風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

おいしいトマト卵炒めの作り方 (エッセイ)

2011年03月13日 11時22分06秒 | エッセイ
 
 ラーメン、餃子、麻婆豆腐、回鍋肉などなど、中国にはおいしい料理がたくさんあるけど、僕のいちばん好きな中華料理はトマト卵炒めだ。略してトマタマ。
 日本の中華料理店ではほとんど見かけないから、ご存知ないかたも多いかもしれないけど、トマタマは中国ではごく一般的な家庭料理だ。トマトと卵を鍋で炒めるだけ。いたってシンプル。
 初めて中国を旅したバックパッカーはたいていトマタマを食べて感激する。こんなおいしい料理があるのかと驚いてしまうのだ。僕も初めて食べた時はびっくりした。ちょっぴり甘くておいしい。日本人の口によくあう。トマトを炒めてしまうところがまたおもしろい。生まれてこのかた、トマトは生のまま食べるものだと思っていた。トマトに熱を加えるという発想がなかった。
 僕はトマトが大好きだ。トマトを見るとむしょうにはちみつをかけて食べたくなる。愚弟もとろりとはちみつをかけたトマトが好物だ。ある日、彼といっしょにむさぼるように食べていたら母が笑った。
「離乳食やねえ」
「なんやそれ?」
 弟が訊いた。
 僕は黙って食べている。弟と囲む食卓は団欒《だんらん》の場ではない。食物を争う戦場だ。話をすれば、そのぶん、料理を取られてしまう。話しているひまなどないのだ。愚弟といっしょにテーブルにつくと、彼が人類を滅ぼそうとする怪獣か悪のショッカーに見えてくる。大人になってからもその癖が抜けない。
「離乳食のとき、いつもトマトにはちみつをかけて食べさせてたのよ。ふたりとも好きやったからねえ」
 母はなつかしそうだ。
 なるほど、これでトマトが好きな理由がわかった。僕と愚弟にとって、はちみつトマトは生まれてはじめておいしいと感じた食物なのだ。だから、トマトを見るとはちみつをかけて食べたくなってしまう。ゼロ歳児の体験はおそろしい。体の奥深くにしっかりすりこまれてしまっている。
 長旅から日本へ戻った僕は、実家の台所でさっそくトマトと卵を炒めてみた。だけど、まったくおいしくない。中国で食べたあの味とはまったく違うものができてしまう。何度かためしてみたけど、だめだった。調味料が違うからだろうと見当はついたのだけど、なにを使えばよいのかわからない。
 捨てるのももったいないから、しかたなくできそこないのトマタマを食べた。だけど、そんなまずいトマタマもどきを食べるとよけいに本場のトマタマが恋しくなる。
 そんなある日のこと、啓示が頭にひらめいた。
 そうだ。中華街があるじゃないか。
 中華街なら、ほぼ本物に近いトマタマを出してくれるレストランがあるはずだ。
 つぎの休みの日、僕はJR神戸線に乗って元町の中華街へ行った。
 漢方薬や饅頭《まんとう》の蒸籠《せいろ》が並んだ商店街の奥に中華レストランのショーウインドウがあった。僕はわくわくしながら覗きこんだ。
 見つけた!
 蝋で作ったトマタマの模型が置いてある。これでついにトマタマを食べられる。
 だけど、値段に視線を移した僕は思わずたじろいでしまった。なんと七百円もする。日本では当たり前の価格かもしれないけど、中国の田舎町では一皿六〇円くらいで注文できた。物価の差は頭では理解できるけど、体では納得できない。同じものを十倍以上の値段を払って食べるのかと思うと、深く考えこんでしまう。考えこみすぎて迷っているうちに食欲がなえてしまった。やっぱり、本場の田舎町で安くておいしいトマタマを食べたほうがよさそうだ。
 なんだかなあ。
 割り切れない思いを抱いて中華街を出た。
