お気楽忍者のブログ 弐の巻

ミニカー収集/お魚採取/動植物フォト/行楽記・・・趣味のごった煮ブログ

四季の駅 フルーツランド南国

2024年05月16日 00時02分00秒 | 行楽・旅行記6

5月4日

三重県名張市の赤目四十八滝の帰り道、ずーっと前から気になってたフルーツランド南国さんに寄ってみました。

だいぶ前からあるお店です。管理人が記憶してる限りでも、今から25年くらい前にはこの場所にありました。三重と奈良の県境の山の中にある南国です(笑)

その名の通り、フルーツをメインに野菜や菓子類、飲料などが販売されてます。

その隣にあるのは、「四季の駅 フルーツランド南国」さん。

生ジュースメニューがたくさんあって、お値段も¥350~550とリースナブルですね~

フルーツ屋さんだから、絶対美味しいに違いない!

帰ってから、食べログを見ると、テイクアウトのお弁当も人気のようでした。

秋の松茸弁当なんか絶対美味しいに違いない!

道の駅 宇陀路 室生のレストランが満員だったから、まだお昼にありつけてません。天気もいいし、ここで頂くことにしましょうか

妻は山菜うどん。

管理人はカレーライスとバナナミルク🍌

子供の頃は家族で喫茶店に行くと(名古屋人だもんで)、いつもバナナジュース飲んでました

これ全部で¥1,100だったかな。インフレなんかどこ吹く風といった感じです(笑)

三重県名張市のフルーツランド南国さんでした~(定休日火曜)。

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京都写ん歩 八坂さん、空いてた。。

2024年05月15日 12時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月12日

京都祇園の八坂神社西楼門。

京都のオーバーツーリズムがニュースで度々取り上げられてるから、どんな感じなんだろうと思って京都に来ましたが、八坂さんの前は意外と空いてました。

清水寺や金閣寺、嵐山なんかは凄い人なんだろうか

露店がたくさん出てましたが、やっぱり人は少な目ですね。

境内社の祇園蛭子社(えびすしゃ)の恵比寿様は商売繁盛の神様。

平安時代から境内にある蛭子社の今の社殿は正保3年(1646年)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されてます。

大国主社は縁結びの神様ですね。大国主命とウサギの像が可愛い

舞殿

八坂神社は社伝によれば、斉明天皇2年(656年)に高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされています。現在の主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、あらゆる災いを祓う神様として信仰されています。

2020年に国宝に指定された本殿。

元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎(インドにある釈迦が説法を行った寺院のひとつ)の守護神であったことから、祇園社と呼ばれていましたが、明治期の神仏分離令により八坂神社に改名されました。

美御前社(うつくしごぜんしゃ)は、美人の誉れ高き宗像三女神(多岐理毘売命、多岐津比売命、市杵島比売命)がお祀りされています。理容・美容に携わる方やその技術向上を祈願される方にも信仰されてます。

美徳祈願する妻

平家物語の巻六にも書かれている「忠盛燈籠」。

五月雨の降る夜、白河法皇が祇園女御に会うためこの辺りを通っていると前方に鬼のようなものが見え、法皇はお供の平忠盛に討ち取るよう命じます。忠盛はその正体を見極めるために生け捕りにしたところ、それは燈籠に燈明をあげようとした祇園の社僧でした(僧の身に着けていた蓑が燈明の光で銀の針のように見えた)。この忠盛の思慮深い行動に人々は感嘆したと伝わります。この燈籠はその時のものと云われてます。

