風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第14話

2012年07月12日 08時15分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 あなたが変わらなければ、なにも変わらない


 僕は公園へ足を踏み入れた。
 遠くで犬が吠えている。
 ベンチへ近づいて人影を確かめると、やはり遥の父親だった。彼はかがみこむようにして足元の砂を見つめ、いらだたしげに貧乏ゆすりをしている。
「まだいたんですか」
 僕は声をかけた。
「また会ったね。瀬戸君――だったかな」
 男は顔を上げ、作り笑いを浮かべた。まったくなじめない下卑た笑顔だった。相手の大切なものを掠め取って自分の欲求を満足させたいと顔に書いてある。ほかの人間にはそんな愛想笑いが通じるのかもしれないけど、僕には通じない。通じさせない。
「遥のことはあきらめてください」僕は言った。
「さっき君たちのマンションまで行ったら、ちょうど宅配便がいてね、ドアの陰に君の姿が見えたから引き返してきたんだ。君を説得しないことには、遥と話もできないからね」
 顔は尻尾を振る犬のように笑っているけど、目は底冷えのする擦り切れたまなざしだった。
「僕たちの家へきてもらっては困ります。それに、説得なんてむだですよ」
「私を切り捨てないでほしいな」
 彼は、憐れみを誘うように首をすくめる。どこまでも計算高い男だ。人をなめてかかるにもほどがある。
「あなたが遥のお母さんを切り捨てたことがすべての原因ですよ」
「あの子が母親といっしょに暮したがって、家庭裁判所もそれを認めてしまったんだよ。遥の母親に子供の養育能力がないことをいくら言っても理解してもらえかった。遥を取られてしまった」
 男は都合の悪いところには触れず、自分の言い分だけを言った。
「遥は自分のお母さんを支えてあげたかったんだと思いますよ。遥の話を聞いているとそんな気がします。子供心にかわいそうだと思っていたんですよ」
「なにがかわいそうだ」
 男は顔をゆがめて吐き捨た。僕はなにも答えず、冷ややかに彼を見下ろした。思わず本性を表に出した男はしくじったという表情を浮かべ、また見え透いた愛想笑いを作った。それが大人の流儀だとでも言いたげに。愛想さえ振りまけば、自分の本心を包み隠せると勘違いして。
「君、坐ったらどうだ。立っていられると、どうも話しにくくてね」
「このままでいいです」
 僕は男の誘いを断った。相手のペースに乗せられるのはごめんだ。僕は僕のペースで話したかった。
「頼む」
 突然、男はベンチを降り、
「この通りだ。遥に会わせてくれ」
 と、地面に額をこすりつける。
「やめてください」
 これも計算のうちだとわかっているから、土下座をされてもなんとも思わなかった。僕は動揺しない。僕がぐらついたら、遥を守れない。
「私と二人っきりで会うのが嫌だと遥が言うのなら、君が立ち会ってくれてもいい」
「立ってください」
「私は遥を取り戻したい。どうか、力になってくれ」
「そんなことはできません。今朝、お話したとおりです」
「君が遥に引き会わせてくれるというのなら、君たちの同棲は認めよう」
「なにを言っているのですか。あなたに認めてもらう必要なんてどこにもありませんよ。あなたは他人です」
「他人なら他人でかまわない。君が遥と私の間を取り持ってくれたら、君たちのことは全面的にバックアップさせてもらう」
「なんですか、それ」
「遥に仕送りもする。君たちだって助かるだろう。君たちの面倒は見させてもらう」
「いりません。僕たちはふたりできちんと暮しています。いちばん困るのは、あなたに出てこられることです。遥が傷つきます」
「私も遥のことはずっと心配している。一日だって忘れたことはない。だから、こうして君にお願いしているんだ」
「心配するというのなら、遥をそっとしておいてあげてください」
