ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

パース行:ミセス・テイラー

2021年10月27日 | オーストラリア:パース

ギルフォード刑務所
OPEN

あったのは、


コレのことでした

私でも脱走できる
と思ってしまうほど小さい(笑)


植民地化で宿泊所ができて、
外部から人が流入して来たこ
とで地元民とのトラブルが増
え、1841年に留置所として建
設されたものが、1851年にL
字型の建物となり、その後も
増減築を繰り返しつつ1969
年まで(私が小学校2年生)
使用され、現在は博物館に。



紫色の流刑囚施設とは別の緑
色部分の地元民用刑務所施設

隣同士だし、ややこしい💦


フリーマントル同様に
フリーマントル刑務所

当初は流刑囚用


ラウンドハウス

地元民用


に分けて収容していたため、
人口の割に刑務所が多く、流
刑植民地ゆえにその重要性も
高かったのだと思われます。


犯罪者がいれば裁判も必要で

1866年に建設されたギルフォ
ード裁判所は後の警察署で、


現在は観光案内所(笑)

時代とともに町にとって最も
重要と思われるものが入居


1866年となるとレンガが違う

大小濃淡の組み合わせです。


ここは1870年頃郵便局として
建設され、1898~1913年は
警察官宿舎となり、それ以降
は洗濯場となった建物です。

1913年当時の典型的な洗濯場


室内には郵便局風の展示が



心惹かれた小さなコテージ



ここはテイラー家コテージと
呼ばれ1860年代の典型的な
労働者階級の家。他所にあっ
たものを町の中心の一等地に
建て替えて展示しています。

長い軒下がベランダ代わり。


しかし、家は1LDKの一間

ここが一家15人の家でした。


元流刑囚エドワード・テイラ
ーは1874年の37歳の時に17
歳のエマを娶り、2人は13人
の子を設け、エドワードは青
果商として一家を養ったとか



同時に15人が暮らした訳では
ないにしても、電気も水道も
ない時代に両親はさぞや働き
づめだったことでしょう。



トイレは外



金だらいと洗濯板



広い軒下は気温が高いパース
で通年重宝したのでしょう。



元流刑囚に嫁ぎ13人を生み
育てたミセス・テイラー
天晴です


NZやオーストラリアでこの手
の木造の小さな家を見るたび
懐かしさと既視感が募り、過
去世のどこかでこういう家で
貧しくも楽しく暮らしていた
ことがあったに違いない私

この時もそう感じました



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