お気楽忍者のブログ 弐の巻

ミニカー収集/お魚採取/動植物フォト/行楽記・・・趣味のごった煮ブログ

2022 お気楽行楽記総集編(10)

2022年12月17日 13時20分00秒 | 行楽・旅行記3

8月

びわこ地球市民の森(滋賀県守山市)

熱中症警戒アラートも発令されていた8月某日、滋賀県運転免許センターへ免許更新へ行った帰り、びわこ地球市民の森に立ち寄りました。

里の森ゾーンにある森作りセンターの横の冒険の森エリアには大型遊具がありましたが、誰も居ませんね。。

びわこ地球市民の森は滋賀県営の都市型公園で、廃川となった野洲川南流跡地を利用して二酸化炭素を吸収する緑の保護と再生、市民の憩い、自然学習の場として整備されました。

それにしても暑すぎる

散策は途中で断念・・・涼しい森作りセンターに入ると、中では子供連れの方々が学習イベントに参加されてました。

外で走り回るのはちょっと危険な暑さでしたからね。。

御上神社(滋賀県野洲市)

滋賀県野洲市、三上山(みかみやま)の麓にある御上(みかみ)神社は、今からおよそ2,200年前の孝霊天皇の時代に天之御影命(あめのみかげのみこと、天照大神の孫)が三上山の山頂に降臨し、御上祝(神主の祖)が三上山を御神体として祀ったことに始まると伝えられています。

本殿(国宝)

養老2年(718年)に藤原不比等が勅命を拝し、現在の地に社殿が造営されました。

武家執政の世になっても、源頼朝を始め各武将が崇敬し、徳川幕府に至るまで代々神領を寄進し、社殿の修営を行ったそうです。

御田祭(おんださい)

6月1日に植えた稲の苗が人の手を全く加えることなく枯れれば豊作、稔れば凶作になるということですが・・・結果はどうだったんだろう

神社の前から望む三上山は標高432mで、俗に近江富士と呼ばれています。

三上山の麓からはこれまでに24個の銅鐸が発掘されていて、古代から祭祀が行われる場所であったことが分っています。天之御影命が鍛冶の神であることも興味深いですね。

因みに俵藤太(藤原秀郷)が大ムカデを退治したという伝説の舞台がこの三上山です。

サトイモの花が咲きました。

日本では花を咲かせることは珍しいサトイモですが、高温多湿の影響なのか、ここ3年くらいは夏になると花を見ることが多くなりました。

サトイモの花は花序を包む大きな仏炎苞が特徴で、同じサトイモ科のミズバショウやカラーも同じタイプの花を付けますね。

8月は義母の初盆だったから中旬は忙しかった。

盆の時期が終わると、今年初盆だったお宅が集まり、祭壇を燃やして故人の魂を送り出しました。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(9)

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2022 お気楽行楽記総集編(9)

2022年12月16日 16時00分00秒 | 行楽・旅行記3

7月

大鳥神社(滋賀県甲賀市)

今年の行楽の様子をシリーズで再録しています。

7月に入ると新型コロナ感染者数の爆発的増加が起こり、第7波と呼ばれる状況に。7月下旬からの1か月間は世界の中で日本が新規感染者数第1位となってしまいました。

今年も地元の氏神様の夏の祭禮は早々と中止が決定。

氏子には団扇と縁起物の花だけが配られました。。

鹿深夢の森(滋賀県甲賀市)

今年も夏の旅行には行けなかったな

市内のポケふたを探してブラブラ

ポケモンマンホール「ポケふた」はポケモンのキャラクターが描かれたマンホールの蓋で、各地の魅力とポケモンの魅力を発信するローカルポケモンActsの活動の一環として全国の200カ所ほどに設置されてます。

市内の鹿深夢の森にはゲッコウガのポケふたがありました。

鹿深(かふか)は甲賀(こうか)の地名の由来になったとされるこの辺りの古い呼び名です。

水口スポーツの森(滋賀県甲賀市)

水口スポーツの森ではゲッコウガとゲコガシラのポケふたを発見!

今年もサトイモが花の蕾を付けました。

東南アジアなどでは花を咲かせるサトイモも日本では花を咲かせるのは珍しく、高温、多湿、大雨などの条件が揃った時に花を咲かせます。

日本も段々と亜熱帯化しているということでしょうか

8月

第一なぎさ公園(滋賀県守山市)

滋賀県守山市の琵琶湖畔にある第一なぎさ公園はひまわり畑で有名ですが、あまりの暑さにひまわりもテンション下げ下げ🌻

数本立ってるひまわりを見つけて、とりあえずリゾートマンションと比良山系をバックに夏っぽい写真をパシャ(笑)

琵琶湖サイクリストの聖地(滋賀県守山市)

自転車で琵琶湖を一周することを滋賀では「ビワイチ」と呼び、滋賀県の長距離サイクリングルートの名称にもなってます。今は国交省が指定するナショナルサイクルルートの一つとしても選ばれてるそうですね。

