■12月16日 続き。
いよいよ「コリオレイナス」の上演時間が近づいて来ました。
と言ってもハイド・パークを離れた時点ではまだ昼過ぎでしたが。
まず、チケットをピックアップしにDonmar Warehouseへ。
郵送も出来たみたいなのですが、なくすと怖いので、私はBox Officeに取りにいくことにしています。
1年と8ヶ月ぶりくらいのドンマーでの観劇です。
初めてドンマーで見た"The Recruiting Officer"も、同じ芸術監督のJosie Rourkeによる演出。
前回はStallでしたが、今回は人気公演ということもありCircle。取れただけ奇跡ですね。
このブログを書いている2014年4月時点で、これから日本でのNT Live上映があるところなので、
戯曲を読まれてこの記事を見て頂いている方もいると思いますが、
ご存知の通り、「コリオレイナス」はシェイクスピアの書いた最後の悲劇です。
隣国ヴォルサイとの戦いに勝利したローマの将軍ケーアス・マーシャス(後にコリオレイナス)が
帰国後、英雄として称えられ執政官に推挙されるものの、
その傲慢さ故、彼を疎む市民を利用した護民官の策略によって、
反逆者としてローマから追放され、ヴォルサイに潜伏し祖国への復讐を誓うという筋書きになっています。
映像作品としてはレイフ・ファインズ主演の現代版コリオレイナス=「英雄の証明」が一番手に入りやすいので、
予習の一つとして鑑賞するのもいいかと思います。
この公演が初めてアナウンスされた時、
コリオレイナスをトム・ヒドルストン、その友人のメニーニアスをマーク・ゲイティスが演じる、
というところまで発表されたわけですが、随分若い配役だな、と思ったものでした。
特にメニーニアスなどはほとんど老人から壮年に近い役者が演じる役のように思えていたのです。
ですが、見終わった後は、そんな違和感はいつのまにか消えてしまっていました。
むしろ、イメージよりも年下の役者にしたことで、プラスの効果があったように思えます。
ーーーーーこれ以降はストーリー・演出の内容も含みます。戯曲未読の方はご注意下さい。ーーーーーーーーーー
■
客席に入り、舞台を見ると、セットは中央に黒い梯子、
背景に赤いコンクリートの壁、装置は複数の木の椅子のみとシンプル。
日本で野田地図を見慣れていた私は、椅子を塹壕や足場に見立てるという表現に慣れ親しんでいるので、
この装置演出自体はスッと受け入れられるものでした。
序盤の戦場の場面では火花や黒い煤が天井から飛び散り、
プロジェクションマッピングも使用されています。
火花は小さいですが、落ちた瞬間は暗い劇場の中がパッと明るくなるので、
その瞬間の様子はフラッシュのように鮮明に頭に焼き付きました。
"The Recruiting Officer"の演出が非常に真っ当というか、奇抜なものではなかったので、
この作品は演出家として挑戦的に試行錯誤したものだったのではないかと思います。
物語の始まりは、マーシャスの息子が、
赤いペンキで、舞台上に四角い枠を描くところから始まります。
(この枠が後の場面で部屋の壁を表したりするのです。)
その後、演者が四方から登場し、正面を向いて一列に並ぶと、一斉に舞台後方へ振り返り
観客から見えるところで椅子に着席。
その後は、他の人物の台詞から名前が出ると、
その役者が立ち上がり、前に歩み出て役に入り込みます。
■■
ワタクシはマーク・ゲイティスが目当てで見にきていましたので、
久々に見た舞台の彼の印象から申し上げますと、…頭が小さい!
卵が首にちょこんと乗っかっているみたいにちっこい!