 その後、中国に留学した僕は思う存分トマタマを食べた。トマト卵炒めだけではなく、トマト卵スープもなかなかいけることを発見した。
 留学中のある日、語学クラスのおばあちゃん先生が留学生を自宅へ招いて手作りの料理を振舞ってくれた。彼女は初級クラスの「基礎漢語」を担当していた。
 初級クラスは、教え上手の教師が担当する。おばあちゃん先生も教えるのがうまかった。中国語をまったく話せない生徒を相手にして、すべて中国語で説明するのだからたいへんだ。話が通じないことなんてしょっちゅうだから、我慢強くなければ務まらない。おばあちゃん先生は上級クラスの中作文も受け持っていた。外国人が書いた作文を読んで、朱を入れなければならないので手間がかかる。経験豊富でベテランの彼女はむずかしい授業ばかり担当していた。
 おばあちゃん先生は品があってほがらかな人だった。毎年海外旅行へ行くのが楽しみで、そのためにがんばって英語を勉強しているそうなのだけど、
「Everyday study , everyday forget」
 と言って、からから笑う。
「もう歳だから暗記できないのよ。わたしたちの世代は社会主義の教育を受けてロシア語が第一外国語だったから、基礎的な英語力もないし。でも、ほんのすこしでも話せたら楽しいわ」
 テーブルには、鯉の姿揚げ、鴨の丸焼きのぶつ切り、冬瓜のスープといったご馳走のなかに僕の大好物のトマタマもならんでいた。
 とろとろの半熟の卵にこまかく刻んだ真っ赤なトマトがまじっている。トマトから染み出た赤い汁がいかにもいい感じだ。一口食べると、ふわっと味が広がる。卵の炒め具合もちょうどいいし、なによりトマトの完熟した甘さがいい。今まで食べたなかで最高のトマタマだ。
 僕は、こんなおいしいトマタマをどうやったら作れるのかと質問した。
「そうねえ。普通に作っただけなんだけど」
 先生は、なんでそんなことを訊くのかと不思議そうだ。
「トマトをよく選ぶことね。ちゃんと熟したのでないとおいしくないでしょ」
「素材を選ぶのはたいせつですよね。それで、調味料はなにを使っているんですか?」
 問題の核心へ切りこんだ。
「ラードで炒めるからラードの味はついているわよね」
「そうかあ。ラードだったんだ」
 僕は嬉しくなった。やっと答えを見つけた。
「自家製の普通のラードだけど。あとはちょっと塩を振るくらいかしら。特別なことはなにもしてないわ」
「先生、ありがとうございます。僕は中華料理のなかでトマト卵炒めがいちばん好きなんですよ」
 思わずカミングアウトすると、彼女は愉快そうに笑った。
「トマト卵炒めは今日のおかずのなかでいちばん安上がりの料理よ。作り方だっていちばん簡単だし」
「いや、もちろん、鯉も鴨も好きですよ。日本だと食べる機会がめったにないですし」
 まずいことを言ってしまったかなと思いつつ、僕は取り繕った。
「まあいいわ。好きなんだったら、たくさん食べていきなさい」
 おばあちゃん先生の作った料理はトマタマにかぎらず、どれもおいしかった。旦那さんが料理が上手で、彼から作り方を教えてもらったのだとか。先生は次の料理を出すために、厨房へ入った。次から次へといろんな料理を出してくれた。
 先生の様子が落ち着いたところで、
「ところで、先生の旦那さんは今日はいらっしゃらないんですか?」
 と、僕は訊いた。
「お寺へ行ってるわ」
「お参りですか?」
「寺に籠もっているのよ。うちの亭主は回族なの。今はムスリムの断食月《らまだん》でしょ。今頃、張り切ってお祈りをしているでしょうね」
 回族はイスラム教を信仰する民族で、外見は漢族とほぼ同じだ。僕が留学していた雲南省は中国のなかでも回族が比較的多い地域だった。中国では歴史上何度かイスラム教徒の弾圧や粛清があったので、その際にほかの地域から逃げこんできた回族が多いらしい。