1周およそ200kmのビワイチの発着地は滋賀県守山市の琵琶湖大橋のそばにあり、そこはサイクリストの聖地となってます。

琵琶湖をバックにこんな映えるモニュメントも出来てました

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(8)

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2022 お気楽行楽記総集編(8)

2022年12月15日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

6月

真言宗豊山派如意輪山小谷寺(滋賀県長浜市)

小谷寺は神亀5年(728年)に泰澄上人が白山から伊吹山までの峰々に修験場を開いた時、小谷山に建てた坊舎がその興りと云われています。

大永4年(1524年)頃に浅井亮政が小谷山に小谷城を築いた時に寺領交換が行われて山の麓に移り、浅井家はここを祈願寺として仏殿を寄進し小谷寺としました。

信長勢が小谷城を攻め、浅井長政は自害。長政の妻のお市の方(信長の妹)は信長の元に戻ります。

その後、お市の方は柴田勝家に嫁ぐ途中に小谷寺に立ち寄り厨子を納めたと云われます。戦国の世とは言え、一体どんな気持ちだったのでしょう?

長政亡き後、秀吉はこの地をしばらく治めましたが、比叡山ゆかりのものや浅井家ゆかりのものを手厚く庇護したのは単なる人気取りなのか、良心の呵責なのか・・・。

そんな事を思いながら、陽も暮れてきたので浅井氏三代の祈願寺だった小谷寺を後にしました。

小谷城戦国ステーション(滋賀県長浜市)

琵琶湖(滋賀県)

6月後半、再びお仲間と夜の琵琶湖に繰り出し、ビワコオオナマズリベンジ

「おっ、アタリが来た~!」と思ったらバスでした。。

まぁ、ボウズは免れたのでヨシとしましょう。

こちらはまめ吉さんが釣ったナマズ。

残念ながらビワコオオナマズでもイワトコナマズでもなく、普通のマナマズでしたが。。

7月

青土ダム

青土(おおつち)ダムは野洲川水系に設置されたロックフィル型ダムで、洪水調節・上水道・工業用水として利用されてます。

滋賀県の中では一番最初に造られた複数の機能を持つ多目的ダムです。

ゲートレス(自然越流方式)の常用洪水吐(こうずいばき)は円形で、さらに水位が上がるとこの穴からダムの水が下流に流れ出ていきます。

水が穴に流れ込む様は迫力があって、ダムマニアの間ではこの青土ダムは人気があるんだとか。

実は前日の雨で、この洪水吐に水が流れ込んでる様子をみれるかな?と思ったんですが、1日雨が降ったくらいではダメでした

びわ湖の日

その昔、琵琶湖では赤潮などが発生し、漁業や生態環境に深刻な影響を及ぼしました。

赤潮の原因であるプランクトンの大量発生には琵琶湖に流れ込むリンや窒素などによる富栄養化が関係しています。

県民の間でリンを含む合成洗剤の使用を止め、石鹸を使おうという「石けん運動」が行われ、これが1980年の「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」(琵琶湖条例)の制定につながり、びわ湖の環境は徐々に回復していきました。

条例制定1周年を記念して翌1981年に県は7月1日を「びわ湖の日」と定め、今年で41周年を迎えました。

びわ湖の日県民一斉清掃活動として、午前は近くの河川敷の草刈り、午後は道路美化活動に参加しました。

琵琶湖岸だけでなく、森、川、里、道の清掃を通して県民が琵琶湖への思いを共有し、環境を守ろうとする素敵な取り組みです。海の無い滋賀県の河川は瀬田川を除いた全ての川が琵琶湖に流れ込みますからね。

 

甲南情報交流センター忍の里プララ(滋賀県甲賀市)

7月は市内のポケふたを巡ったりもしましたね。

ポケモンマンホール「ポケふた」はポケモンのキャラクターが描かれたマンホールの蓋で、各地の魅力とポケモンの魅力を発信するローカルポケモンActsの活動の一環として全国各地に設置されつつあります。

ゲッコウガのポケふた

ポケふたは滋賀県大津市に設置されたのが全国で初めてで、今のところ大津に二つ、甲賀に三つのポケふたがあります。

ポケふたの場所はポケモンGoのポケストップにもなってます。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(7)

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2022 お気楽行楽記総集編(7)

2022年12月14日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

6月

旧中山道醒井宿(滋賀県米原市)

6月某日の夕刻、旧中山道六十九次の61番目の宿場町であった醒井(さめがい)宿を訪れました。

古代から交通の要衝で、日本武尊伝説に登場する「居寤(いさめ)の清水」や日本書記の「居醒井(いさめがい)の泉」がその地名の由来と考えれてます。

2015年には日本遺産『琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産』の構成資産に認定されました。