「私はもう一度お父さんと呼んで欲しい。父親として認めて欲しいんだ。遥に拒絶されたのでは、人間として失格したと言われているようでつらい」
「失格したんですよ」
 僕ははっきり言った。遥の父親はきっとまなじりをつりあげて僕を睨み、
「これだけ頼んでもわかってくれないのか。人としてどうかと思うがね」
 と言いながら立ち上がった。スラックスについた砂を払ってベンチに坐り直す。彼は、憤りをこらえきれないように鼻を鳴らした。
「人としてどうかと思うのは、あなたのほうだと思いますよ。取引をして僕を抱きこもうとしたでしょう」
 僕は呆れてしまった。彼の理屈では、自分の言うことを聞いてくれない人間はみんな人でなしということになってしまう。
「それのどこが悪いんだ」
「問題は、あなたが遥のことをこれっぽちも考えていないことです。だから、遥を理解しようとせずに、目先の取引に走るんですよ。遥は変わろうとしています。つらいことを乗り越えて強く生きようとしています。自分と戦っているんですよ。昔の話を蒸し返されて足を引っ張られたら、どうにもならないじゃないですか」
「足を引っ張っているのは君のほうだろう」
 男は嫌そうに顔を背ける。
「どうしてですか」
「嫁入り前の娘をたぶらしかして、いっしょに暮しているじゃないか」
「たぶらかしてなんかいません」
「しかし、君の歳で同棲するだなんて、どうかしていると思うがね」
「どうかしているのはあなたのほうですよ」
「私はモラルの問題を言っているんだ。規則を守れない人間が社会へ出て通用すると思っているのかね」
「同棲してはいけないなんてルールはどこにもありません」
「世間の目というものがあるだろう。今は学生だから暢気に構えていられるかもしれないが、君も世間へ出れば厳しい目にさらされるんだ」
 遥の父親は作戦を変えて、僕たちの仲を引き裂こうとするつもりのようだ。僕たちの日々の営みを否定させはしない。
「そうして、あなたみたいに世ずれしてしまうんですね。取引さえすれば、なんでも手に入ると思って」
「大人をからかうのもいい加減にしろっ」
「僕は大真面目に言ったつもりです。あなたは大人ではなくて、小人《しょうじん》です。ほんとうの大人なら遥のことをきちんと考えてあげられるはずですよ」
「だから同棲なんてやめろと言っているんだ。もし妊娠でもしたら、君はいったいどういう責任を取るつもりなんだね」
「その時は働きます。遥と僕たちの子供をきちんと育てます」
「そんなこと、信用できるか。格好いいことだけを言っておいて、逃げる男なんていくらでもいるからな」
「信用できるかどうかは、遥がいちばんよく知っています。僕たちは遊び半分でいっしょに暮しているのではありません。僕の育った家も冷え切った家庭でした。僕たちは、家庭的なぬくもりに飢えているんです。でも、それを親に言ってもはじまりません。だから、ふたりでやさしさを持ち寄って暮しているんですよ。それが僕たちにとって大切なことだからです。人は独りでは生きていかれないから、支えあって生きているんです」
「なにが支えあってだ。乳繰り合っているだけだろ」
「遥も僕も親に家族のぬくもりを与えてもらえませんでしたから、ふたりでそれを作っているんですよ。僕たちはふたりで愛情を育てているんです。あなたには理解できないかもしれませんけど」
「わからないね。破廉恥《はれんち》だ」
「破廉恥なのはあなたのほうでしょう。自分の妻をいじめ抜いて、その挙句の果てに離婚してしまうだなんて。会社で白い目で見られたのも当然です」
「私のことには口を挟まないでほしいな」
「だったら、僕たちのことにも口を挟まないでください。赤の他人ですから」
「君は理屈ばかり言って話にならん」
「いい加減にしてください」
 僕は声を張り上げた。
「わかりました。一つだけ条件を出しましょう」
「なに、条件?」
 遥の父親はずるそうに目を動かし、
「なんだ。はじめからそう言ってくれればいいのに」
