2010年 02月 03日に投稿したエッセイです。今は別の仕事をしていますが、自分としては思い入れのある作品です。お暇にでもどうぞ。
「小説家になろう」サイトでもごらんいただけます。
http://ncode.syosetu.com/n6880j/
まえがき
出会った人から大切なことを教えてもらいました。それは、「相手の考えを否定してはいけない」、「いいところを伸ばそう」ということです。簡単にできることではありませんが、それができるようになれば、いろんなことがずいぶんよくなるような気がします。
否定してはいけない
中国語通訳という仕事をしていると、いろんな人の話を聞くことができる。というよりも、興味があろうとなかろうと全身全霊をかたむけて真剣に聞かなくてはいけない。ぼんやり聞いていたのでは通訳などできないから。これがまたいい勉強になる。自分の世界を広げるのに役立ってくれる。
日系広告企業の中国現地法人で勤めていた僕は、去年、広告クリエイティブの技術指導のために日本の本社から派遣されてきた講師の通訳を半年間ほど勤めた。講師のAさんは活きのいい優秀なクリエイターだ。日本へ戻った今は、本職のアートディレクターへ復帰して活躍している。アートディレクターとは、簡単に言えば美術表現といったヴィジュアル面での総合広告演出者のことだ。Aさんは美大出身だった。
彼とは馬が合った。
同世代だったこともよかったのだろう。
一緒に町を歩いていると、Aさんは驚くほど実によく観察する。広告の看板やポスターはもちろん、町のたたずまいや人の様子をよく見ている。そして、Aさんは僕が思ったこととまったく同じことをよく口にした。同じ日本人だからということもあるけど、それだけではない。彼と僕は似たところがずいぶんあった。不思議な縁もあるものだな、といつも心のなかで思っていた。自分と似たような感受性の持ち主に出会えることはごくまれだ。貴重な出会いだ。
初めて中国で暮らしたAさんは、かつて僕がそうなったように、誰でもそうなるように、カルチャー・ショックに悩んだ。
日本と中国では土壌が違いすぎる。
この二つの国は文明の種類が違うと言ってもいいくらいだ。
チームワークを重視して周囲を見回しながら物事を進める村社会の日本人と、周囲のことなど眼中になく自分が世界の中心と信じている中国人とでは、仕事の進め方がまったく違う。当然、クリエイティブという仕事に対する考え方も異なる。Aさんは中国とは水が合うようで、中国の生活そのものは楽しんでいたけど、中国人の同僚はいったいなにを考えているのかと、よく相談を受けたものだった。僕は通訳以外に、いわば中国社会学入門の講師を務めたようなものだ。クリエイティブの先生は彼だけど、僕は中国についての先生だ。そんな気分も手伝って、Aさんにはなかのいい従兄弟のような親しみを覚えた。
彼から学んだことはたくさんある。
そのなかでもいちばん心に残っているのは、彼が、
「否定してはいけない」
と、言ったことだった。
クリエイティブのミーティングでは、どんな広告を創ればよいのかということについて、アートディレクター、コピーライター、デザイナーといったクリエイターそれぞれがさまざまなアイディアを出してみんなで話し合う。ミーティングではもちろん、各人が言いたいことを言って活発に討論すればいいのだけど、その時、他人のアイディアを否定するのではなく、どこを伸ばせばもっとよくなるのか、あるいは、もとのアイディアを発展させてどう工夫すればよいのかを言うべきだとAさんは主張するのだ。
「他人のアイディアを否定しちゃいけないっていうのは、私が会社へ入った時、いちばん最初に先輩に言われたことなんです。それで、先輩方の発言をよく聞いていると、優秀な人はやっぱり否定しない。優秀な人ほど否定しません。かならず、そのアイディアのいいところを見つけて、そこを伸ばそうとするんですよ」
熱く語るAさんの話を聞きながら、いいことを教えてもらったと思った。やはり、彼のほうが先生だ。