八坂神社を後にして、次の目的地へ向かいます。

京都の老舗米屋の八代目儀兵衛さんの前にはランチに並ぶ人たちがたくさんいました。お米の甘味を極限まで引き出す独自の炊飯メソッドってどんなだろう

つづく

過去記事<京都写ん歩 白川筋の光秀塚

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赤目四十八滝 名物へこきまんじゅう

2024年05月14日 15時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月4日

三重県と奈良県の境、三重県名張市にある景勝地、赤目四十八滝の見物を終え、もう少し周辺をぶらぶらしてみます

前にはビジターセンターだったように記憶してますが、そこが赤目自然歴史博物館なる施設になってました。

「自然」と「歴史」というキーワードに目がない管理人なので、さっそく入ってみました(入館無料)。

窓からは赤目の清流が一望できます。

館内には忍者修行体験の受付や忍者装束に着替えるための更衣室、そしてなぜかスパイスカレーのお店が入ってました

「自然」や「歴史」に関する情報はほとんどがパネル展示で肩透かし・・・。生き物の生体展示なんかはありませんでした~

奈良東大寺二月堂の修二会(お水取り)に使われる松明は名張市赤目町一ノ井の松明講により調進されているそうです。

忍者レストラン大日屋さん

赤目名物へこきまんじゅうのお店のたまきやさん。

前はもっと滝の登山道入り口のそばにお店があったのに、場所が変わってました。時々、伊賀市街地のショッピングセンターでも露店が出てたりします。

一応、忍者の姿をしてるそうですが、よく分かりません。。

生地にサツマイモが練り込んであるのが、「へこき」の由来。妻はこしあん、管理人はリンゴを食べました。

リンゴはちょっと選択ミス感が否めませんでしたが、こしあんは絶品でしたよ

おしまい

過去記事<赤目四十八滝 赤目牛の伝説

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京都写ん歩 白川筋の光秀塚

2024年05月13日 19時14分39秒 | 行楽・旅行記6

5月12日

地元の駅にあったこんなパネル・・・。

謎解きゲーム「甲賀忍者からの挑戦状」のマスコットキャラのわたぬき忍(しのぶ)。甲賀市内にある5つのJR駅で、改札内外に仕掛けられた謎解きゲームができるイベントが3月から行われてるそうです。

また、歌手の吉幾三さんが2月から甲賀市観光まちづくり協会観光PR大使をされてますが、なぜ、甲賀のPR大使が吉幾三氏なのかの方がよっぽど謎だと思います(爆)

京都市営地下鉄 東西線 東山駅

この日は妻と京都へ出掛けてきました。ちょっと蒸しっとする日で、夕方からは雨の予報が出てますが、何とか大丈夫でしょう。

三条通を東へ進みます

右に折れ、白川筋へ。

川に沿って柳の木がたくさん並んだ風情のある道です。

そんな白川筋沿いの住宅地の中にひっそりと佇む明智光秀の塚。

本能寺で織田信長を急襲した明智光秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、近江坂本城へ逃れる途中、伏見の小栗栖の竹薮で農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を討たせたと云われています。家臣は光秀の首を持って知恩院の近くまで来ましたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられているそうです。

光秀公の額が掛かった祠。

また、光秀の首が見つかり、東山の蹴上の粟田口刑場で家臣の首と一緒に晒され、近くに埋められたとも云われます。江戸中期に蹴上の塚にあった石塔婆をここに移して、光秀を弔う場所になったという説もあります。