宿場に沿って流れる清流 地蔵川。

十王水は平安時代に天台宗の僧 浄蔵によって開かれた水源で、この裏手の山麓から水が湧き出してます。

そして、醒井宿の見どころのひとつが地蔵川のこのバイカモ(梅花藻)。

バイカモはキンポウゲ科の沈水植物で、水温15度前後の湧水に生息しています。

ちょうど、5~8月頃に梅の花に似た白い5枚の花びらの小さな花を付けます

この地蔵川は冷たい湧水でしか生息できないトゲウオの仲間のハリヨの保護区にも指定されてます。

三重県、岐阜県、滋賀県に生息していたハリヨも、1950年に三重県では絶滅。。

今は滋賀北東部から岐阜南西部にかけてのみ生息していますが、県内全域で許可の無い捕獲は法律で禁止されてます。

写真は呉服屋さんの店先の水槽で飼育されていたものを撮影しました。

ヴォーリスが設計し、大正時代から昭和48年まで醒井郵便局として使われていた建物。

国の有形文化財にも指定されていて、今は醒井宿資料館になってます。

昭和11年築で昭和初期の公民館建築様式が残る醒井公会堂(国の登録有形文化財)。

御菓子処の丁子屋さんは名水まんじゅうが有名なお店ですが、管理人が気になったのは梅花藻ソフトクリームでした。

こちらは醒井木彫美術館。

この場所の南にある豊かな山々に囲まれた上丹生(かみにゅう)地域は昔から木彫が盛んなんだそうです。

この美術館では彫刻家の森大造氏の作品や上丹生彫刻が展示されてます。

消火道具入れも街の景観に合わせて超レトロ調なのが面白いね

日本武尊(やまとたける)像

地蔵川の源流となる居醒(いさめ、いざめ)の清水に日本武尊が腰かけたとされる腰掛石と馬の鞍を置いた鞍掛石がありました。

「古事記」および「日本書紀」によれば、日本武尊が伊吹山の荒神たちと戦った時にその毒気にあたり、それを癒した泉と伝えられています。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(6)

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2022 お気楽行楽記総集編(6)

2022年12月13日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

6月

小谷城戦国歴史資料館(滋賀県長浜市)

北びわこ 戦国の聖地・・・

小谷城は小谷山の尾根に沿って城郭が並ふ典型的な山城で、浅井家が三代に渡って居城にしていました。

三代目 浅井長政は織田信長と軍事同盟を結び、信長の妹のお市の方を妻としましたが、後に越前の朝倉義景とともに挙兵し、信長家康連合軍と姉川で激突します。

天正元年(1573年)、信長が越前に攻め入って朝倉氏を滅ぼし、次は裏切った浅井の小谷城を包囲しました。

木下秀吉による再三の降伏勧告にも応じず、浅井長政は自害。お市の方と三人の娘(茶々、初、江)は浅井家家臣 藤掛永勝に救い出され、織田家に引き取られました。

小谷山の麓にある小谷城戦国歴史資料館は小さな博物館でしたが、浅井氏三代の歴史や小谷城跡からの出土品、小谷城の構造などに関する展示物がありました(館内は写真撮影禁止)。

滋賀は単位面積あたりの城郭数が日本で一番多く、また戦国時代ゆかりの場所がたくさんあるから、戦国史が好きな管理人には魅力的な場所だったりします

戦国ガイドステーション(滋賀県長浜市)

続いて、戦国ガイドステーション(観光案内所)にやって来ました。夕方だったから、その日の営業は終わっちゃってました。また、観光シーズンに運行している小谷山の中腹の番所跡まで登るシャトルバスの発着場にもなってます。

2011年に放映されたNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』の放映記念として建てられた巨大な兜のオブジェは絶好の撮影スポットですが、もう誰も居ませんでした。。(笑)

先の戦国歴史資料館で小谷城址の保全のためにわずかばかりの寄付をしたら、城カード(近江の城カードシリーズ)を貰いました

道の駅 浅井三姉妹の郷(滋賀県長浜市)

小谷城址を後にして国道365号線沿いにある『道の駅 浅井三姉妹の郷』(滋賀県長浜市)にも立ち寄ってみました。

ここから南へ数百メートル先には姉川が流れていて、浅井朝倉連合軍 vs 織田徳川連合軍が激突した姉川の戦のあった場所でもあります。

お市の方と浅井三姉妹の像

信長の妹で長政に嫁いだお市の方は長政自害後 織田家に戻り、後に柴田勝家に嫁ぎましたが、信長亡き後の覇権を巡って勝家は賤ヶ岳で羽柴秀吉と戦い、敗れた勝家とお市の方は自害しました。

長政とお市の方の間に生まれた茶々は後の淀君で秀吉の側室、初は京極高次の妻、江は徳川2代将軍秀忠の妻となり、長政、お市の方亡き後も歴史に大きな影響を与えました。

館内には『江・浅井三姉妹博覧会の軌跡』と題して、2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」に合わせて長浜市内で開催された江・浅井三姉妹博覧会の展示物の一部が飾られてました。