「旦那さんは、ラマダンの間、ずっとお寺にいるんですか?」
「そうよ。彼がいないと羽を伸ばしてのんびりできるわ」
 彼女はほっとした顔をしている。昔、日本では「亭主元気で留守がいい」というCMのフレーズが流行ったことがあったけど、どこの国でも同じようだ。
「先生の旦那さんがイスラム教ということは、先生もイスラム教なんですか? イスラム教徒は同じ信者同士で結婚するか、片方が信者でない場合はイスラム教に改宗するっていう話を聞いたことがあるんですけど」
 僕は、彼女は漢族だったはずだと思いながら訊いた。
「イスラム教徒じゃないわよ。断食してお寺に籠もったりするのなんて、やりたくないもの。退屈でしょ。改宗するかどうかは人によるけど、わたしは宗教に興味がないから改宗なんてごめんだわ。彼が寺籠もりしたりするのは好きでやっていることだから、それでかまわないけど。彼は彼で好きなことをすればいいし、わたしはわたしでやりたいことをやるわ。ただ、ふだんは豚肉料理を作れないわね。べつに作ってもいいんだけど、彼は食べないし、わたし一人じゃ食べきれないもの。だから、どうしても鶏肉や牛肉ばかりになるわね」
「それだと、ラードはなんの脂で作ったんですか? 牛ですか?」
「豚よ」
「旦那さんがいらっしゃるときは料理にラードは使わないのでしょうか」
「使うわよ。厳密にいえば、だめなんだけどね。まあいいじゃない。彼も気にしていないから」
 夫婦の宗教が違うと生活のこまかいことまで厳格に戒律にしたがうのはむりがあるのだろう。杓子定規にやらずに、あいまいにしたほうがうまくいくのかもしれない。イスラム教といえば、つい厳格なものを想像してしまうけど、いろんな形があるようだ。仏教やキリスト教にもいろんな信仰の作法があるように、イスラム教もそうなのだろう。
 おばあちゃん先生は自分は無宗教だと言っていた。お墓参りもしない。父母のことは愛しているけど、自分の胸のなかにそんな想いがあればそれで十分。自分はお墓も要らないから死んだら散骨してくれればそれでいいと。熱心なイスラム教徒の亭主と無神論者の妻が夫婦生活を営むという中国は面白い国だ。いろんなものがよくも悪くもいっしょくたに同居して、想像のつかない取り合わせがいっぱいある。なんでもありのカオス的な面白さといえばいいだろうか。
 さて、自家製のラードを作りたいところだけど、それがわからない。市販品のラードも売っているけど、味がいまいちだ。化学調味料や添加剤が自然の味を損ねている。一言で言えば、味の素くさい味だ。おばあちゃん先生に頼めばラードをわけてもらえるだろうけど、やっぱり自分で作りたい。そこで、地元の友人にラード作りを手伝ってもらうことにした。
 近所の農業市場へ行って豚の脂身を買う。
 豚肉コーナーでは新鮮な豚の切り身を売っている。それぞれの店が豚一匹をまるごと解体して売るので、ロース、ヒレといった肉以外にも、レバー、腎臓、心臓、豚足、耳、尻尾などなどあらゆるものがならんでいる。もちろん、脂身も置いてあった。
 市場にはずらりと店がならんでいるけど、いつも買う店は決めておく。そうでないと高い値段をふっかけられるからだ。何軒かまわって良心的な値段の店で買い、信用できると思えばかならずそこで買うようにする。こっちはお得意さんだから、向こうはだますような真似はしない。僕は気の好さそうな亭主が開いている店で豚肉を買っていた。肉の選び方をよく知らない僕がまずい肉を選んだりすると「やめときな。こっちのほうがいいよ」などと助言してくれたりする。
 手頃な白い脂身を二キロほど買った。