一本橋

一本橋は比叡山で千日回峰行の荒行を終えた修行僧が粟田口の尊勝院に回峰行の終了を報告して、都に入洛する時に最初に渡る橋として、行者橋や阿闍梨橋とも呼ばれます。

結婚式の前撮りでもよく使われる橋らしく、この日も前撮りが行われてました。

末永く、お幸せに~

白川筋から東大路通へ。

もう少し行けば、祇園さん(八坂神社)ですが、思ったより人通りは少ないですね。外国人観光客でごった返しているかと思ったんですが。。。

つづく

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赤目四十八滝 赤目牛の伝説

2024年05月13日 03時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月4日

三重県名張市にある景勝地の赤目四十八滝。

谷川に沿っておよそ3.2kmの遊歩道が整備され、名前が付いている滝だけで23の瀑を見ることができます。春は新緑、秋は紅葉も楽しめる自然豊かな場所です。

入り口から750mほどのところにあるこの大きな岩は八畳敷ほどあるので、俗に八畳岩と呼ばれてます。

弘法大師空海が修行をした時、たくさんの天童がこの上で舞楽したという伝説があり、天童舞台石という名もあるそうです。

赤目牛

修験道の開祖 役行者(えんのぎょうじゃ、えんのおづぬ)がここの滝で修行をしていた時に赤い目の牛に乗った不動明王が現れたという伝説が赤目の由来です。

赤目五瀑の二つ目は、美しい千手滝(落差15m)。

岩を伝って千手のように水が流れ落ちるところから名付けられたとも、千手観音にちなんで名付けられたとも言われています。

弘法大師が護摩を修したところと伝えられている護摩の窟(ごまのくつ)。

岩に開いた穴の中に祠があって弘法大師像が祀られてました。パワースポットにふさわしく神秘的な雰囲気でした。

赤目五瀑の三つ目は布曳滝(落差30m)。

布曳滝は入り口からおよそ900mの場所にあります。一条の白い布を思わせる細い滝ですが、滝壺の深さは滝と同じく30mあるそうです。水の力って凄い!

今回はここで散策終了。

最後の滝まで見ようとすればあと2.3km歩かなければなりません。全行程は往復で3.5~4時間くらいかかるようですね。ちょうどお昼時だったから、途中途中にある休憩所や川原でお弁当を食べてる人も結構いました。

眩しい新緑の中、遊歩道を引き返します。

苔むした岩のどこからかカジカガエルの鳴き声も響いてました。

おしまい

過去記事<赤目四十八滝  マイナスイオンいっぱい

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赤目四十八滝 マイナスイオンたっぷり

2024年05月12日 15時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月4日

三重県と奈良県の境、三重県名張市にある赤目四十八滝は、「日本の滝100選」、「森林浴の森100選」、「遊歩100選」、「平成の名水百選」にも選ばれている景勝地。

赤目滝水族館を後にして、赤目滝渓谷の遊歩道に入りました。

最初の滝はふたつの岩に挟まれた間を流れ落ちる行者滝。

昭和50年(1975年)に三重で開催された第30回国民体育大会(三重とこわか国体)の際、ここで炬火が採火されたそうです。令和3年(2021年)も三重県が第76回国民体育大会の開催地になっていましたが、新型コロナウィルスの感染拡大により、残念ながら中止となってしまいました

霊蛇滝(落差6m)

霊蛇滝の名は白蛇が岩をよじ登る趣があり、滝の流れの中に顔を出す岩が竜の爪痕を思わせるので付けられました。碧く澄んだ滝壺も美しいですね。

遊歩道入り口から230mのところにある不動滝(落差15m)は、赤目五瀑のひとつ目です。

不動明王にちなんでこの名が付けられました。明治の中頃まではこの滝より奥は原生林で、足を踏み入れることはできなかったそうです。。

乙女滝

これ滝?と思ってしまうような流れですが、ちゃんと深さ1mほどの滝壺があるそうです。

そこそこ暑い日でしたが、山の中は涼しく、新緑も綺麗でたっぷりとマイナスイオンを浴びました。

こんな場所でも外国人観光客が結構いてビックリしましたね。東南アジア系と思われるお客さんが多かったように思います。

つづく

過去記事<赤目四十八滝 昭和と令和

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赤目四十八滝 昭和と令和

2024年05月11日 19時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月4日 10:30

GW後半、リニューアルした赤目滝水族館見物と新緑の渓谷を散策しようと、三重県名張市の赤目四十八滝に妻とやってきました・・・がっ!