茶色いコートを翻し、クリックリの頭が右へ左へ…なんて可愛い…(*´ω`*)
…可愛いはともかく、特に今回楽しみだったのは、メニーニアスが市民の反乱を胃袋とその他の臓器に例える小咄の部分です。
きっと面白可笑しくしゃべってくれるだろうと思っていましたが
お腹をポンポコ叩いたり、ウエストコートの裾をペロっと捲らせたりしながら、
身振り手振りを使って楽しく聞かせてくれました。
そして、その後登場したトムヒ演じるコリオレイナスは美しく、茶目っ気があり、
まさしく彼らしいスター性を感じさせます。
戯曲を読む分には、コリオレイナスは自己中心的で傲慢な軍人という印象がありますが、
彼の演じるコリオレイナスは若いということもあって、
その若さゆえの向こう見ずさという一面も加わっているようです。
茶目っ気という点では、武功をあげて帰ってきたコリオレイナスが、
周りに推されていやいやながら市民から執政官となるための推薦状をもぎ取る場面が特に見所です。
この作品は悲劇ではありますが、コミカルに演じられて少し息抜きになる部分でもあります。
またコリオレイナスが独白をするたびに、周りに語りかけるように天井を見上げて喋るので、
こっちを向くと「トムヒが自分に向かって喋っている!」と錯覚してしまいます。
いや、錯覚ではなく、きっと私の方を向いて喋っていたのです!間違いない!(笑)
また、批評で"2人の描き方がゲイっぽすぎる"と方々で見かけた、
コリオレイナスとハドリー・フレイザー演じる宿敵オーフィディアスの関係。
ヴォルサイに潜伏するコリオレイナスと再会した時のオーフィディアスの歓迎ぶりが、
殺すのかと思いきや、ナイフを構えたままキスの嵐を浴びせかける様子が余りにも愛に溢れ過ぎて(笑)
「ここか例の部分は…」と理解しました。
戯曲でも仇敵という関係を超えた友情の態度を見せ合う2人ですが、
この過剰なまでの愛情表現は客席へのサービスとしか思えませんです。
ハドリーさんはミュージカルのスキルの高い方とは聞き及んでいますが、
ストレート・プレイもなんの違和感もない演技力を持っているようにお見受けしました。
オーフィディアスにしておくには勿体ないですね。
後ろで座ってる時間が長いし…。勿体ない。
観客へのサービスといえば、戦いから戻ったコリオレイナスのシャワーシーンが
見る前から既に話題になっていたので、そういう場面があることは知っていたのですが、
実際見たらちょっと照れくさくて笑ってしまいました。劇場の中でも若干クスクス笑い声が…(笑)。
シャワーというか、打たせ湯って感じ。
しかし、傷の痛みを堪えながら血まみれの体を洗い落とすトムヒの演技は素晴らしかったですよ。
■■■
メインの役者だけでなく、脇役の演技も触れないわけにはいかないでしょう。
コリオレイナスを尊大に育てあげた母、ヴォラムニアは、
映画「英雄の証明」のヴァネッサ・レッドグレイヴの演技が強烈に印象に残っていたのですが、
Deborah Findlayも、非常に力強い母親像を演じていました。
ヴァネッサは、コリオレイナスが追放された後も相変わらず強気な母親であった一方で、
デボラの演じた母は、まとめていた髪を下ろし、物腰も少し柔らかくなって疲弊した様子が窺えました。
もちろん息子を正しい道に導こうとする強固な姿勢は変わりませんが、
彼女の様子から、その後の一家のローマでの扱われ方がなんとなく想像出来るのです。
(私の中でデボラは今でもグラナダ版ホームズ「ボール箱」のムカつく次女というイメージですが・笑)
妻のヴァージリアはデンマーク出身のBirgitte Hjort Sørensenが演じています。
母よりむしろこの妻の方が暴れ馬状態というか、切れ具合が痛快でしたね。
戯曲のイメージだと、ひたすら打ち拉がれているような雰囲気なのかと思いきや、
夫のコリオレイナスを追放した護民官に食って掛かるところなんか、
暴走列車のようで面白かったです。
護民官については、ドンマー版の興味深い部分として、
護民官のシシニアスが男性ではなく、女性のシシニアとして描かれている点が気になりました。
どういった解釈で"彼"が"彼女"になったのかは分かりませんが、
(どこかに書いてあったかな…)
男性のままのブルータスとの恋愛関係もはっきり描かれていました。
カップルにすることによってブルータス&シシニアの強固な関係を示したかったのかもしれません。