 下宿の流し台できれいに洗って皮を剥ぎ、包丁でぶつ切りにする。どんぶりに山盛りになった脂身をあらかじめ温めておいた中華鍋にざっと放りこむ。
 じゅわっと脂の弾ける轟音といっしょにものすごい油煙があがる。
 中国人に部屋を貸すと部屋中が油だらけになるので嫌だというマンションの家主が多いという話を聞いたことがあるけど、どうして油だらけになるのかわかった。中華料理は油の使い方がはげしいこともあるけど、自分でラードを作ることも大きな原因だろう。
 もうもうと立ちこめた煙でむせる。僕は急いで台所の窓を全開にした。
 やがて煙は落ち着いて、脂身はとろりととろけだす。友人は豚肉をこまかく切って鍋へ入れた。肉がすこしあればラードに肉の旨味がついて香ばしくなるのだとか。ラードで中華スープを作ったりした時、肉のかけらがすこしあるとスープの味もぐっとおいしくなるという。肉が傷んでしまわないかと気がかりなところだけど、問題はない。ラードでからからに揚げてしまうので保存がきく。なるほど、生活の知恵だ。
 中華鍋の中身をアルミ製の小鍋へ移した。脂身はまだ溶けきってはいない。弱火にしてとろとろ煮込む。
 氷のかけらがちいさくなるように白い脂身のかたまりが溶けて、あめ色の油がだんだん増える。脂がすっかり溶けて完全な液体になったあとも、数時間かけてじっくり煮込んだ。夜、火を消してそのまま置いておいた。
 翌朝、アルミ鍋の蓋を取ると、脂はすっかり冷えて白いラードができあがった。いい感じだ。
 その夕方、さっそくトマタマ作りに挑戦した。
 熟れたトマトと地卵を市場で買ってきた。
 トマトを刻んで塩をふっておく。卵を溶いて準備完了。
 おたまでざくっとラードをすくいとる。けちけちせずにたっぷり使うのがコツ。
 ラードを炒めると香ばしい香りがたちのぼる。さきに溶き卵を入れてふわっとふくれさせ、トマトを放りこむ。さっと弱火に落とした。横着せずにせっせとおたまでかきまぜる。
 三分もたたないうちにトマタマができた。今度こそ、ちゃんと仕上がったようだ。
 アツアツのうちにいただこう。
 ほっこりと湯気の立ったトマタマを口へ運んだ。
 めちゃくちゃおいしい、と言いたいところだけど、まずまずだ。おばあちゃん先生がこしらえてくれたトマタマにはかなわない。だけど、ちゃんとトマタマの味がする。形になっている。初心者にしては上出来といったところだろうか。あんまり欲張ってはいけない。自分の手でトマタマができただけでも大進歩だ。僕は満足した。
 おいしいトマト卵炒めの作り方の秘訣は、ラードにあった。おいしいラードをたっぷり使えば、トマタマは上手に仕上がる。ほかのおかずにしても、肉野菜炒めでもなんでも中華料理の味になる。
 考えてみれば、ラードは中華料理の基本だ。日本の料理でいえば、みりんの使い方を覚えるようなものだろう。みりんを使わなければ、煮物にしろ炒め物にしろ日本料理の味がでないのと同じように、ラードを使わなければ、中華料理の味にならない。どうやってトマタマを作るかという目先のことばかり考えて、そもそも中華料理のベースになる調味料はなにかという初歩的なことを考えていなかった僕がうかつだった。
 スポーツは足腰の動作、文学は日々の読書と思索、中華料理はラードの使い方、なにごとも基本がたいせつ。
 三年がかりの謎解きがようやく終わった。

 

あとがき

 2010年3月6日執筆作品です。 
 「小説家になろう」のマイページでもごらんいただけます。URLは以下のとおり。
 http://ncode.syosetu.com/n1672k/
 


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