さすが、GW真っ只中だけあって、途中の山道から渋滞。。。

でも、なんとか30分ほど待って駐車できたのはラッキーでした 途中で諦めてUターンする車も結構いましたからね。

駐車場から赤目渓谷へ至る途中の昭和テイスト溢れるお土産物店を観たりするのが、昔から好きでした。亡き父や母と一緒に初めて赤目を訪れたのは、もう50年くらい前だと思います。

前に息子を連れて来てからも、既に11年が経ってるから、どんな変化があるのかも楽しみです。

左の建物は、「伊賀のかくれ宿 赤目温泉隠れの湯 対泉閣」さん。やたらと隠れたがる旅館ですね(爆)

まぁ、修験道の開祖 役行者が修行した場所でもありますからね。人目に付かない神秘的な場所というイメージはあります。

渓谷入り口の前のこの通りは、以前はもっと雑多な印象がありましたが、今はずいぶんスッキリした通りになってました。

売ってるお土産も今時な感じですね。前はもっと昭和の観光地!って感じがしたものでしたが、やはりそれではやっていけません。

途中、このTシャツを着ている観光客を観ましたが、サンショウウオマニアなんだろうか

伊賀忍術の大家の一人、百地丹波守が修行したという伝説も赤目にはあります。

影の軍団で服部半蔵役の千葉真一が被っていたような忍者装束。マネキンの忍者はちと怖い。。

すくそばには忍者修行体験ができる『忍者の森』もあって、お子様に人気のようですね。

司馬遼太郎が原作の忍者映画『梟の城』のロケもこの赤目四十八滝で行われました。

前には無かった『忍法 赤目プリン』なる洒落たお店ができてました。

昨年の8月にできたカフェのようです。

日本の名水100選にも選ばれてる赤目の水で作ったコーヒーやサンショウウオに乗った忍者のロゴマークは今時風だけど、サンショウウオの置物はちょっとゲテモノ感がありますね。でも、このセンス・・・好きです(笑)

つづく

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モクモク手作りファームでぐるぐるウィンナー

2024年05月08日 20時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月3日 17:00

GW後半の5月3日に訪れた三重県伊賀市の『モクモク手づくりファーム』。

夕方5時も過ぎるとさすがにお客さんも少なくなってきました。

この日はGW恒例の「豚の祭典 とんとん祭り」の初日だったから、昼間は凄い人だったんでしょうね。駐車場には三重や滋賀ナンバーの車はほとんど無く、ほぼ県外車でした。。

小腹が空いたから、Buu Buuハウス前の売店でぐるぐるウィンナーとジャージーコーヒー牛乳をお買い上げ。

めっちゃ美味しいけど、ちょっと値が張るウィンナー。でも、16時からは大人¥600の入園料がいらなかったからお得です(笑)

入園口のモクモクショップでは、ハムやソーセージ、伊賀豚肉、手作りパンや地ビールが販売されてます。

ご興味のある方はモクモクのネットショップもありますよ。

直販 | モクモク手づくりファーム - 食品・飲料・産地直送の通販 (mokushop.jp)

ジャージーミルクスタンドは息子が好きだったジェラートショップ。

先だって、御在所サービスエリアに出店してるモクモクのショップでいちごシェイクを飲みました。

過去記事<またまたEXPASA御在所

野天もくもくの湯は夜21時まで営業中!

子供の日に因んで、かしわ餅を頭に乗せたブタのオブジェが可愛いね

1時間半ほど園内をぶらぶらして、最後はモクモク元気な野菜塾市場で、日向夏が美味しそうだったから、買って帰りました。

過去記事<モクモク手作りファーム  とんとん祭りだった。。

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安土城址 摠見寺へ持ち去られた文化財

2024年05月07日 13時00分00秒 | 行楽・旅行記6

滋賀県安土町(現 近江八幡市)、標高190mの安土山は16世紀に織田信長がその居城である安土城を築いた場所。

天正10年(1852年)、本能寺の変の後に焼失してしまった安土城ですが、それ以降もしばらく織田家の居城として、信長の嫡孫秀信(三法師)が清州会議の後に入城し、二の丸を中心に機能していたようです。その後、秀吉の養子の豊臣秀次が近くに八幡山城を築き、天正13年(1585年)に安土城は廃城となりました。

過去記事<八幡山と日牟禮八幡宮(2013年)