大鳥神社

地元の氏神様の花手水は6月らしく紫陽花に変わってました🐌

天台宗向陽山 龍福寺(滋賀県甲賀市)

龍福寺は平安時代初期に比叡山延暦寺根本中堂建立のために必要な用材を調達するためこの地を訪れた最澄が悪疫に苦しむ人々の平癒を祈願して薬師如来を祀ったのが始まりと伝えられてます。

本堂は新しそうですが、本尊は平安時代後期に造られた薬師如来坐像で、国の重要文化財に指定されているそうです。

不動明王像(多喜不動)

この辺りの字(あざ)は滝(たき)と呼ばれますが、その地名は鎌倉~室町時代に甲賀東部で勢力を誇った多喜氏に由来します。

豊臣政権の三中老の一人、戦国武将の中村一氏も多喜一族の出身ですね

こんな仏様もいました。

龍に乗った龍上観音だろうか綺麗なブルーの龍の造形イイですね

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(5)

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2022 お気楽行楽記総集編(5)

2022年12月11日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

5月

名古屋から京都方面へ疾走する新幹線🚅

今年の行楽の記録を総集編として再録しています。お付き合い下さいませ。

道の駅 アグリの郷 栗東(滋賀県栗東市)

滋賀県の栗東市(りっとうし)にある『道の駅 アグリの郷 栗東』は2000年に開業した道の駅で、地元の農産品や直営の厨房で作るパンやジェラートが人気です。

また、日本で唯一、新幹線の線路脇にある道の駅で『新幹線ビューの道の駅』をウリにしていて、最近はドクタイエローの撮影スポットとしても人気があります。

ドクターイエローはおよそ10日に1度、線路点検のために東京/博多間を1往復します。

その運行ダイヤは明らかにされていませんが、この道の駅に行けば直近のダイヤ予想が公開されてます(SNS投稿禁止だったので写真はありません)。

管理人も以前にここを訪れた時、お店の方に「もう少ししたらドクターイエローが来るよ」と教えてもらい待っていたことがありました(笑)

大鳥神社(滋賀県甲賀市)

管理人の散歩コースの地元の氏神様の花手水はラナンキュラスになってました。

6月

琵琶湖(滋賀県)

6月上旬、久しぶりにお仲間と琵琶湖で集合!

集合時間前に川でガサしてオイカワに出会えました。

まずは中華料理屋さんで腹ごしらえ

この日は一晩中琵琶湖畔でビワコオオナマズを狙ってキャストを続けましたが、バイトも一切なし

周囲ではコイと思われる魚が跳ねてましたが、ナマズの兆候はありませんでした・・・

水温が低いのでまだ浅瀬まで上がってこないのだろうか 

3年ぶりの夜を徹しての釣りでしたが、さすがに50代も半ばとなると徹夜は堪えますね。。

道の駅 湖北みずどりステーション(滋賀県長浜市)

琵琶湖に沿った県道331号線沿いにある『道の駅 湖北みずどりステーション』にやってきました。2002年に開駅した道の駅で湖北水鳥公園に隣接しています。

もしかして、この建物は鳥の顔になってんの

湖北水鳥公園(滋賀県長浜市)

道の駅の隣りには湖北野鳥センターがありました。

ビジターセンターではフィールドスコープで水鳥の観察ができたり、専門員の方が鳥や自然について説明してくれるそうですよ。

目の前の琵琶湖の湖岸は琵琶湖では珍しく、沖合500mほどまで水深が2~3mと遠浅になっていてたくさんの水鳥が集まるそうです。

岸から数十メートル先に島状の地形があるのも琵琶湖では珍しい景観です。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(4)

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2022 お気楽行楽記総集編(4)

2022年12月10日 17時52分51秒 | 行楽・旅行記3

4月

大阪城公園(大阪市中央区)

今年の行楽の様子を総集編として再録しています。

半年に1度の検診で大阪に来ってきたので、大阪城公園をぶらぶら散歩

この時は本丸の北西にある大阪城桃園に行ってみました。

もう梅やソメイヨシノは終わっていましたが、桃はまだ大丈夫でした。

義母がまだ生きていた時に植えたタマネギを収穫。

義母の畑を放置しておくのも勿体ない。平日は仕事でできませんが、何とか土日だけでもと土いじりを始めたのもこの頃からでした。

古城山(水口岡山城址)(滋賀県甲賀市)

かつて水口岡山城のあった古城山を望むと天守閣が・・

4月23日、古城山山頂ではイベント「よみがえれ水口岡山城2022」が開催されてました。

そのイベントで山頂に設置されたお城型の大きなバルーンです。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉が甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて水口岡山城を築かせました。その後、1595年には豊臣五奉行のひとり、長束正家が5万石で水口岡山城に入りました。

