今回の基調講演は作家の柳田邦男さんでした。
本来はヒューマンエラーのお話と言う事だったのですが、おりしも脳死移植法案が可決されて、それに対して意見を述べる委員会の委員であり、当事者でもあると言う事から講演内容を変更して脳死移植法に関してのお話を半分されました。
脳死移植は、死生観に関わり日本人のとらえ方は海外とは違う、97年法案が成立したが、脳死を人の死として割り切れるのかどうかと言う話から始まりました。
死と言うものを何処で線引きをするのか、レスピレーターの登場で心臓の鼓動は維持され、血流が維持される事で、脳が死んでいても肉体が生きている状況が現出してしまって、それへの考え方、捉え方にそれぞれに違いが生じていると説明をされました。
そして、死の定義と言うものについて、全米における20000症例の脳死状態の患者さんが蘇生したかどうか、の調査が行われその結果1例として蘇生がなかった事から脳死は人の死として不可逆的なものであると定められたそうです。
その直後、南アフリカに置いて、世界最初の心臓移植が行われ物議を醸し出した事件から始まったそうですから、世界でも騒然とした中から現状に到った、と言う事が理解出来ました。
命を救う手段が移植しかないと分かっている移植医療側からすると、正直な話中々此処まで来るのでも大変な事で、その気持ちも分からない訳ではないと、理解を示しながら、柳田さんは日本人のダブルスタンダードは曖昧さを余地として残すもので、日本人らしい良いものなのではと考えられているそうです。
西洋文化的に科学で一線を引いて決めてしまう事は、日本人の感覚、文化、文明にそぐわない、日本人の可能性を残す文化、独特の曖昧な文化は素晴らしいものであると思う、と強調されていました。
具体的には、グレーゾーンを残す事で対応すべきなのではないか。
A案が成立してしまった事で、他の案が審議もされずに廃案に到った事を残念に思う。
ドナー家族への配慮を含んで考えられるべきなのではないか、と疑問を提議されました。
その背景にあったのは、実際に脳死移植が国内で行われた後の検証で判明した事実が重く圧し掛かっているそうです。
実例として紹介された話の内容をここで書くのは拙いかも知れませんので書きませんが、たった一つ言える事は、世の中は何事に置いても当事者の辛さ、大変さを理解しない興味半分でしかない方がいて、遺族は大変に傷付く、と言う事が起きてしまうそうなのです。
なので、提言として葛藤している遺族への配慮、支えて行くシステムが欠落していて、それを構築して行く事がとても重要であろう、とご自身が遺族となった経験上をも踏まえて語られました。
一番心配している事は遺族の同意で移植が可能になった事で、年齢制限が取り払われてしまって、医療の現場で社会的弱者が医療側の提案に対して抵抗する事が出来るのかどうか、そうして移植がごり押しされてなし崩し的になる事が、本当に移植医療にとっても良い事なのか、と大きな疑問を投げ掛けられました。
このような事は、日本の文化的基盤を壊しかねないか不安を感じているそうです。
そして最後には、喪失感への配慮を含んだシステムの構築、が急務であると考えている、と締め括られました。
拝聴していて感銘を受けるとともに私自身が考えた事は、仏教で言う所の布施の概念であり、仏陀の前世が聖人に身を捧げたウサギであった、と言う寓話でした。
私自身はこの体は私自身の命を乗せている乗り物であり、それは本来天のものである、と考えています。
つまり、私は体すら天、偉大な生命体から分け与えられた借りもので、それを布施する事に対しては違和感がない、と感じているのです。
その裏には、私自身が30歳前の生命力が最も旺盛な時期に死線をさ迷った、偶々運が良く生き返れた、と言う実感がある事は否定出来ません。
なので、独特なものなのかも知れませんので、他人に押し付けるつもりは毛頭ありません。
ただ、仏陀の前世が身を捧げ、その事が最も尊い布施である、と言う事と臓器移植が私の中では重なって違和感がない、と言う事実だけです。
生き残る可能性がある命に次を託す、その事がとっても尊い事なのでは、と考えています。
それだけです。
難しい問題ですが、今後世界的にも日本が批判される事態と成って来ており、将来に向けて解決をして行かなければ成らない、重要な課題である、と感じるのです。