摠見寺 本堂跡

安土城築城とともに郭内に建立された摠見寺は、安土城炎上の際に類焼を免れ、安土城廃城後も江戸期を通じて存在していました。歴代の住職は織田家の一族から選ばれることになっていたようです。しかし、本堂は嘉永7年(1854年)に火災で焼失してしまいました。

国の重要文化財の三重塔

享徳3年(1454年)に建立された三重塔はもともと近江国甲賀郡(現 湖南市)の長寿寺にあったものを、摠見寺建設の際に信長がここに移築したものでした。

過去記事<湖南三山 長寿寺(2019年)

摠見寺跡から、琵琶湖の内湖である西の湖が見えました。

元々、この辺りには長野の諏訪湖より少し大きい大中湖(だいなかこ)という内湖があり、それが安土山の際まであったそうですが、戦後の干拓事業で埋め立てられ、今はありません。西の湖は大中湖に隣接したていた内湖でした。

こちらも国の重要文化財の仁王門

元亀2年(1571年)に信長が甲賀に攻め込んだ際、柏木神社(現 甲賀市)から持ち去り、摠見寺に移築しました。

過去記事<柏木神社 お稲荷様の御使い

仁王門の金剛力士像も国の重要文化財。その頭部内側に応仁元年(1467年)因幡院朝作の造像銘が残っており、室町時代の作と云われます。

あまり筋骨隆々ではない仁王様は室町期の特徴を残してますね。

地元の長寿寺や柏木神社は訪れたことがあり、そこから信長によって摠見寺に持ち去られた三重塔や仁王門はぜひ見てみたいと思っていました。今回その願いが叶い、満足しながら安土山を下りました。

おしまい

過去記事<安土城址  天主閣址に立つ!

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安土城址 天主閣址に立つ!

2024年05月06日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月1日

滋賀県琵琶湖の東岸、安土山にあった織田信長の居城 安土城の天主閣址にようやく到着しました。

「天守閣」ではなく、安土城では「天主閣」の漢字を用いるようです。。

信長は総普請奉行に丹羽長秀をあて、安土城の築城を開始。天正7年(1579年)に五重六階地下一階で、最上階は黄金色に輝き、その下階は朱塗りの八角堂であったとされる天主閣が完成しました。

天主閣址

ここに金色に輝く安土城天主閣があったと思うと感動すら覚えます。

安土城は総石垣で普請された城郭で、初めて石垣に天守の上がる城となりました。石垣職人集団の穴太衆(あのうしゅう)が普請を手掛け、後に全国の城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていったそうです。

天主閣から安土城下や琵琶湖を眺め、信長はどんな夢を思い描いていたのでしょうか。。

今まで、『安土城天主 信長の館』や『伊勢戦国時代村(現 伊勢忍者キングダム)』で復元された安土城を見てきましたが、これでようやく本物が建っていた場所に来ることができました。

過去記事<信長の館 幻の安土城天主

過去記事<お気楽写真館(14)Azuchi-jo Castle

二の丸にある信長公廟

何か、近くで撮影するのが恐れ多くて、こんな写真だけです。。

本能寺の変後、信長の遺体は見つからなかったことは有名な話ですが、そのためか 信長と墓とされるものや供養塔は色々な場所にありますね。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、安土城留守居役だった蒲生賢秀は信長の妻子を連れて安土城から居城の日野城へ脱出。明智軍が安土城を占拠しますが、山崎の戦いで光秀が敗れると、安土城の天守閣、本丸は炎に包まれました。