この二人は、この舞台の中でもとてもユーモラスな存在で、メニーニアスとのやり取りも軽妙でした。
ヴォラムニアから散々罵られた後、ブルータスの言う
「なるほど…じゃあ(行く方向を指差して)行きます」の台詞なんかは笑ってしまいます。
■■■■
後から気付いたのですが、コミニアスを演じていたPeter De Jerseyって、
映画「バンク・ジョブ」やドクター・フーの"The Day of the Doctor"にも出ていたんですよね。
見覚えがある人なのに初めてみたような気分で見てしまっていた…。
コミニアスはこの作品の中で一番気分にムラのない、まともな?キャラクターに思えます。
国に対して忠実ですし、コリオレイナスに対しても常に敬意を持って接します。
議事堂内ではメニーニアスとコショコショ内緒話をする姿が目立ちました(笑)。
2人で何を喋っているのか気になる…。
コミニアスは、ヴォルサイの将軍となったコリオレイナスにローマへの進軍を止めさせようと説得を試みますが、
故国に捨てられたコリオレイナスは断固として進軍を止めようとはしません。
私が最も感動したのは、コミニアスの帰還後、護民官に説得されてメニーニアスがコリオレイナスに会いに行く場面です。
コミニアスが追い払われたことで自分も追い返されるかもしれないと、渋るメニーニアス。
「でも、食事前の機嫌の悪い時に会ったのかもしれないしな」と複雑な表情を浮かべながらもなんとか重い腰をあげます。
正直、戯曲を読んだ後、この場面は「コメディみたいにならないのだろうか?」と思っていました。
時に厳しく、友人として、父代わりとしてコリオレイナスを諭して来たメニーニアスは、
"愛する息子"が自分を歓迎しないはずがないと断言するのですが、
信じようとしないヴォルサイの衛兵たちに追い払われようとされているところで、コリオレイナスが現れます。
メニーニアス「おまえたち、今に見てろ!」と親が迎えに来たいじめられっこのような台詞を吐くのですが(笑)
コリオレイナスは彼に「失せろ」と言い放つのです。
文字でこの部分を読むと、勘違いしてたメニーニアスがひどく滑稽に見えてくるのですが、
私たちが目にしたのは、愛するものを失ったことに深く傷つき、絶望的なまでに悲しむメニーニアスの姿でした。
跪いてコリオレイナスの手を取り、涙を拭いながら祖国を救うよう懇願したにも関わらず拒絶されたメニーニアス。
彼の顔からは色が失せ、肩をがっくりと落とし、立ち去りながらコリオレイナスから受け取った手紙をハラリと落とします。
マークの生の芝居を見たいがためにまたドンマーにやってきた私は、
こんなにも胸を打つ芝居をする人なんだと心をさらに鷲掴みされました。
彼はコメディアンとして舞台経験は何度も踏んでいるはずですが、
コメディ以外でも経験を積む程に舞台役者として成熟していっているように思えます。
彼は単なるキャラクター俳優ではないのですよ!
■■■■■
本来の戯曲通りであれば、この後にヴォラムニアが義娘と孫を連れて息子に会いに行き、
ついにコリオレイナスがローマとの和睦を約束した後、
メニーニアスとシシニアスが母上の説得を待っている場面が入ります。
しかし、ドンマー版では母上がコリオレイナスの説得に成功し、
ローマへと帰った後にすぐオーフィディアスたちに裏切り者として捕らえられます。
そしてそのままエンディングへ。
ドンマー版の脚本は、端役の会話等をあちこち大胆に削っているのですが、
どれも確かに無駄に感じられる部分なので、
この改訂も、メニーニアスの出番が減ってしまったものの、納得の行くものだったと思います。
エンディングはとてもショッキングですが、実はこの前に見た"Mojo"でも同じような光景を目にしたので、
「最近は○○されるのが流行ってるのか?」と思ってしまいました(笑)。
■■■■■■
見終わってしばらく経ってから振り返ってみると、
このドンマー版は、シェイクスピア作品の古典としての芸術性よりは
エンタテインメントに徹して作られているように感じました。
もちろん、民主主義と独裁主義の対立、またそのどちらも実は残酷な政治体系であるということが根本に描かれていますが、
先に書いたように、数々のサービスシーンや、狭い空間の中で使われた演出上の試みは、
見る者をまず刺激しようとする意識が汲み取れます。
観客は年配の方も少なくなかったですが、
やはりトムヒを目当てに見にきた若い世代にも、(私のような異国から来たものに対しても?)
