11月29日
浄土宗西山禅林寺派 慈舟山 瑞泉寺
京都の木屋町通をブラブラしてる時に出くわした瑞泉寺に入ってみました。
豊臣秀吉の甥で関白の家督を継いだ豊臣秀次は、謀反の罪により秀吉の命令で高野山に流され、切腹しました。
秀次の乱行が原因であるとか、石田三成の陰謀であるとか諸説がありますが、それまで子の無かった秀吉に世継ぎの秀頼が産まれたことも関係しているのではないかと思います。
文禄4年(1595年)、この場所で、秀次の正室や側室、その子ら5名、侍女、乳母ら39名が秀吉の命で斬首され、亡骸をその場に埋めると、その上に秀次の首が納められていた石櫃を置いて塚とし、秀吉は「秀次悪逆塚」との文字を刻ませました。
後に鴨川の洪水でその塚は流されてしまいます。
江戸期に入った慶長16年(1611年)、京都の豪商 角倉了以によって高瀬川の開削工事が行われている時に、「秀次悪逆塚」の石櫃が偶然発見されました。
角倉了以は、秀次の菩提を弔うために、かつて秀次一族の塚があった場所にお堂を営むこととし、浄土宗の僧 立空桂叔を開山として、この瑞泉寺は建立されました。
豊臣秀次一族の墓が境内にありました。
了以は石櫃から「秀次悪逆」の文字を削り取り、その上に六角形の無縁塔を立てました。
本堂
天和3年(1683年)に角倉家から寄進された本堂は、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失し、その後に今の本堂が再建されました。
地蔵堂
昭和16年(1941年)に松下電器創業者の松下幸之助氏らの財団法人「豊公会」が秀次の墓や地蔵堂を整備し、秀次を含む50人の小さな像を作り、地蔵堂に祀ったそうです。
偶然とはいえ、悲運な最期を遂げた豊臣秀次公の墓所に出会うことができました。再来年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟』ではどのような描かれ方がされるんでしょうね。
つづく
過去記事<京都写ん歩 武市瑞山寓居跡に感激!>
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