私は見たことがありませんが、蝶はさなぎを破って出てくるとき、中で激しくもがくそうです。
それこそもう、苦しんでこのまま死んじゃうんじゃないかと思うくらい、さなぎの中で
激しくバタバタと暴れるのだそうです。
そうしてもがきまくったところで、さなぎのカラが破れて蝶が出てきます。
じきに羽を広げると、数回しわを伸ばすみたいにパタパタやって、めでたく飛んでいきます。
もし、これを見ていて
「まあ、苦しそう!かわいそう!助けてあげなきゃ!」
などと考えて、激しくもがいている最中にさなぎを人為的に破ったらどうなるのでしょうね?
たぶん羽は湿ってクチャクチャのまま、蝶自身も、もがくことによってつくはずの体力筋力もつけることができず、
未完成のままの状態で無理矢理外に出され、羽を広げることもできずに死んでしまうかもしれません。
死んじゃいそうなくらいもがくからこそ、自然界では成長して生き残れる。
私たち人間も自然界の一員ですから、その流れで考えれば、もがきまくることで成長できると
考えることができるかと思います。
もがいている人を見ると、とりわけそれが大切な家族だったりすると、
「苦しそう!かわいそう!助けてあげなきゃ!」
が、ついつい出てきてしまうと思います。
でも、もがいている人は、この先生きるための心の筋力みたいなものをつけている真っ最中かもしれません。
さなぎを破る蝶のように、ここでもがききらないと新しいステージに行って羽ばたくことができない、
重要なプロセスのまっただ中でがんばっているのかもしれません。
助けてあげようサポートしようと、手を出したり口を出したりするのは、もちろん思いやりからでも
ありますが、案外、大切な人が苦しむのを見るのがイヤだ、早く解決して自分も安堵したい、
というエゴも混じっているかもしれません。
私はあまのじゃくだから、ついついそんな風に考えてしまうのです・・・。
それにね、私ももうすぐ還暦で、けっこうもがいたことが多かった人生だから思うのですが、
もがききったまさにその時、それまでとは違う風景というか新しい扉みたいなものが見えるのですよ。
それは、それまでにもずっと私の目の前にあったのかもしれないのだけど、見えてないの。気がつかないのです。
たとえ見えていたとしても、平安に過ごしている時にはなんか怖くて開ける気にならない、
あるいは開ける必要のない扉です。
もしかしたら、その時点でドアノブに力いっぱい手を掛けても開かないかもしれません。
が、もがきまくりもがききった人には、ハッキリとその新しい扉は見えるし、そういうときは
「もうどうにでもなれ!」的なエネルギーに充ち満ちていますから、その勢いで扉は苦も無く開きます。
そして、扉を開けて向こうの世界に一歩一歩入ることにより、今まで知らなかった価値観、世界観を
自らに与えることができ、やがてもがきから解放されていったように思います。
これを、人生の学びというのでしょうね。
それこそもう、苦しんでこのまま死んじゃうんじゃないかと思うくらい、さなぎの中で
激しくバタバタと暴れるのだそうです。
そうしてもがきまくったところで、さなぎのカラが破れて蝶が出てきます。
じきに羽を広げると、数回しわを伸ばすみたいにパタパタやって、めでたく飛んでいきます。
もし、これを見ていて
「まあ、苦しそう!かわいそう!助けてあげなきゃ!」
などと考えて、激しくもがいている最中にさなぎを人為的に破ったらどうなるのでしょうね?
たぶん羽は湿ってクチャクチャのまま、蝶自身も、もがくことによってつくはずの体力筋力もつけることができず、
未完成のままの状態で無理矢理外に出され、羽を広げることもできずに死んでしまうかもしれません。
死んじゃいそうなくらいもがくからこそ、自然界では成長して生き残れる。
私たち人間も自然界の一員ですから、その流れで考えれば、もがきまくることで成長できると
考えることができるかと思います。
もがいている人を見ると、とりわけそれが大切な家族だったりすると、
「苦しそう!かわいそう!助けてあげなきゃ!」
が、ついつい出てきてしまうと思います。
でも、もがいている人は、この先生きるための心の筋力みたいなものをつけている真っ最中かもしれません。
さなぎを破る蝶のように、ここでもがききらないと新しいステージに行って羽ばたくことができない、
重要なプロセスのまっただ中でがんばっているのかもしれません。
助けてあげようサポートしようと、手を出したり口を出したりするのは、もちろん思いやりからでも
ありますが、案外、大切な人が苦しむのを見るのがイヤだ、早く解決して自分も安堵したい、
というエゴも混じっているかもしれません。
私はあまのじゃくだから、ついついそんな風に考えてしまうのです・・・。
それにね、私ももうすぐ還暦で、けっこうもがいたことが多かった人生だから思うのですが、
もがききったまさにその時、それまでとは違う風景というか新しい扉みたいなものが見えるのですよ。
それは、それまでにもずっと私の目の前にあったのかもしれないのだけど、見えてないの。気がつかないのです。
たとえ見えていたとしても、平安に過ごしている時にはなんか怖くて開ける気にならない、
あるいは開ける必要のない扉です。
もしかしたら、その時点でドアノブに力いっぱい手を掛けても開かないかもしれません。
が、もがきまくりもがききった人には、ハッキリとその新しい扉は見えるし、そういうときは
「もうどうにでもなれ!」的なエネルギーに充ち満ちていますから、その勢いで扉は苦も無く開きます。
そして、扉を開けて向こうの世界に一歩一歩入ることにより、今まで知らなかった価値観、世界観を
自らに与えることができ、やがてもがきから解放されていったように思います。
これを、人生の学びというのでしょうね。