Aさんは、ミーティングの時に中国人クリエイターのアイディアを見ると、面白い部分を見つけ、もとネタから発展させていろんなアイディアを繰り出した。アイディアをどう練り上げるかだけを考えている。Aさんがいる間に、世界的に有名なクリエイターの大御所とベテランクリエイターのコンビが日本からやってきて研修会を開いたのだけど、彼らはもっとすごかった。おもしろいアイディアを褒めるのはもちろん、僕が素人目に見てもどうかなと思ったアイディアでも、かならず即座にいいところを見つけて褒める。決して否定しない。彼らはいいところを見つけ出す達人だった。研修会が終わった後、
「さすがですねえ」
と、Aさんと僕は二人でうなずきあったものだった。
もちろん、なんでもかんでも肯定すればよいというものでもない。仕事である以上、幼稚さや粗雑さは許されない。基本はしっかり押さえなくてはならない。Aさんは、若い人に向かってなんども口を酸っぱくして基本的なことを指導していた。
否定してはいけないという考え方は、とてもストイックだ。
誰しも、自分のアイディアがかわいいものだろう。アイディアというのは自分の子供のようなものだから、当然かもしれない。他人のアイディアを見ると、それを否定して自分のほうがもっといいと言いたくなるのも、自然といえば自然だ。だけど、そこはぐっとがまんして、いいところを見つけ出すように努力する。いったん相手の意見を飲みこんだうえで、いいところを咀嚼《そしゃく》して、どうすればもっとよいものになるのかを考える。なかなかできることではないし、かなりの修練が必要だけど、それがすっとできるようになれば、こんなにすてきなことはない。
この否定してはいけない、という禁欲的な考え方は人生のいろんなところで応用できるのではないだろうか。仕事だけではなく、日常の暮らしのなかで家族が言ったことについても、友達が言ったことについても、恋人が言ったことについても。
思えば、今住んでいる世の中には「否定」が満ちあふれている。日本経済はデフレだそうだけど、日本の世間は「否定」のインフレだ。
大人は世間で「ダメ」と言われ続け、子供は学校や家庭で「ダメ」と言われ続け、どれだけの人々が傷ついているだろう。どれだけの「いいところ」が損なわれていることだろう。競争社会だからしかたないと言う人もいるかもしれないけど、実際の世間では「スポーツマンシップにのっとり正々堂々と戦います」というようなことにはなかなかならない。競争社会と言いながら、実際に行なわれていることは、足の引っ張り合い、つまり「否定」合戦であることが多い。自分が努力を重ねていい結果を出すよりも、相手を否定して自分の踏み台に使ったほうが楽だから。相手を「否定」しなければ、逆に自分が「否定」されてしまうから。こんなふうでは、鬱病にかかったり、引きこもりになったり、リストカットしたりする人たちが大勢出るのもむりもない。そうなるなというほうがむりというものだ。
もちろん、さっきも書いたようになんでも肯定して認めればいいというものではない。
この世には悪意の塊のような人もいるから、彼らを認めることはできない。悪意を肯定しては、善意が損なわれるだけだ。昔から言われている。悪貨は良貨を駆逐する、と。仕事の場合、技術的な未熟さを肯定するわけにもいかない。いささか大袈裟なたとえになるけど、この飛行機のエンジンは火が噴くかもしれないけどいいよね、では困る。だけど、よいものを目指そうという心から生まれたアイディアや意見なら、それを否定せずに、どうすればいいところを伸ばせるのかを考えてみればどうだろうか。
簡単にできることではない。
かなりの包容力が必要だ。
他人を「否定」したくなる気持ちは誰だって持っている。それも心の奥の根深いところにあるかなり強い感情だ。負けたくないという意地だ。こんな偉そうなことを僕は書いているけど、果たして自分にできるのかとも思う。それに、よいところを伸ばすつもりで意見を言ったとしても、相手に否定したと受け取られることも多々あるだろう。
だけど、
「否定してはいけない」
と、時折、心にささやきかけてみるだけでも、ずいぶん違ってくるのではないだろうか。
ほんのちょっとしたストイックさが、自分自身やこの世界に広がりを与えてくれるような気がする。いいところを伸ばせそうな気がする。否定しないということが、ひいては愛や慈悲の心が芽生えることへつながるのかもしれない。