 と、にやっと笑った。心根のいやらしさがにじみ出ている。
「今すぐ、遥のお母さんのところへ行って、さっき僕にしたように土下座をして謝ってください。それから、遥のお母さんの愛情と信頼を取り戻して、一緒に仲良く暮してみてください。そうすれば、僕はあなたに会ったほうがいいと遥に勧めますよ。もしかしたら、僕がなにも言わなくても、遥のわだかまりが自然ととけるかもしれません。どうですか?」
「そんなことをできるわけがないだろ。あいつとはもう終わったんだ。君は、人のことも考えずにむちゃばかり言う」
 男は顔を真っ赤にして怒った。
「遥は、あなたとお母さんに仲良くしてほしかったのですよ。それが遥のいちばんの望みだったんです。あなたとお母さんが仲良くすれば、遥も幸せな気持ちになれるんです。むちゃかもしれませんが、間違ったことは言っていないつもりです。あなた自身が変わろうとしなければ、遥に会わせることなんてできません」
「わたしのどこがいけないんだ」
「そこですよ。問題なのはあなたが自分でしたことを反省していないことです。だから、変わることができないんですよ。あなたの傲慢な態度がいちばんの問題なんです。遥に会えるかどうかは、あなた自身が変われるかどうかにかかっているんですよ」
「君みたいな青二才には言われたくないな。君になにがわかるんだ」
「僕はよくわかっています。あなたは自分の都合で遥を振り回そうとしているだけなんですよ」
「振り回してなどいない。あの子のことを思ってのことだ」
「このままのあなたが遥に会えば、遥はまたあなたに傷つけられてしまいます。遥には近づかないでください。僕はこれで失礼します」
 僕は踵を返した。
「君、待ちなさい」
 遥の父は慌てて叫び、
「あの子は私の娘だ」
 と、僕の背中へ言葉を投げつける。
 うんざりだった。
 僕は、振り返りもせずに公園を出た。
 子供は成長するにつれて変わるけど、親は変わらない。子供が変わっても、親が変わらなければ、壊れた親子関係はそのままだ。月日が過ぎて嫌な記憶が薄れ、関係を修復できるような気がすることもあるけど、それは幻想にすぎない。親が変わらなければ、なにも変わらない。また同じことの繰り返しになってしまう。僕は、自分自身の体験で嫌というほど識《し》っていた。
 僕も自分の家でさんざんつらい思いをしたからいろいろ考えたのだけど、結局、僕と遥の両親は、自分の家族を運営するための知識もノウハウも、家族をうまくやっていこうという意識さえもないのだと思う。彼らなりに一生懸命やっているつもりなのだろうけど、なにかが決定的に間違っている。それがすべての問題の根っこにある。その間違いとはたぶん、自分が満足感を得たり、自分の体面を保つために、子供をその道具として扱うことなのだろう。そして、それに気づかない限り、問題はなにも解決しない。親が変わろうとしない限り、親とはできるだけ距離を置いたほうがいい。そんな親なんて、いないことにしておくに越したことはない。同じ問題ばかり際限なく蒸し返されるのは、たまらないから。僕の弟が不登校になった時そうだったように、親は自分の子供がとことん追いつめられて身動きがとれなくなるまで過ちを繰り返す。そこで自分の振る舞いに気づけばまだいいほうだけど、なかなかそうはならない。自分が欲しい解答を出せといって、子供を押しつぶしてしまう。
 遥の父親はなにもわかっていない。わかろうともしない。遥にしてみれば、祟り神みたいなものだろう。
 ワンルームのドアを開けると豆電球だけがついていた。遥はもう眠っていた。明日の朝、遥は大学の図書館でアルバイトがあった。僕は遥を起こさないよう、そっとパジャマに着替えた。
 遥は、安心しきった寝顔で眠っている。明日の晩、きちんと話すことにしよう。
 遥の白い額に口づけ、僕はベッドへもぐりこんだ。




(つづく)


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