信長の次男 織田信雄とその子孫四代までの墓

日和見主義的な面があり、あまりイメージが良くない信雄ですが、織田一族の中で最も長くその家名を存続できたのは信雄の一党でした。まぁ。世の中そんなもんですね。

安土城に火を放ったのは信雄という説もあるようですが、さてどうなんでしょう

天主閣址から降り、摠見寺跡に向かう途中、信長の小姓、近習で、本能寺の変で信長を守り、討ち死にした森成利(森蘭丸)の邸宅址がありました。

つづく

過去記事<安土城址  本丸跡に至る

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モクモク手づくりファーム とんとん祭りだった。。

2024年05月05日 22時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月3日 16:00

GW後半戦初日、妻と三重県伊賀市の『伊賀の里 モクモク手づくりファーム』に行ってきました。

午後4時なのにまだお客さんが大勢いますね~

それもそのはず、この日は「豚の祭典 第28回 とんとん祭り」の初日でした。

16時からは入園無料なんで、閉園までのんびりと散策しようと思っていたんですが・・・。でも、観光地はそれなりに賑わってないと雰囲気出ないですね(笑)

モクモク手づくりファームは、伊賀の養豚業者らが出資した農事組合が29年前にオープンさせた農業公園で、モクモクのハムやソーセージ、乳製品は今では三重県を代表する食品ブランドにもなってます。

のんびり学習牧場にやってきました。

ジャージー牛の乳しぼりは、コロナ禍が始まる前の2019年に訪れた時に管理人家族も体験しました

過去記事<モクモク手作りファームで乳搾り体験

いななくロバさん

小麦工房さんではもう手作りパンは売り切れでした~。

小麦工房とPaPaビアレストラン前の池ではまだ数組のファミリーがイカダ漕ぎアトラクションの順番を待ってます。

駐車場はほとんどが県外車で、西は神戸、姫路ナンバー、東は所沢、川崎ナンバーの車もありましたね。閉園ギリギリまで遊んで、子供連れのお父さん、お母さん、お疲れ様です。。

おまつり広場では、イベント恒例のモクモクダービーが昼間に行われていたみたい。

全部で8レース!

モクモクダービーは、入園時や園内で買い物した時に貰える投票券で、ミニブタレースに投票することができます。

管理人もだいぶ前にチャレンジしました・・ハズレたけどね

息子は、5歳だった時にモクモクのウシガエルレースで優勝したことがありました(笑)

過去記事<モクモクファーム収穫祭1(2013年)

過去記事<カエルンピック in モクモク(2010年)

出走したミニブタさんかな コース内を気ままに歩いてました。。

つづく

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安土城址 本丸跡に至る

2024年05月05日 11時00分00秒 | 行楽・旅行記6

臨済宗妙心寺派 摠見寺の仮本堂須弥壇に祀られた織田信長公像。

摠見寺は安土城築城とともに城内に建てられた寺院で、開山以来5代にわたって織田家の末裔が住職となり信長の菩提を祀ってきました。像は江戸時代初期の作と云われてます。信長公の戒名は「摠見寺殿大相国一品泰巌大居士」でした。

摠見寺本殿は嘉永7年(1854年)に火災で焼失してしまい、現在の仮本殿はかつて徳川家康邸のあった場所に建ってます。

釣鐘の前の賽銭箱には天下布武と書かれてますね。

『天下布武』は武力で天下を治めるという意味ではなく、「畿内に幕府を作る」、あるいは「戦のない泰平の世を作る」という意味であったというのが最近の説のようですね。覇王 信長のイメージが強いけど、信長は誰よりも泰平の世の中を望んでいたようです。

では、天守跡を目指してさらに石段を登っていきましょう

嗚呼・・めっちゃしんどい

途中で休憩したくても、雨で濡れてるから、腰掛けることもできません。。

織田信忠邸址

織田信忠は信長の長男ですね。

明智光秀の挙兵で信長が本能寺で斃れると、信忠は宿所だった妙覚寺から二条新御所に移り、光秀を迎え撃とうとしましたが、明智の大軍が攻め寄せると、勝ち目がないことを悟り、自害しました。。

もうすぐ、本丸、天守跡のようです

黒金門跡に着きました。

黒金門(くろがねもん)は、安土城中枢へ入るための門で、天守と共に火災に遭ったことが分かっているそうです。

ぬかるみを避けながら本丸に向かいます。

この石段を上がり、左に折れると本丸、天守跡のようですね。

石に足形が彫られた仏足石がありました。

安土城築城にあたり、石垣に使われた石は近辺で切り出された他、墓石なども使われてました。登ってきた石段にも仏様が彫られた石がいくつかありました。

仏足石はお釈迦様の足跡を表現したもので、奈良の薬師寺には日本最古の仏足石があります。この仏足石は昭和初期の登山道整備時に発見されたものだそうです。

本丸跡に着きました~!