否定してはいけない。
人のことも、それから、自分自身のことも。
了
「小説家になろう」サイトでもごらんいただけます。
http://ncode.syosetu.com/n6880j/
まえがき
出会った人から大切なことを教えてもらいました。それは、「相手の考えを否定してはいけない」、「いいところを伸ばそう」ということです。簡単にできることではありませんが、それができるようになれば、いろんなことがずいぶんよくなるような気がします。
否定してはいけない
中国語通訳という仕事をしていると、いろんな人の話を聞くことができる。というよりも、興味があろうとなかろうと全身全霊をかたむけて真剣に聞かなくてはいけない。ぼんやり聞いていたのでは通訳などできないから。これがまたいい勉強になる。自分の世界を広げるのに役立ってくれる。
日系広告企業の中国現地法人で勤めていた僕は、去年、広告クリエイティブの技術指導のために日本の本社から派遣されてきた講師の通訳を半年間ほど勤めた。講師のAさんは活きのいい優秀なクリエイターだ。日本へ戻った今は、本職のアートディレクターへ復帰して活躍している。アートディレクターとは、簡単に言えば美術表現といったヴィジュアル面での総合広告演出者のことだ。Aさんは美大出身だった。
彼とは馬が合った。
同世代だったこともよかったのだろう。
一緒に町を歩いていると、Aさんは驚くほど実によく観察する。広告の看板やポスターはもちろん、町のたたずまいや人の様子をよく見ている。そして、Aさんは僕が思ったこととまったく同じことをよく口にした。同じ日本人だからということもあるけど、それだけではない。彼と僕は似たところがずいぶんあった。不思議な縁もあるものだな、といつも心のなかで思っていた。自分と似たような感受性の持ち主に出会えることはごくまれだ。貴重な出会いだ。
初めて中国で暮らしたAさんは、かつて僕がそうなったように、誰でもそうなるように、カルチャー・ショックに悩んだ。
日本と中国では土壌が違いすぎる。
この二つの国は文明の種類が違うと言ってもいいくらいだ。
チームワークを重視して周囲を見回しながら物事を進める村社会の日本人と、周囲のことなど眼中になく自分が世界の中心と信じている中国人とでは、仕事の進め方がまったく違う。当然、クリエイティブという仕事に対する考え方も異なる。Aさんは中国とは水が合うようで、中国の生活そのものは楽しんでいたけど、中国人の同僚はいったいなにを考えているのかと、よく相談を受けたものだった。僕は通訳以外に、いわば中国社会学入門の講師を務めたようなものだ。クリエイティブの先生は彼だけど、僕は中国についての先生だ。そんな気分も手伝って、Aさんにはなかのいい従兄弟のような親しみを覚えた。
彼から学んだことはたくさんある。
そのなかでもいちばん心に残っているのは、彼が、
「否定してはいけない」
と、言ったことだった。
クリエイティブのミーティングでは、どんな広告を創ればよいのかということについて、アートディレクター、コピーライター、デザイナーといったクリエイターそれぞれがさまざまなアイディアを出してみんなで話し合う。ミーティングではもちろん、各人が言いたいことを言って活発に討論すればいいのだけど、その時、他人のアイディアを否定するのではなく、どこを伸ばせばもっとよくなるのか、あるいは、もとのアイディアを発展させてどう工夫すればよいのかを言うべきだとAさんは主張するのだ。
「他人のアイディアを否定しちゃいけないっていうのは、私が会社へ入った時、いちばん最初に先輩に言われたことなんです。それで、先輩方の発言をよく聞いていると、優秀な人はやっぱり否定しない。優秀な人ほど否定しません。かならず、そのアイディアのいいところを見つけて、そこを伸ばそうとするんですよ」
熱く語るAさんの話を聞きながら、いいことを教えてもらったと思った。やはり、彼のほうが先生だ。