敷居を低くする意図があったかもしれません。
実際、見終わった後、想像よりも受け入れやすい作品だと感じられましたから。
とにかく「コリオレイナスの自分勝手な行動、理解不能」
「それをいつまでも支持する友人たちもどういうつもりなんだろうか」
「オーフィディアスもなんで宿敵を受け入れちゃうかな…」
と思いながら読んでいた戯曲を、
「どうしても我慢出来ない子なんだね、コリオレイナスは…」
「そんなコリオレイナスを愛するしかないんだね、メニーニアスも…」
「オーフィディアスは実は妻よりもコリオレイナスを愛してたんだね…仕方ない」
と、大きな愛という理由ひとくくりで納得することが出来ました(笑)。なんつって。
出待ちについては、続く…
いよいよ「コリオレイナス」の上演時間が近づいて来ました。
と言ってもハイド・パークを離れた時点ではまだ昼過ぎでしたが。
まず、チケットをピックアップしにDonmar Warehouseへ。
郵送も出来たみたいなのですが、なくすと怖いので、私はBox Officeに取りにいくことにしています。
1年と8ヶ月ぶりくらいのドンマーでの観劇です。
初めてドンマーで見た"The Recruiting Officer"も、同じ芸術監督のJosie Rourkeによる演出。
前回はStallでしたが、今回は人気公演ということもありCircle。取れただけ奇跡ですね。
このブログを書いている2014年4月時点で、これから日本でのNT Live上映があるところなので、
戯曲を読まれてこの記事を見て頂いている方もいると思いますが、
ご存知の通り、「コリオレイナス」はシェイクスピアの書いた最後の悲劇です。
隣国ヴォルサイとの戦いに勝利したローマの将軍ケーアス・マーシャス(後にコリオレイナス)が
帰国後、英雄として称えられ執政官に推挙されるものの、
その傲慢さ故、彼を疎む市民を利用した護民官の策略によって、
反逆者としてローマから追放され、ヴォルサイに潜伏し祖国への復讐を誓うという筋書きになっています。
映像作品としてはレイフ・ファインズ主演の現代版コリオレイナス=「英雄の証明」が一番手に入りやすいので、
予習の一つとして鑑賞するのもいいかと思います。
この公演が初めてアナウンスされた時、
コリオレイナスをトム・ヒドルストン、その友人のメニーニアスをマーク・ゲイティスが演じる、
というところまで発表されたわけですが、随分若い配役だな、と思ったものでした。
特にメニーニアスなどはほとんど老人から壮年に近い役者が演じる役のように思えていたのです。
ですが、見終わった後は、そんな違和感はいつのまにか消えてしまっていました。
むしろ、イメージよりも年下の役者にしたことで、プラスの効果があったように思えます。
ーーーーーこれ以降はストーリー・演出の内容も含みます。戯曲未読の方はご注意下さい。ーーーーーーーーーー
■
客席に入り、舞台を見ると、セットは中央に黒い梯子、
背景に赤いコンクリートの壁、装置は複数の木の椅子のみとシンプル。
日本で野田地図を見慣れていた私は、椅子を塹壕や足場に見立てるという表現に慣れ親しんでいるので、
この装置演出自体はスッと受け入れられるものでした。
序盤の戦場の場面では火花や黒い煤が天井から飛び散り、
プロジェクションマッピングも使用されています。
火花は小さいですが、落ちた瞬間は暗い劇場の中がパッと明るくなるので、
その瞬間の様子はフラッシュのように鮮明に頭に焼き付きました。
"The Recruiting Officer"の演出が非常に真っ当というか、奇抜なものではなかったので、
この作品は演出家として挑戦的に試行錯誤したものだったのではないかと思います。
物語の始まりは、マーシャスの息子が、
赤いペンキで、舞台上に四角い枠を描くところから始まります。
(この枠が後の場面で部屋の壁を表したりするのです。)
その後、演者が四方から登場し、正面を向いて一列に並ぶと、一斉に舞台後方へ振り返り
観客から見えるところで椅子に着席。
その後は、他の人物の台詞から名前が出ると、
その役者が立ち上がり、前に歩み出て役に入り込みます。
■■
ワタクシはマーク・ゲイティスが目当てで見にきていましたので、
久々に見た舞台の彼の印象から申し上げますと、…頭が小さい!
卵が首にちょこんと乗っかっているみたいにちっこい!