夜にはお城バルーンがライトアップされました。

当時の天守がどのくらいのサイズ感だったのか知りませんが、城下の人たちはこんな風にお城を見上げていたのかなぁ。

鹿深夢の森(滋賀県甲賀市)

6月5日に地元甲賀市の鹿深夢の森で開催された『第72回 全国植樹祭しが2022』。

4月に入ると会場はほぼ出来上がって、参加する団体のリハーサルが何度も行われました。

植樹祭にふさわしく木でできた式典のメイン施設。

残念ながら天皇皇后両陛下の御来訪は叶わず、今年もオンラインでのご参加になることがこの時期にアナウンスされました。。

5月

滋賀県畜産技術振興センター(滋賀県蒲生郡日野町)

GW最終日、滋賀県蒲生郡日野町に買い物へ行ったついでに、妻と滋賀県畜産技術振興センターへ。

今年のGWもほぼ巣ごもりでしたね。息子もずっと部活動だったし、亡くなった義母の畑の手入れや農作業小屋の片付け、庭の草むしりなどで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

天気も良かったので、小さい子供を連れた家族連れがたくさん訪れてました。

小学生くらいの子が家族と一緒に動画を撮りながら、「北海道に来てま~す!」と言ってるのを聞いて爆笑してしまいました(爆)

そりゃ、この丸2年 コロナで閉塞した世の中で、出掛けるのもままならなかったからストレスも溜まるよね。

この春にもたくさんの子ヒツジが産まれたみたい、可愛い

今年は畑仕事をしてると、よくキジと出会いました。おそらく後ろの草むらの中に巣があるんじゃないかな。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(3)

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2022 お気楽行楽記総集編(3)

2022年12月07日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

4月

佐治神社(滋賀県甲賀市)

3月末は肌寒い日が続きましたが、4月になり ようやく甲賀の里にも桜満開の季節がやって来ました。

康平五年(1062年)、平業国が伊豆からこの地に来て佐治郷五箇村の領主となり佐治城を築きました。その子孫の小佐治氏が元弘年間(1331-1334年)に佐治荘三箇村の領主となりその守護神として小佐治大明神社を勧請したのがこの佐治神社の始まりと伝えられています。

日吉神社(滋賀県甲賀市)

45代聖武天皇の御代、天平十三年(741年)に橘氏が勧請したのが興りで、その後、村民が近江坂本の日吉大社の神を勧請しました。南北朝時代、村の子供の多くが夜泣きが止まらず神像を奉納して儀式を行ったところ夜泣きが止み、以来子供の安泰のお宮として崇敬されてるそうです。

大鳥神社(滋賀県甲賀市)

管理人の好きな大鳥神社の参道の桜並木🌸

水口神社(滋賀県甲賀市)

水口神社は垂仁天皇の時代に稲田姫命がこの地で4年間神鏡を奉じるとともに大己貴命を神鏡守護の神として祀ったのに始まると伝えられてますが、伊勢神宮鎮座の伝承を下敷きにした後世の造作と考えられてます。

ソメイヨシノはあっという間に終わってしまいましたが、枝垂れ桜が綺麗🌸

4月の例祭の水口祭りでは各町内から曳山が奉納されるため、「水口曳山まつり」とも言われていて、県指定の無形民俗文化財になってます。

コロナで2020年、2021年は中止となりましたが、今年は3年ぶりに開催されました。

ちょうど水口曳山まつりの前の週に訪れたから、境内では準備が行われていて、蔵から神輿を出すところに出くわしました。

水口曳山まつりで使われる曳山を保管している各町内の蔵を眺めつつ、北東方向へ進んで行くと・・

旧東海道五十三次 水口宿(滋賀県甲賀市)

そこは旧東海道五十三次の水口宿があった場所です。

この真ん中の道が旧東海道で、左右にも道が伸びていますね。

豊臣時代以前は東海道になる真ん中の道と農村があるだけでしたが、豊臣時代になると道を3本にして城下町とし、甲賀武士を住まわせたそうです。

秀吉は甲賀武士(甲賀忍者)に対しては懐疑的で、裏切りが起きないよう水口岡山城から監視していたと言われます。写真の左の緑はかつて水口岡山城があった古城山の裾野です。

NHK『ブラタモリ』の甲賀・信楽の回でタモリさんもこの場所を訪れていました。

甲賀市ひと・まち街道交流館(滋賀県甲賀市)

甲賀市ひと・まち街道交流館では水口宿を中心とした市の歴史の紹介や観光情報を発信している他、ご当地グッズの販売もされてました。

こちらの建物には曳山が保存されてます。

交流館でお願いすると中を見学させてもらうこともできますが、窓から撮影しました(笑)

これが水口曳山まつりで奉納される曳山で、屋根までの高さはおよそ6m。京都祇園祭の山鉾の屋根までの高さに比べて2mくらい低いサイズ感ですね。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(2)

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2022 お気楽行楽記総集編(2)

