたかった。滄源では高床式の家をじっくり見る機会がなかったから、目的を果たしておきたかった。
乾季のちょうど暑い時期だった。よく晴れている。太陽が眩しい。首筋の汗を拭いながら山道を歩いていると、白いパジェロが猛然と土煙を上げて僕を追い越す。パジェロは不意に止まり、それからバックしてきた。パジェロのなかからよく日焼けした体格のいい男が二人飛び出してきて、僕へ駆け寄る。
「君はいったいここでなにをしているんだ?」
男は驚いた顔をして僕に問いかけた。男は警察手帳を掲げ、僕に身分証を見せろという。僕はパスポートを渡し、それから留学先の学校の学生証も見せた。
「日本人か」
二人の私服警官は僕のパスポートを見ながら目をぱちくりさせる。顔立ちからして彼らはワ族のようだった。
「このあたりにワ族の村がたくさんあると聞いて、それで旅行しにきたんだ」
「今は学校の授業があるだろ」
「そうなんだけど、学校の先生には旅行へ行くからと言って許可をもらっておいたよ」
僕は言った。授業は大事だけど、それだけではつまらない。せっかく留学したのだから、いろんなものを見ておきたい。フィールドワークも大切だ。
「君ね、ここはとても危ないところなんだ」
私服警官は真剣なまなざしで僕を見つめる。たしかに、こんな辺境の山のなかで旅行者がうろうろしていたら、襲われても仕方ない。中国とミャンマー国境のあたりでは大麻を大量に栽培している。黒社会マフィアも大勢いることだろう。
私服警官は車で送ってあげるから、滄源の町まで帰ろうという。だけど、せっかくここまできて引き返すわけにもいかない。ほかにも見たいところはたくさんあった。僕は旅行したいからといって断った。
「それにしても、なんでこんな山のなかへきたんだ? なにもないだろ?」
彼はほんとうに不思議そうだった。
「昔、ここのワ族がイギリスの軍隊を撃退したと本に書いてあったから、どんなところなのか見たかったんだよ」
十九世紀末期、当時、ミャンマーを植民地にしていたイギリスが国境を越えてこの山の中へ進攻してきたのだった。班洪一帯を支配していたワ族の王様が軍隊を組織して山岳戦を展開。イギリス軍を見事に追い払った。
「ワ族は勇敢な民族だ」
私服警官の一人がうんうんとうなずく。
「日本軍も追い払ったけどな。ガッハッハ」
もう一人はそう言って豪快に笑った。
「ところで日本の札を持っているか?」
私服警官が僕に訊く。
――やばいなあ、警官にカツアゲされてしまうかもしれないなあ。
と思いながら、財布に入れておいた一万円札を見せた。
「この人は誰だ?」
私服警官は福沢諭吉を指す。
「昔の哲学者だよ。百何十年も前に日本が解放改革をしたとき、日本は近代化すべきだと提唱したんだ」
「そうなのか。これは人民元にするといくらだ」
「六百元くらいかな」
「高いな。もっと細かい札は持っていないか?」
「ないよ」
「両替してもらって、日本の札を記念に持っておきたかったんだけどな。六百元はさすがに出せないな」
彼は残念そうに首をひねる。
「お兄さん、それは闇両替ってやつだよ。違法行為だよ」と突っ込みを入れたくなったけどやめておいた。僕はたんに珍しい外国の紙幣を見たかっただけだったのだとわかり、ほっと胸をなでおろした。
私服警官はもう一度、僕に滄源の町まで送るからと誘ってくれたのだけど、やはり僕は断った。彼らはあきらめてパジェロで去っていった。
そのやり取りでなんだか心がなえてしまった僕は、ワ族の集落へ行くのをやめて宿まで引き返した。
カップラーメンで夕食を済ませ、町をぶらぶら散歩した。といっても小さな町なので散歩はすぐに終わってしまう。人通りもない。薬局へ戻るとのんきな父さんみたいな顔をした亭主がテレビを見なさいと進めてくれた。薬局の一階にテレビがあり、宿泊客が集まってそれを見ている。僕はプラスチックの小さな腰かけに坐り、テレビを眺めた。
この宿の宿泊客は道路工事の人夫だった。時々、誰かがたばこを配る。僕もたばこを配った。自分がたばこを吸うときは人にも配るのがこちらの習慣だ。
薬局のカウンターのなかでは小林幸子みたいな顔をした女将さんが、せっせと帳簿をつけている。のんきな父さんはその横でだらしなく女将さんにもたれかかり、テレビを見続ける。時折、女将さんは「あなたはかわいいわね」といったふうにのんきな父さんの頬をさする。のんきな父さんは「へへへ」とまんざらでもなさそうに笑う。倖せそうなふたりだった。
九時前に部屋へ戻り、早めに寝ることにした。ベッドは半分くらいしか埋まっていない。真夜中過ぎ、宿泊客ががやがやと入ってきて、残りのベッドが全部埋まった。窓の外を見ると、通りにはトラックが何台もとまっている。トラックの運転手が泊まりにきたのだった。
真夜中、外のトイレへ行って、ぼんやりと夜空を見上げた。大小さまざまな星が一面にびっしりと輝いている。きれいだ。物音もなにもしない静かな夜だった。
翌朝、僕はまたバスに乗り、別の少数民族が暮らす町を目指した。
(2016年8月20日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第372話として投稿しました。
『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/