お気楽忍者のブログ 弐の巻

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2023 お気楽行楽記総集編(5)

2023年12月15日 21時04分42秒 | 行楽・旅行記4

2月

護王神社(京都市上京区)

和気清麻呂を祀る護王神社に参拝した時の写真です。

護王神社は足腰にご利益があるとされ、門の上からも大きな足腰の御守がぶら下がってました。

奈良時代末、当時権勢をふるっていた弓削道鏡の陰謀を暴いたことで、道鏡の怒りを買った和気清麻呂は流罪になってしましました。清麻呂が配流された先で道鏡の送った刺客に暗殺されそうになった時、300頭のイノシシが現れて清麻呂を救ったという言い伝えから、護王神社はイノシシにまつわる奉納品で溢れかえってました。

道鏡によって足の腱を切られて流された和気清麻呂でしたが、イノシシに救われてから傷が癒えて歩けるようになったことが足腰のご利益に繋がっています。

『鬼滅の刃』で、主人公の竈門炭治郎と同期の鬼殺隊剣士 嘴平伊之助グッズまでイノシシコレクションに入ってるのには笑いました

流刑になりながらも皇統を守ったとして、孝明天皇は清麻呂の功績を讃え、嘉永4年(1851年)に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授け、明治天皇が現在の場所に遷座させました。

京都御苑・蛤御門(京都市上京区)

京都御苑の西側にある外郭九門のひとつ、蛤御門(はまぐりごもん)

幕末期、八・一八の政変で京都から追放されていた長州勢力が会津藩主で京都守護職の松平容保の排除を目指して挙兵し、この蛤御門周辺で激戦が繰り広げられました(蛤御門の変、禁門の変)。この戦いで長州藩は天皇の御所にむけて砲撃したということで朝敵となり、これが幕軍による長州征伐へとつながりました。

幕末史好きにとって、この蛤御門は訪れてみたい場所だったから感激しました

京都御苑(京都市上京区)

京都御苑を横切って東側の寺町方面へ向かう途中、うっすら雪化粧した五山の送り火が行われる大文字山が見えました。

熊野神社・八ッ橋発祥の地(京都市左京区)

左京区聖護院町の熊野神社の境内には京都銘菓八ッ橋中興の祖、西尾為治の像と『八ッ橋発祥之地』の碑がありました。

明治時代に西尾為治の父 松太郎は京都駅で八ッ橋を販売し、全国的に有名になりました。大正時代、息子の為治はパリ万博に八ツ橋を出品して銀賞を受賞しました。このように西尾親子が八ッ橋の普及に影響を及ぼしたのは確かですが、八ツ橋の起源や最古の業者については不明な点が多くあります。そのため、聖護院八ッ橋総本店や本家西尾八ッ橋、井筒八ッ橋本舗などの間で時々訴訟沙汰が起こる原因となってます

平安神宮(京都市左京区)

7年ぶりに訪れた平安神宮。

平安神宮は平安遷都1,100年を記念して、明治28年に創建された新しい神社ですね。

幕末・維新の戦乱で荒廃し、首都が事実上東京に移ってしまったことで京都の衰退は必至の状況でしたが、市民の力で数々の復興事業が興され、その一環としてこの平安神宮の創建がなされたそうです。

朝からずっと雪が降ったり止んだりの天気でしたが、平安神宮では青空に映える大極殿を写すことができました。

浄土宗大本山 金戒光明寺(京都市左京区)

浄土宗の総本山はご存知、知恩院ですが、法然が初めて開いたお寺はこの金戒光明寺でした。

幕末史好きにとって金戒光明寺は、幕末期には京都守護職本陣が置かれた場所として訪れててみたかった場所です。

京の治安維持組織「新選組」は京都守護職お預かりだったため、ここを近藤勇や土方歳三も歩いたのかもしれないと思うとワクワクしちゃいました。

写真は薩長を中心とする新政府軍と幕軍が激突した鳥羽・伏見の戦で殉職した会津藩士を弔った会津墓地です。

万延元年(1860年)完成の立派な山門には後小松天皇直筆の「浄土真宗最初門」の勅額がありました。

岡崎神社(京都市左京区)

延暦13年(794年)、桓武天皇の平安京遷都の時に王城鎮護のため建てられた岡崎神社。都の東に鎮座することから東天王とも呼ばれています。

かつてこの付近一帯がノウサギの生息地であったことから、岡崎神社ではウサギが氏神様の神使とされてます。

多産であるウサギが神使であること、御祭神の速素盞鳴尊(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしいなだひめ)に子供が多かったことから、岡崎神社は子授けや縁結びのご利益があるとされていて、御守りや縁起物の授与所にはカップルや若い女性グループでごった返してました。

つづく

過去記事<2023 お気楽行楽記総集編(4)

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