左の石垣の上に天守が乗っかっていたんですね。

いまでこそ、城は石垣の上に天守が聳え立つイメージがありますが、石垣の上に天守を築くようになったのはこの安土城が最初だったそうです。

つづく

過去記事<安土城址  摠見寺特別拝観

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安土城址 摠見寺特別拝観

2024年05月04日 13時00分00秒 | 行楽・旅行記6

5月1日

雨が降る中、滋賀県安土町(現 近江八幡市)の安土山にある安土城址を訪れました。

麓から大手道跡の石段を息を切らせながら登って天守跡を目指します

この上下二段の郭群は、羽柴(豊臣)秀吉邸宅跡。

豊臣秀吉邸址

摠見寺に残る古い絵図ではここに秀吉邸があったとされていますが、発掘調査では秀吉に結び付くような証拠は見つかっていないようですね。礎石はいくつか見つかっているので、ここに何らかの屋敷があったことは確実なのですが・・・。

でも、安土に居る時はここに秀吉が住んでいたのかもしれないと思うと歴史ロマンを感じちゃいます

大手道を挟んで秀吉邸の向かいにあるのが臨済宗妙心寺派 摠見寺(そうけんじ)の仮本殿。

摠見寺では不定期で主に土日祝日に本堂内部の特別拝観が行われているそうですが、この日は平日なのに運良く拝観できました!

御茶室で呈茶のおもてなし。

温かいお抹茶や美味しいお菓子でホッと一息つきました。

摠見寺は、天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に建立された寺院です。

安土城廃城(1585年)後も残っていましたが、嘉永7年(安政元年、1854年)に火災で本堂は焼失しています。信長公350回忌を記念して宮内庁から京都御所の一部を賜り、昭和8年にこの仮本堂が建てられました。

受付に居たお坊さんに確認して、写真撮影OKとのことだったから、本堂内を紹介しますね。

襖絵の「老櫻」は日本画家 赤沢嘉則氏(1971年~)の作品で、15年ほど前に新調されたようです。

信長の姿が描かれた掛け軸。

「安土八景」は、摠見寺の執事も勤めていた山本燈舟による襖絵。

本堂中央の部屋の須弥壇には、御本尊であり、室町時代の一本造りの仏像である十一面觀世音菩薩立像が祀られていました。

つづく

過去記事<安土城址 天守跡を目指して出発!

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安土城址 天守跡を目指して出発!

2024年05月02日 22時30分00秒 | 行楽・旅行記6

5月1日

GW前半と打って変わってこの日は、寒い、雨、風強いの三重苦

そんな中、琵琶湖東岸部の安土町(現近江八幡市)にやってきました。

虎口の芝をせっせと刈るロボット芝刈り機に付いた幟でもお分かりの通り、織田信長の居城だった安土城のあった安土山です(笑)

近くの「安土城考古博物館」や「安土城天守信長の館」は何度か行ったけど、安土城址を訪れたのはこれが初めてだから、めっちゃ楽しみ~

過去記事<信長の館 幻の安土城天主(2016年)

安土城大手道の入り口には、観光案内やグッズ販売の城なび館がありました。

安土山の登山道に入ると、その先にトイレは無いので、ここで用は済ませておきましょう。

弥助パネル展だって

弥助(生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した宣教師が護衛あるいは従者、奴隷として連れていた黒人で、宣教師が織田信長に謁見した際、信長がこの黒人を気に入り、弥助と名付けて家臣として召し抱えました。

弥助はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)の出身であったと伝わります。

さぁ、この小屋で入山料を払って大手道に入ります。

およそ500m歩けば、安土城天守跡に着きます!