2022年12月05日 17時30分00秒 | 行楽・旅行記3

3月

名阪上野ドライブイン(三重県伊賀市)

三重県伊賀市の名阪国道 大内ICを降りてすぐのところにあった名阪上野ドライブイン。

昭和41年に開業し、年間8万台の観光バスが訪れていたこのドライブインも数年前には1万台まで落ち込みました。

新名神高速道路の開通などで名阪国道を通る車も少なくなった上にコロナ禍も追い打ちをかけたんでしょうね、この3月末をもって廃業してしまいました。

マスコットキャラクターだった忍にゃん。

閉店セールにはたくさんのお客さんが訪れ、名残惜しそうにその姿を写真に収めていました。

父の実家がここから2kmほどの所にあるので、子供の頃にお爺ちゃんお婆ちゃんの家に来た時はよく父に連れてきてもらった思い出深い場所でもあります。

55年間ありがとうございました

琵琶湖(滋賀県)

さて、3月後半はお仲間と一緒に琵琶湖へ。

コロナ禍の間は皆さんと集まって海釣りに行くのも控えていて、唯一春の琵琶湖だけがこの10年くらいは毎年欠かさない恒例行事になってます。

銀鱗が美しいビワコホンモロコ。

春は産卵のために川に登ってきます。

卵を持ったホンモロコも美味しいですが、琵琶湖内で漁が行われるのは脂が乗ったちょうど今の時期だそうです。

もちろん釣ったビワコホンモロコは塩焼きで美味しく頂きました、琵琶湖の恵みに感謝です

瀧樹神社(滋賀県甲賀市)

瀧樹神社は垂仁天皇4年(紀元前26年)に倭姫命(やまとひめ)が天照大神を奉じて近江国甲賀郡垂井日雲宮に至りここに座したことが興りと云われる古い神社です。

その後、倭姫命は垂仁天皇25年に伊勢の地に至り、天照大神を伊勢神宮にお祀りしました。

瀧樹神社とその前を流れる野洲川の間にある希少植物のユキワリイチゲ(雪割一華)の群生地を2年ぶりに訪れました。

ユキワリイチゲは日本固有の植物で、本州の滋賀から九州にかけての渓谷沿いや山麓の樹林内に分布しています。

生息域では数を減らしていて、滋賀では絶滅増大種となってます。

4月

みなくち子どもの森(滋賀県甲賀市)

甲賀市立みなくち子どもの森は甲賀の里山の自然とふれあえる自然公園で、写真の自然館では甲賀の自然の歴史、化石、動植物標本など展示されてます。

園内の森の中でジョウビタキの雄に出会いました。

モズを綺麗に写真に納めることができたのは初めてだったから、めっちゃ嬉しいかったことを思い出しました

コロナ第6波もピークアウトし、まん延防止等重点措置も3月中旬には解除されましたが、4月の間もまだ全国で1日に50,000人の新規感染者が出るような状況が続いていました。

つづく

過去記事<2022 お気楽行楽記総集編(1)

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2022 お気楽行楽記総集編(1)

2022年12月04日 13時00分00秒 | 行楽・旅行記3

今年もあと1か月を切りましたね。

毎年12月の恒例、その年の行楽の様子を振り返る『2022 お気楽行楽記総集編』スタートです

令和4年 1月1日

今年はご覧の通り、雪景色から始まりました。

ここ何年かの中で、久しぶりに初日の出を拝めなかった元日の朝でした。

コロナ禍が始まってほぼ2年が経過したものの、年明けからまた感染拡大が起こり、後に第6波と言われる状況に突入していきました。

大鳥神社(滋賀県甲賀市)

翌1月2日は天気も回復し、地元の寺社3つを巡る三社参りで初詣。

厄除けのお福梅をもらいました。

天台宗福生山 櫟野寺(らくやじ)(滋賀県甲賀市)

お次は櫟野寺にお参り。

櫟野寺は桓武天皇の延暦11年に比叡山の開祖伝教大師最澄が根本中堂の用材を得るため甲賀の地を訪れた時、霊夢を感じてこの地の櫟の生樹に一刀三礼の下、仏像を彫刻して安置したことに始まります。本尊の十一面観音菩薩坐像は33年に1度御開帳される秘仏です。

油日神社(滋賀県甲賀市)

油日神社は聖徳太子による創建と云われ、油日大明神を祀る古刹で、中世の神社建築様式を残していることから、映画やドラマのロケにしょっちゅう使われてます。

中世は甲賀武士団(甲賀忍者)の崇敬を集めた神社でした。

雪景色の霊峰 綿向山

そして、1月には義母が亡くなりました。

進行性の癌が見つかってから、わずか4カ月後の死でした。

2月

1月中旬から滋賀県でもコロナが猛威を振るい始め、2月8日には1日の感染者が1,300人を超えて過去最多を記録しました。

管理人もロシアがウクライナに侵攻した前日にコロナ陽性の判定を受けてしまいました

発熱や喉のイガイガ感、首、肩周りの痛み、凝りが苦痛でしたが、その症状は1日で回復しました。自宅療養が終了した頃から更に10日ほどは痰の絡みや咳に悩まされましたが。。。