茶色いコートを翻し、クリックリの頭が右へ左へ…なんて可愛い…(*´ω`*)
…可愛いはともかく、特に今回楽しみだったのは、メニーニアスが市民の反乱を胃袋とその他の臓器に例える小咄の部分です。
きっと面白可笑しくしゃべってくれるだろうと思っていましたが
お腹をポンポコ叩いたり、ウエストコートの裾をペロっと捲らせたりしながら、
身振り手振りを使って楽しく聞かせてくれました。
そして、その後登場したトムヒ演じるコリオレイナスは美しく、茶目っ気があり、
まさしく彼らしいスター性を感じさせます。
戯曲を読む分には、コリオレイナスは自己中心的で傲慢な軍人という印象がありますが、
彼の演じるコリオレイナスは若いということもあって、
その若さゆえの向こう見ずさという一面も加わっているようです。
茶目っ気という点では、武功をあげて帰ってきたコリオレイナスが、
周りに推されていやいやながら市民から執政官となるための推薦状をもぎ取る場面が特に見所です。
この作品は悲劇ではありますが、コミカルに演じられて少し息抜きになる部分でもあります。
またコリオレイナスが独白をするたびに、周りに語りかけるように天井を見上げて喋るので、
こっちを向くと「トムヒが自分に向かって喋っている!」と錯覚してしまいます。
いや、錯覚ではなく、きっと私の方を向いて喋っていたのです!間違いない!(笑)
また、批評で"2人の描き方がゲイっぽすぎる"と方々で見かけた、
コリオレイナスとハドリー・フレイザー演じる宿敵オーフィディアスの関係。
ヴォルサイに潜伏するコリオレイナスと再会した時のオーフィディアスの歓迎ぶりが、
殺すのかと思いきや、ナイフを構えたままキスの嵐を浴びせかける様子が余りにも愛に溢れ過ぎて(笑)
「ここか例の部分は…」と理解しました。
戯曲でも仇敵という関係を超えた友情の態度を見せ合う2人ですが、
この過剰なまでの愛情表現は客席へのサービスとしか思えませんです。
ハドリーさんはミュージカルのスキルの高い方とは聞き及んでいますが、
ストレート・プレイもなんの違和感もない演技力を持っているようにお見受けしました。
オーフィディアスにしておくには勿体ないですね。
後ろで座ってる時間が長いし…。勿体ない。
観客へのサービスといえば、戦いから戻ったコリオレイナスのシャワーシーンが
見る前から既に話題になっていたので、そういう場面があることは知っていたのですが、
実際見たらちょっと照れくさくて笑ってしまいました。劇場の中でも若干クスクス笑い声が…(笑)。
シャワーというか、打たせ湯って感じ。
しかし、傷の痛みを堪えながら血まみれの体を洗い落とすトムヒの演技は素晴らしかったですよ。
■■■
メインの役者だけでなく、脇役の演技も触れないわけにはいかないでしょう。
コリオレイナスを尊大に育てあげた母、ヴォラムニアは、
映画「英雄の証明」のヴァネッサ・レッドグレイヴの演技が強烈に印象に残っていたのですが、
Deborah Findlayも、非常に力強い母親像を演じていました。
ヴァネッサは、コリオレイナスが追放された後も相変わらず強気な母親であった一方で、
デボラの演じた母は、まとめていた髪を下ろし、物腰も少し柔らかくなって疲弊した様子が窺えました。
もちろん息子を正しい道に導こうとする強固な姿勢は変わりませんが、
彼女の様子から、その後の一家のローマでの扱われ方がなんとなく想像出来るのです。
(私の中でデボラは今でもグラナダ版ホームズ「ボール箱」のムカつく次女というイメージですが・笑)
妻のヴァージリアはデンマーク出身のBirgitte Hjort Sørensenが演じています。
母よりむしろこの妻の方が暴れ馬状態というか、切れ具合が痛快でしたね。
戯曲のイメージだと、ひたすら打ち拉がれているような雰囲気なのかと思いきや、
夫のコリオレイナスを追放した護民官に食って掛かるところなんか、
暴走列車のようで面白かったです。
護民官については、ドンマー版の興味深い部分として、
護民官のシシニアスが男性ではなく、女性のシシニアとして描かれている点が気になりました。
どういった解釈で"彼"が"彼女"になったのかは分かりませんが、
(どこかに書いてあったかな…)
男性のままのブルータスとの恋愛関係もはっきり描かれていました。
カップルにすることによってブルータス&シシニアの強固な関係を示したかったのかもしれません。
この二人は、この舞台の中でもとてもユーモラスな存在で、メニーニアスとのやり取りも軽妙でした。
ヴォラムニアから散々罵られた後、ブルータスの言う
「なるほど…じゃあ(行く方向を指差して)行きます」の台詞なんかは笑ってしまいます。
■■■■
後から気付いたのですが、コミニアスを演じていたPeter De Jerseyって、
映画「バンク・ジョブ」やドクター・フーの"The Day of the Doctor"にも出ていたんですよね。