途中には信長の菩提寺の摠見寺(そうけんじ)もあるためか、こんな絵馬がたくさん掛かってました。

摠見寺の御朱印や安土城の御城印もここで授かることができるみたいですね。

では、行ってみましょう

えっ? 

ただでさえ、雨と風でコンディションが良くないのに、目の前に立ちはだかるこの大手道の石段を見て、正直、気持ちが折れそうになりました。。

写真では分かりにくいかもしれませんが、石も不揃いで段差もかなり高くて登りにくく、勾配も急。まさか、これが500mも続くなんてことはないよね

とりあえず、濡れた石で足を滑らさないようにゆっくりと石段を上がっていきましょう

大手道の脇のこの場所は前田利家の邸宅があった場所だそうです。安土城は本丸に至る道の途中に家臣や同盟を組んだ武将たちの邸宅が配置されていました。

つづく

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曹洞宗金剛山 伊勢寺にて

2024年04月23日 13時00分00秒 | 行楽・旅行記6

某日、息子と大阪府高槻市にある曹洞宗 金剛山象王窟 伊勢寺を訪れました。

三十六歌仙のひとりで、百人一首の第19番に採用された平安時代の女流歌人 伊勢の隠棲跡に建てられた寺院です。

伊勢姫は、父の藤原継蔭が伊勢守であったことから父の受領名をもって「伊勢」と呼ばれました。当時の皇太子だった定省親王(後の宇多天皇)の寵愛を受けて行明親王を産みましたが、親王は8歳で亡くなり、宇多天皇も31歳で譲位して仁和寺に居所を移しました。

伊勢は桂に移り住み、和歌に励んで多くの歌集を残します。宇多法皇崩御の後、伊勢はこの地に隠棲して、法皇と行明親王の御霊を祀り、その多彩な生涯を閉じました。

本堂

その後、弟であった伊勢貞国が伊勢の屋敷跡を寺として整備し、天台宗寺院としました。

しかし、伊勢寺は天正年間(1573-1592年)に高山右近と織田信長が摂津で戦った際の戦火に巻き込まれて焼失しまいます。元和元年(1615年)になると、松間宗永和尚によって10年以上の歳月をかけて曹洞宗寺院として再建されました。

本尊の聖観世音菩薩立像は円仁(慈覚大師)の作と伝えられ、幾多の戦禍に耐えて、平安時代の頃の温容を保っているそうです。

百人一首の第19番 伊勢の歌碑

「難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや」

難波潟の芦の短い節のようなほんのわずかな間も逢わないまま、あなたは私にこのまま人生を過ごせと言うのでしょうか

愛する人達を亡くした伊勢の孤独を感じる切ない歌ですね。

筆塚

伊勢の命日とされる伊勢姫忌法要の日には筆供養が行われ、文筆、学問の向上上達を祈願する人々が訪れるそうです。

お庭に埴輪がありました。

高槻には国の史跡の今城塚(いましろづか)古墳がありますからね。

今城塚古墳は、6世紀前半では最大級の前方後円墳で、宮内庁の治定は受けていないので、発掘調査や一般人の立ち入りが可能です。古墳は公園として整備され、埴輪祭祀場が再現されてます。 

第26代 継体天皇の御陵は隣の茨木市の太田茶臼山古墳とされ、宮内庁が管理していますが、歴史学会や考古学会では、継体天皇の真の陵は今城塚古墳であることが定説だそうです。

そして、この伊勢寺には甲賀の和田地域を治めた戦国武将の和田惟政の墓があるそうなんですが、見つけることができませんでした。。

和田惟政は織田信長と足利義昭公を結び付けて、自身は信長の配下となり、甲賀武士団を統率して信長の天下布武に貢献しました。後に信長によって摂津国高槻城主に取り立てられ、自国領でキリスト教を手厚く保護し、ルイス・フロイスの信長への謁見の仲介役も務めたと言われてます。

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