Aさんは、ミーティングの時に中国人クリエイターのアイディアを見ると、面白い部分を見つけ、もとネタから発展させていろんなアイディアを繰り出した。アイディアをどう練り上げるかだけを考えている。Aさんがいる間に、世界的に有名なクリエイターの大御所とベテランクリエイターのコンビが日本からやってきて研修会を開いたのだけど、彼らはもっとすごかった。おもしろいアイディアを褒めるのはもちろん、僕が素人目に見てもどうかなと思ったアイディアでも、かならず即座にいいところを見つけて褒める。決して否定しない。彼らはいいところを見つけ出す達人だった。研修会が終わった後、
「さすがですねえ」
と、Aさんと僕は二人でうなずきあったものだった。
もちろん、なんでもかんでも肯定すればよいというものでもない。仕事である以上、幼稚さや粗雑さは許されない。基本はしっかり押さえなくてはならない。Aさんは、若い人に向かってなんども口を酸っぱくして基本的なことを指導していた。
否定してはいけないという考え方は、とてもストイックだ。
誰しも、自分のアイディアがかわいいものだろう。アイディアというのは自分の子供のようなものだから、当然かもしれない。他人のアイディアを見ると、それを否定して自分のほうがもっといいと言いたくなるのも、自然といえば自然だ。だけど、そこはぐっとがまんして、いいところを見つけ出すように努力する。いったん相手の意見を飲みこんだうえで、いいところを咀嚼《そしゃく》して、どうすればもっとよいものになるのかを考える。なかなかできることではないし、かなりの修練が必要だけど、それがすっとできるようになれば、こんなにすてきなことはない。
この否定してはいけない、という禁欲的な考え方は人生のいろんなところで応用できるのではないだろうか。仕事だけではなく、日常の暮らしのなかで家族が言ったことについても、友達が言ったことについても、恋人が言ったことについても。
思えば、今住んでいる世の中には「否定」が満ちあふれている。日本経済はデフレだそうだけど、日本の世間は「否定」のインフレだ。
大人は世間で「ダメ」と言われ続け、子供は学校や家庭で「ダメ」と言われ続け、どれだけの人々が傷ついているだろう。どれだけの「いいところ」が損なわれていることだろう。競争社会だからしかたないと言う人もいるかもしれないけど、実際の世間では「スポーツマンシップにのっとり正々堂々と戦います」というようなことにはなかなかならない。競争社会と言いながら、実際に行なわれていることは、足の引っ張り合い、つまり「否定」合戦であることが多い。自分が努力を重ねていい結果を出すよりも、相手を否定して自分の踏み台に使ったほうが楽だから。相手を「否定」しなければ、逆に自分が「否定」されてしまうから。こんなふうでは、鬱病にかかったり、引きこもりになったり、リストカットしたりする人たちが大勢出るのもむりもない。そうなるなというほうがむりというものだ。
もちろん、さっきも書いたようになんでも肯定して認めればいいというものではない。
この世には悪意の塊のような人もいるから、彼らを認めることはできない。悪意を肯定しては、善意が損なわれるだけだ。昔から言われている。悪貨は良貨を駆逐する、と。仕事の場合、技術的な未熟さを肯定するわけにもいかない。いささか大袈裟なたとえになるけど、この飛行機のエンジンは火が噴くかもしれないけどいいよね、では困る。だけど、よいものを目指そうという心から生まれたアイディアや意見なら、それを否定せずに、どうすればいいところを伸ばせるのかを考えてみればどうだろうか。
簡単にできることではない。
かなりの包容力が必要だ。
他人を「否定」したくなる気持ちは誰だって持っている。それも心の奥の根深いところにあるかなり強い感情だ。負けたくないという意地だ。こんな偉そうなことを僕は書いているけど、果たして自分にできるのかとも思う。それに、よいところを伸ばすつもりで意見を言ったとしても、相手に否定したと受け取られることも多々あるだろう。
だけど、
「否定してはいけない」
と、時折、心にささやきかけてみるだけでも、ずいぶん違ってくるのではないだろうか。
ほんのちょっとしたストイックさが、自分自身やこの世界に広がりを与えてくれるような気がする。いいところを伸ばせそうな気がする。否定しないということが、ひいては愛や慈悲の心が芽生えることへつながるのかもしれない。
否定してはいけない。
人のことも、それから、自分自身のことも。
了