3月

大鳥神社

写真の整理をしていると、今年は1月後半から2月の写真がほとんどありませんでした。。

つづく

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関宿旅籠玉屋歴史資料館(2)

2022年11月14日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

旧東海道 関の街道にある関宿旅籠玉屋歴史資料館の続きです。

過去記事<関宿旅籠玉屋歴史資料館(1)

玉屋は関宿でも人気の大旅籠だったそうで、その建物は関町の文化財に指定され、旅籠で使われていた道具類や庶民の旅に関係する歴史を知ることができました。

客室の雰囲気は今の和室旅館と変わりませんね。

部屋食(笑)

どんなお料理だったのか気になりますが、飯に一汁三菜って感じでしょうか

当時の旅人の携行品も展示されてました。

矢立ては筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記具ですね。本物は初めて見たかもしれません。

興味を持ったのはこの旅行用心集。

旅行用心集は文化7年(1810年)に八隅蘆庵が記した旅行ガイドブック。

泊屋での蚤除け方法、寒国旅行の心得や道中所持すべき薬や用具を細かく紹介してあるそうで、『地球の歩き方』みたいなガイドブックだったんじゃないでしょうか(笑)

上の獅子みたいな変な生き物は白澤(はくたく)。

人間の言葉を解し、万物の知識に精通するとされる中国に伝わる瑞獣・神獣・聖獣の類で、その姿を描いた図画は魔除けのお守りとして使われたそうです。

また、「可愛い子には旅をさせよ」と言った教えもこの本が元ネタなんです。

東海道の名所が描かれた綺麗な屏風絵にも目を惹かれました。

三重桑名から京都までの部分をパチリ

真ん中が鈴鹿山系で右は伊勢湾、左は琵琶湖、京都ですが、凄い構図ですね~

まるで映画のセットみたいな関宿の街道紹介はこれでおしまいですが、実際は1.8kmにおよぶ関の街並みの1/3ほどを歩いただけでした。

また、機会があれば訪れてみたい場所です。

おしまい

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関宿旅籠玉屋歴史資料館(1)

2022年11月12日 16時00分00秒 | 行楽・旅行記3

三重県亀山市の旧東海道 関の街道を歩きます

関宿旅籠玉屋歴史資料館に入りましたが、外観の写真撮るの忘れちゃった

玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほど、関宿を代表する大旅籠のひとつだったそうです。

講札が飾られてますね。

旧玉屋は江戸時代の旅籠の様子を今に伝える貴重な建造物として関町の文化財に指定され、旅籠で使われていた道具類や庶民の旅に関係する歴史資料が展示されていました。

宿泊客の食事の支度のために使われた古道具。

こちらにはお酒の徳利やお銚子も

昔も今も変わりませんね(笑)

土蔵の1階には『東海道五十三次』を描いた歌川広重の本物の浮世絵が数枚展示されてましたが、写真撮影は禁止でした

2階には玉屋の屋号に因んで宝珠の模様の入ったお椀や小皿がありました。おそらく上客向けに使われていたものなんじゃないかと思います。

襖の裏張りに使われていた古い宿帳。

江戸時代にこの旅籠に泊まったらどんな感じだったんだろう?とイマジネーションを掻き立てられる玉屋歴史資料館、続きはまたあらためて!

つづく

過去記事<旧東海道関宿 関地蔵院

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旧東海道関宿 関地蔵院

2022年11月11日 13時00分00秒 | 行楽・旅行記3

11月4日

関宿の中心にある地蔵院なるお寺にやって来ました。

九關山寶藏寺 關地藏院は天平13年(741年)に奈良東大寺の僧 行基が諸国で流行した天然痘から人々を救うためにこの関の地に地蔵菩薩を安置したことが始まりと伝えられています。

本堂(重要文化財)

本尊の地蔵菩薩像は日本で最古の地蔵菩薩なんだそうです。

「関のお地蔵さん」の名で親しまれ、古くから東海道を旅する人々の信仰も集めてきました。

鐘楼は寛永22年(1644年)の建立で国の重要文化財に指定されてます。

この関地蔵院にはあの一休さんにまつわる逸話も残ってます。

修繕をした地蔵菩薩の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。

これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます(亀山市観光協会HPより引用)。

一休和尚は開眼供養をしなかったのでは無く、詠んだ歌には「釈迦が人々を救った時代は過ぎ、弥勒菩薩はまだ現世に現れない今、末法の世を救うのは地蔵菩薩だけである。どうぞ眼を開けて下さい」という意味がありました。

釈迦入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまで現世に仏が不在となるため、その間に人々を救うのが地蔵菩薩と云われてますからね。

