2023年3月のタスマニア3日目
一時はヘンリー・ジョーンズ
帝国と言われるほど隆盛を誇
ったジャム工場の誕生までに
は幾度か変遷がありました。
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今も残るハンター通りを代表
するこの建物は、1820年代に
ウィリアム・バンスターが31
番地と33番地に倉庫兼住宅を
建てたことに始まりました。
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(※イギリス式は道の両側で奇
数と偶数の住所が分かれるの
で、31と33番地は連番です)
バンスターはアザラシの皮や
塩の仲買人で、シドニーとの
国内交易で財を成し、後に通
りの35番地も購入しました。
31番地は長らくパブとして利
用され、1827年には宿泊施設
にもなり、最初のホバート商
工会議所が入居。1階はマー
チャント(商人)たちの会議に
使われ、地下では船員や港湾
労働者があり金をはたくまで
飲んだくれていたそうです。
バンスター自身は野心家では
なかったらしく「平凡な男」
と自称し、アザラシ漁の衰退
とともに一線を退いたのか
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次に登場したのが、ジャム製
造を手掛けるジョージ・ピー
コックでした。彼は1869~
82年にかけ荒廃していた27~
33番地を辛抱強く買い上げて
いきました。その間13年間
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ピーコックはイギリス本国で
ビジネスを学び、ホバートで
はジャム王と称されました。
1882年ハンター通り工場始動
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(※写真は1885年頃)
また敬虔なクリスチャンで、
会社経営でも宗教を重んじ、
祈祷や説教を行って、従業員
に厳格な禁酒を命じました。
慎重な経営にもかかわらず、
会社は1892年に経営破たん
開業からわずか10年でした。
その救済に乗り出したのが、
ピーコックの息子と2人の従
業員でした。従業員のうちの
1人こそが若き日のヘンリー
・ジョーンズだったのです
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