風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

資料写真の前衛的な縦横比率変更、あるいは近代的リアリズムの不成立?(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第385話)

2018年03月16日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 中国人スタッフから上がってくる資料に写真が貼りつけてあると、たいていの場合、写真の縦横比率を思いっきり変更してある。普通の写真で撮影したのにまるで魚眼レンズで撮影したようにビヨーンと横へ伸びていたり、縦に伸ばし過ぎて人間がマッチ棒のように細長くなっていたりする。とてもへんてこりん写真だ。見ていてなんだか落ち着かない。
 以前は、写真は自然に見えるように比率をあまり変えてはいけないといちいち指導していたのだけど、十人いればほぼ十人が縦横比率を前衛芸術的に変更してくるうえに、何度言ってもなおらないので、僕は白旗をあげてその指導をあきらめてしまった。僕自身が資料を作る時は、そのビヨーンと伸びた写真を自然に見えるくらいの比率になおしてパワーポイントやエクセルへ貼りつける。
 中国人がなぜこんなことをするのかといえば、どうも写真の中身よりも、写真の枠の大小をそろえることを優先させるからのようだ。
「この写真はおかしくない? だって、この人は団子みたいにまんまるくなってるじゃない?」
 と僕が問いかけても、
「こうしないと枠がそろわないから」
 たいていの中国人スタッフは首をひねり、そう答える。
「見ていて不自然でしょ。気持ち悪くない?」
 僕が質問を続けると、
 ――あんまり気にならないけど。
 というふうに困惑したように首をかしげる。
「このパワーポイントの資料は二〇枚あるよね。たしかにきれいに枠がそろっているけど、二〇枚分の写真の枠をそろえるのは大変だし、むりにそろえる必要はないよ。ほら、こんなふうにして写真がきれいに見えるようにしてみたら」
 僕はパソコンの画面をいじりながらパワーポイントに貼りつけてある写真の枠の大小を変えて――枠の縦横比率と同時に写真の縦横比率も変わる――写真が自然に見えるようにしてみると、
「これでは枠がそろわないから、おかしくなってしまう。きれいに見えない」
 と中国人スタッフは慌てる。
「うーん」
 僕はうなってしまった。
 彼らにとってなによりも大切なのは、全ページの枠がそろっていて、パッと見で「きれいそう」に見えることなのだ。そうしてよい第一印象を与えることがだいじで、写真自体の見栄えは二の次になってしまう。
 僕にしてみれば、縦横に異常に長くなった写真は見るにたえないものなのだけど、彼らはまったくといっていいほど気にならない。
 おそらく、こういうことなのだろう。
 僕は自然主義リアリズムの視座で写真を見ている。ほとんどの日本人は自然主義リアリズムの考え方で写真を見る。だから、写真が自然に見えることが最優先になり、枠の大小をそろえることには気を払わない。しかし、中国人――すくなくとも僕が今仕事場で接している中国人たち――は「自然主義リアリズム」の視座がないので、写真が自然に見えるかどうかには気を払わない。彼らには「自然主義リアリズム」などよりももっと大切な考え方や原理ドグマがあり、それに従えば、写真の縦横比率をゆがめてでも枠をそろえるほうが切実なこととなる。ただ、彼らのその考え方や原理ドグマがなになのかは、僕はいまだによくわからない。
 もちろん、これはどちらがいいとかわるいとかの問題ではなくて、考え方が違うということだけなのだけど。



(2016年12月15日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第385話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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