某日、息子と大阪府高槻市にある曹洞宗 金剛山象王窟 伊勢寺を訪れました。
三十六歌仙のひとりで、百人一首の第19番に採用された平安時代の女流歌人 伊勢の隠棲跡に建てられた寺院です。
伊勢姫は、父の藤原継蔭が伊勢守であったことから父の受領名をもって「伊勢」と呼ばれました。当時の皇太子だった定省親王(後の宇多天皇)の寵愛を受けて行明親王を産みましたが、親王は8歳で亡くなり、宇多天皇も31歳で譲位して仁和寺に居所を移しました。
伊勢は桂に移り住み、和歌に励んで多くの歌集を残します。宇多法皇崩御の後、伊勢はこの地に隠棲して、法皇と行明親王の御霊を祀り、その多彩な生涯を閉じました。
本堂
その後、弟であった伊勢貞国が伊勢の屋敷跡を寺として整備し、天台宗寺院としました。
しかし、伊勢寺は天正年間(1573-1592年)に高山右近と織田信長が摂津で戦った際の戦火に巻き込まれて焼失しまいます。元和元年(1615年)になると、松間宗永和尚によって10年以上の歳月をかけて曹洞宗寺院として再建されました。
本尊の聖観世音菩薩立像は円仁(慈覚大師)の作と伝えられ、幾多の戦禍に耐えて、平安時代の頃の温容を保っているそうです。
百人一首の第19番 伊勢の歌碑
「難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや」
難波潟の芦の短い節のようなほんのわずかな間も逢わないまま、あなたは私にこのまま人生を過ごせと言うのでしょうか
愛する人達を亡くした伊勢の孤独を感じる切ない歌ですね。
筆塚
伊勢の命日とされる伊勢姫忌法要の日には筆供養が行われ、文筆、学問の向上上達を祈願する人々が訪れるそうです。
お庭に埴輪がありました。
高槻には国の史跡の今城塚(いましろづか)古墳がありますからね。
今城塚古墳は、6世紀前半では最大級の前方後円墳で、宮内庁の治定は受けていないので、発掘調査や一般人の立ち入りが可能です。古墳は公園として整備され、埴輪祭祀場が再現されてます。
第26代 継体天皇の御陵は隣の茨木市の太田茶臼山古墳とされ、宮内庁が管理していますが、歴史学会や考古学会では、継体天皇の真の陵は今城塚古墳であることが定説だそうです。
そして、この伊勢寺には甲賀の和田地域を治めた戦国武将の和田惟政の墓があるそうなんですが、見つけることができませんでした。。
和田惟政は織田信長と足利義昭公を結び付けて、自身は信長の配下となり、甲賀武士団を統率して信長の天下布武に貢献しました。後に信長によって摂津国高槻城主に取り立てられ、自国領でキリスト教を手厚く保護し、ルイス・フロイスの信長への謁見の仲介役も務めたと言われてます。
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