見覚えがある人なのに初めてみたような気分で見てしまっていた…。
コミニアスはこの作品の中で一番気分にムラのない、まともな?キャラクターに思えます。
国に対して忠実ですし、コリオレイナスに対しても常に敬意を持って接します。
議事堂内ではメニーニアスとコショコショ内緒話をする姿が目立ちました(笑)。
2人で何を喋っているのか気になる…。
コミニアスは、ヴォルサイの将軍となったコリオレイナスにローマへの進軍を止めさせようと説得を試みますが、
故国に捨てられたコリオレイナスは断固として進軍を止めようとはしません。
私が最も感動したのは、コミニアスの帰還後、護民官に説得されてメニーニアスがコリオレイナスに会いに行く場面です。
コミニアスが追い払われたことで自分も追い返されるかもしれないと、渋るメニーニアス。
「でも、食事前の機嫌の悪い時に会ったのかもしれないしな」と複雑な表情を浮かべながらもなんとか重い腰をあげます。
正直、戯曲を読んだ後、この場面は「コメディみたいにならないのだろうか?」と思っていました。
時に厳しく、友人として、父代わりとしてコリオレイナスを諭して来たメニーニアスは、
"愛する息子"が自分を歓迎しないはずがないと断言するのですが、
信じようとしないヴォルサイの衛兵たちに追い払われようとされているところで、コリオレイナスが現れます。
メニーニアス「おまえたち、今に見てろ!」と親が迎えに来たいじめられっこのような台詞を吐くのですが(笑)
コリオレイナスは彼に「失せろ」と言い放つのです。
文字でこの部分を読むと、勘違いしてたメニーニアスがひどく滑稽に見えてくるのですが、
私たちが目にしたのは、愛するものを失ったことに深く傷つき、絶望的なまでに悲しむメニーニアスの姿でした。
跪いてコリオレイナスの手を取り、涙を拭いながら祖国を救うよう懇願したにも関わらず拒絶されたメニーニアス。
彼の顔からは色が失せ、肩をがっくりと落とし、立ち去りながらコリオレイナスから受け取った手紙をハラリと落とします。
マークの生の芝居を見たいがためにまたドンマーにやってきた私は、
こんなにも胸を打つ芝居をする人なんだと心をさらに鷲掴みされました。
彼はコメディアンとして舞台経験は何度も踏んでいるはずですが、
コメディ以外でも経験を積む程に舞台役者として成熟していっているように思えます。
彼は単なるキャラクター俳優ではないのですよ!
■■■■■
本来の戯曲通りであれば、この後にヴォラムニアが義娘と孫を連れて息子に会いに行き、
ついにコリオレイナスがローマとの和睦を約束した後、
メニーニアスとシシニアスが母上の説得を待っている場面が入ります。
しかし、ドンマー版では母上がコリオレイナスの説得に成功し、
ローマへと帰った後にすぐオーフィディアスたちに裏切り者として捕らえられます。
そしてそのままエンディングへ。
ドンマー版の脚本は、端役の会話等をあちこち大胆に削っているのですが、
どれも確かに無駄に感じられる部分なので、
この改訂も、メニーニアスの出番が減ってしまったものの、納得の行くものだったと思います。
エンディングはとてもショッキングですが、実はこの前に見た"Mojo"でも同じような光景を目にしたので、
「最近は○○されるのが流行ってるのか?」と思ってしまいました(笑)。
■■■■■■
見終わってしばらく経ってから振り返ってみると、
このドンマー版は、シェイクスピア作品の古典としての芸術性よりは
エンタテインメントに徹して作られているように感じました。
もちろん、民主主義と独裁主義の対立、またそのどちらも実は残酷な政治体系であるということが根本に描かれていますが、
先に書いたように、数々のサービスシーンや、狭い空間の中で使われた演出上の試みは、
見る者をまず刺激しようとする意識が汲み取れます。
観客は年配の方も少なくなかったですが、
やはりトムヒを目当てに見にきた若い世代にも、(私のような異国から来たものに対しても?)
敷居を低くする意図があったかもしれません。
実際、見終わった後、想像よりも受け入れやすい作品だと感じられましたから。
とにかく「コリオレイナスの自分勝手な行動、理解不能」
「それをいつまでも支持する友人たちもどういうつもりなんだろうか」
「オーフィディアスもなんで宿敵を受け入れちゃうかな…」
と思いながら読んでいた戯曲を、
「どうしても我慢出来ない子なんだね、コリオレイナスは…」
「そんなコリオレイナスを愛するしかないんだね、メニーニアスも…」
「オーフィディアスは実は妻よりもコリオレイナスを愛してたんだね…仕方ない」
と、大きな愛という理由ひとくくりで納得することが出来ました(笑)。なんつって。
出待ちについては、続く…
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