本来はヒューマンエラーのお話と言う事だったのですが、おりしも脳死移植法案が可決されて、それに対して意見を述べる委員会の委員であり、当事者でもあると言う事から講演内容を変更して脳死移植法に関してのお話を半分されました。
脳死移植は、死生観に関わり日本人のとらえ方は海外とは違う、97年法案が成立したが、脳死を人の死として割り切れるのかどうかと言う話から始まりました。
死と言うものを何処で線引きをするのか、レスピレーターの登場で心臓の鼓動は維持され、血流が維持される事で、脳が死んでいても肉体が生きている状況が現出してしまって、それへの考え方、捉え方にそれぞれに違いが生じていると説明をされました。
そして、死の定義と言うものについて、全米における20000症例の脳死状態の患者さんが蘇生したかどうか、の調査が行われその結果1例として蘇生がなかった事から脳死は人の死として不可逆的なものであると定められたそうです。
その直後、南アフリカに置いて、世界最初の心臓移植が行われ物議を醸し出した事件から始まったそうですから、世界でも騒然とした中から現状に到った、と言う事が理解出来ました。
命を救う手段が移植しかないと分かっている移植医療側からすると、正直な話中々此処まで来るのでも大変な事で、その気持ちも分からない訳ではないと、理解を示しながら、柳田さんは日本人のダブルスタンダードは曖昧さを余地として残すもので、日本人らしい良いものなのではと考えられているそうです。
西洋文化的に科学で一線を引いて決めてしまう事は、日本人の感覚、文化、文明にそぐわない、日本人の可能性を残す文化、独特の曖昧な文化は素晴らしいものであると思う、と強調されていました。
具体的には、グレーゾーンを残す事で対応すべきなのではないか。
A案が成立してしまった事で、他の案が審議もされずに廃案に到った事を残念に思う。
ドナー家族への配慮を含んで考えられるべきなのではないか、と疑問を提議されました。
その背景にあったのは、実際に脳死移植が国内で行われた後の検証で判明した事実が重く圧し掛かっているそうです。
実例として紹介された話の内容をここで書くのは拙いかも知れませんので書きませんが、たった一つ言える事は、世の中は何事に置いても当事者の辛さ、大変さを理解しない興味半分でしかない方がいて、遺族は大変に傷付く、と言う事が起きてしまうそうなのです。
なので、提言として葛藤している遺族への配慮、支えて行くシステムが欠落していて、それを構築して行く事がとても重要であろう、とご自身が遺族となった経験上をも踏まえて語られました。
一番心配している事は遺族の同意で移植が可能になった事で、年齢制限が取り払われてしまって、医療の現場で社会的弱者が医療側の提案に対して抵抗する事が出来るのかどうか、そうして移植がごり押しされてなし崩し的になる事が、本当に移植医療にとっても良い事なのか、と大きな疑問を投げ掛けられました。
このような事は、日本の文化的基盤を壊しかねないか不安を感じているそうです。
そして最後には、喪失感への配慮を含んだシステムの構築、が急務であると考えている、と締め括られました。
拝聴していて感銘を受けるとともに私自身が考えた事は、仏教で言う所の布施の概念であり、仏陀の前世が聖人に身を捧げたウサギであった、と言う寓話でした。
私自身はこの体は私自身の命を乗せている乗り物であり、それは本来天のものである、と考えています。
つまり、私は体すら天、偉大な生命体から分け与えられた借りもので、それを布施する事に対しては違和感がない、と感じているのです。
その裏には、私自身が30歳前の生命力が最も旺盛な時期に死線をさ迷った、偶々運が良く生き返れた、と言う実感がある事は否定出来ません。
なので、独特なものなのかも知れませんので、他人に押し付けるつもりは毛頭ありません。
ただ、仏陀の前世が身を捧げ、その事が最も尊い布施である、と言う事と臓器移植が私の中では重なって違和感がない、と言う事実だけです。
生き残る可能性がある命に次を託す、その事がとっても尊い事なのでは、と考えています。
それだけです。
難しい問題ですが、今後世界的にも日本が批判される事態と成って来ており、将来に向けて解決をして行かなければ成らない、重要な課題である、と感じるのです。