2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行3日目のブルナー炭鉱跡。
史跡はグレー川の両岸に広が
り、目立つ対岸の高い煙突。
近づくと緑に埋もれているよ
ようで高さが目立たないほど
ここはタインサイド炭鉱跡。
煙突がなければただの山肌。
坑道があったブルナー炭鉱と
違い、ここは地表から垂直に
設けた竪坑で坑内へ。1874
年に開坑。76年に鉄道開通。
かつては6基の煙突が稼働し
タインサイド炭鉱の活況を象
徴していました。生産のピー
クは1906~7年でブルナー鉱
山全体の12%を占めました。
これも耐火れんが製。見事に
緩やかな孤を描いています。
現存する唯一の煙突です。
1864年のブルナー炭鉱の開
坑以降、町の建設は川を挟ん
だ対岸で進み、限られた平地
に住宅、集会場兼学校、ホテ
ル、教会が建ち並びました。
(※橋の完成の7年前の1870年)
1884年の住宅
1877年に町と炭鉱が橋で結
ばれ、1887年には550世帯
2,000人以上が暮らす町に
1890年頃
1870年代はイギリスの炭鉱
労働者にNZ移住が奨励され
ました。イギリスでの閉山に
よる失職、NZ政府による無
償渡航保証、NZの炭鉱会社
の誘致などもあり、彼らはブ
ルナーにも移り住み『南のイ
ギリス人』と呼ばれました。
(※1880年代の移民)
1869~89年のブルナーの出
身国別人口比は88%がイギリ
スとアイルランド出身者で、
(※NZ生まれはわずか6%)
出身地も全国に跨りました。
坑内に入るのを待つシフト制
の炭鉱労働者。(※1887年)
ハチの巣コークス炉技術も彼
らがもたらしたものでした。
炭鉱の町は金鉱の町と異なり
男社会ではなく家族中心で、
炭鉱労働者に伴い、妻子、両
親、親類縁者が揃って移住し
てきたり、定住後に呼び寄せ
たりすることが普通でした。
(※1906年の結婚式の写真)
そこに歴史的惨事が起きます。
1896年3月26日はいつもと変
わらない木曜日でした。しか
し、その日に限り荷役馬が坑
内に入るのを嫌がり震えてい
ました。御者はとうとう馬の
頭にコートを被せて坑内へ。
その1時間20分後、NZ史上最
悪の炭鉱爆発事故が起き、65
人の尊い命が奪われました。
この日は『暗黒の木曜日』と
呼ばれ衝撃は現地だけでなく
全国に広がっていきました。
NZでは今に至ってもこれを
超える労働災害はなく、事故
を機に労働環境の安全性向上
や残された家族への支援が本
格化しましたが、家族の哀し
みと苦しみは決して癒えるこ
とはなかったことでしょう。
喪服で埋め尽くされた町
失われた命に合掌
馬も亡くなったはず(涙)
今はただ緑の中で、静かに眠
るようだったブルナー炭鉱跡
ダニーデンのタイエリ鉄道で
見た一時は人口5,000人が住
んでいたという、山間の鉱山
ヒンドンを思い出しました。
20世紀初頭にピークを迎えた
NZの鉱山はどこも似たような
道を歩み歴史の1ページに