愛染堂

愛染堂は元禄13年(1700年)に地蔵堂から新しい本堂に地蔵菩薩が移されたあとに愛染明王が祀られたのでそう呼ばれるようになりました。鎌倉室町期の建築様式が見られ、昭和25年に国の重要文化財となりました。

つづく

過去記事<関まちなみ資料館

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関まちなみ資料館

2022年11月10日 17時00分00秒 | 行楽・旅行記3

11月4日

旧東海道五十三次の宿場町、関宿の街道を歩きます

関の山車会館で資料館3か所の共通券を買っていたので、この『関まちなみ資料館』にも入ってみます。

この資料館は旧別所家の邸宅で関宿を代表する町屋のひとつ。町屋で使われていた道具類や町並み保存事業による関宿の移り変わりなども知ることができました。

これは箱階段。

2階に登る階段ですが、いわゆる階段下のデッドスペースが引き出し式の収納庫になってました。

箱階段を上がった2階にはこの家で見つかった江戸時代の天目茶碗などの焼き物が展示されていました。

この暗さ、妙に落ち着きます(笑)

明治時代の初期に有栖川宮が宿泊された時の宿札。

離れの2階はまちなみ保存コーナーと称し、関宿の街並みの変遷の様子がパネル展示されてました。

関宿は東海道往時の面影を唯一残す歴史的街並みとして、昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。関宿には江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町屋が200棟以上も残っており、そうした歴史的建造物を伝えていくため、住居者の協力を得て保存修復工事も行ってきたそうです。

また、新しい建物については周囲の街並みと調和させるための基準もあります。整備前は電柱もあったそうですが、今は無電柱化されていて、より昔の街道らしい美しい街並みになりました。

何かお婆ちゃんの家みたいで懐かしい雰囲気。

大きな振り子式の柱時計は今となっては古い民家の象徴ですね。

銭箱と銭皿

火鉢

かまど

自転車が一般的になったのは昭和に入ってからですが、これは明治10年代に製作された自転車だそうです。

ペダルで前輪を直接回すタイプで、後輪は極端に小さいのが特徴ですね。

こういった前輪、後輪のサイズが極端に異なる自転車はオーディナリー型と呼ばれます。

貴重な一品を見ることができました。

つづく

過去記事<仇討烈女 関の小万

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仇討烈女 関の小万

2022年11月08日 13時00分00秒 | 行楽・旅行記3

旧東海道 関宿をぶらぶら散策してると福蔵寺というお寺がありました。

織田信孝卿菩提所と英照皇太后陛下駐泊所と書かれた石柱に惹かれて入ってみました。

天台真盛宗 清浄山 福蔵寺

草創は天正11年(1583年)で、織田信長の三男であった織田信孝の菩提寺として創建された寺院です。

天台真盛宗の総本山は滋賀県大津坂本の西教寺ですね。信長の比叡山焼き討ちの後、その麓の坂本は明智光秀の領地になり、西教寺は光秀とも所縁の深いお寺です。

信長を討った光秀に縁のある西教寺を本山とする寺院が織田信孝の菩提寺になってるのもちょっと不思議な感じがします。。

本堂に安置されたご本尊は阿弥陀如来像ということ。

観音堂(上写真)には馬頭観世音菩薩像、薬師堂(下写真)には薬師如来像が祀られ、関宿の守護神として厚く信仰されてきたそうです。

また、このお寺には幕末期の孝明天皇の皇后であった英照皇太后が宿泊された書院もあるそうです(非公開)。

織田に所縁があることがこの木瓜紋でも分かりますね。

織田信孝は本能寺の変で亡くなった信長の冥福を祈るため、旧臣の大塚儀左エ門長政に命じてこの寺の建立を始めました。しかし、信孝は羽柴秀吉との後継争いに敗れて自害させられ、長政はこの寺に信孝の首を持参して信孝の菩提寺となりました。

信孝の墓石はその後不詳となってしまったため、400年忌の時に改めて墓石を建立したそうです。

また、境内の一角に「関の小万(こまん)」の墓と碑がありました。

関の小万って誰

久留米藩士の妻が夫の仇討ちの旅に出た途中、関宿の旅籠 山田屋で産んだ女の子が小万でした。

母がまもなく亡くなってしまったため、小万は山田屋に引き取られ、母に変わって父の仇を討つために15才から亀山の道場に通い剣術修行をしていたそうです。

天明3年(1781年)、ついに仇討ちの本懐を遂げ、その後は育ててくれた山田屋で働き、享和3年(1803年)に亡くなりました。

長唄や歌舞伎踊りにもこの関の小万の逸話をモチーフにしたものがあるそうですね。

そして、今は会津屋という屋号になってますが、ここが小万の居た旅籠の山田屋です。

逸話の舞台が今も残っていることに驚きです

つづく

過去記事<旧東海道関宿をぶらぶら(2)

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