ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日本のマスコミとアジア

2014-02-05 11:30:15 | 徒然の記

 永井浩著「アジアはどう報道されてきたか」(H10年 筑摩書房刊)、を読み終えた。

 作者は昭和16年生まれで、元毎日新聞のバンコク特派員だ。健在ならば、私より3つ年上の73才である。

 アジアは沢山の民族と言語、文化や宗教等が混在し、多様な姿をしているのに、日本のマスコミは、なぜステレオタイプな報道しかしないのか。あるいは、明らかに偏向した記事しか、書かないのかと、氏は疑問を解こうと試みる。

 NHKも朝日新聞も、氏が批判の対象にしているので、マスコミの一方的報道は、日本国内の出来事だけでなく、アジアについても、同じであると教えられた。タイ、インドネシア、マレーシア、カンボジア、ビルマにおける、事実と異なる報道の事例が、沢山上げられている。

 うなづかされる意見もあり、首を傾げたくなる主張もありで、残念ながら、全部が面白いという内容ではなかった。

 「その特徴の一つは、日本のモノサシの押しつけである。」「それに合わない部分は、勝手に切り捨ててしまう。」「これはアジアに対する、日本の優越意識のあらわれであると同時に、」「アジアから期待される、優れた存在であるという、日本人の大国意識とワンセットになっている。」

 「アジアはその実像でなく、日本の勝手な願望のネガとして、」「日本の読者や、視聴者に与えられる。」

 氏の言葉に、私は一も二もなく賛成する。「日本」という言葉を「記者」と置き換えれば、そっくり国内での報道姿勢に重なるからだ。

 「日本人の、アジアに対する、こうした見方が出来あがったのは、」「明治時代に、脱亜入欧路線が、定着する中からだとされる。」「この路線を敷いた、福沢諭吉によれば、近代国家の建設を目指す日本は、」「文明的に遅れた、アジアという悪友との関係を断ち、西欧をモデルにすべきであるという。」

 氏は簡単に述べているが、私の知っている、福沢諭吉や明治の政府要人たちは、最初からアジアを見限っていたのではない。列強のアジア侵略と、の危機が植民地支配が迫っている中で、彼らは、隣国の中国や朝鮮と力を合わせ、闘おうと考えていた。しかし現在と同じく、中華思想に固まった中国と朝鮮が、日本の申し出を冷笑し、無視したから、共に歩く相手でないと断念した。

 「福沢の教えに従った日本は、台湾と朝鮮を植民地化し、」「さらに、中国大陸への領土的野心を、剥き出しにして行く。」「欧米諸国からの、風当たりが高まり、国際社会で孤立化しだすと、」「欧米を敵に回し、アジアを味方に抱き込む作戦を、展開し出す。」「アジアの人々の意向には、お構いなしに、アジアの開放者に勝手になり、」「日本を盟主とする、大東亜共栄圏構想がぶち上げられた。」「日本の願いは、アジアの資源獲得だった。」

 こうなってくると、私は、この本を放り出したくなる。年齢は、たった3つしか違わないのに、私と彼の、日本史の理解の不思議なギャップは、どこから生じるのか。どんな勉強をしたら、このように歪んだ意見が生まれるのか。

 ここには、私が嫌悪する反日の史観が、言葉の端々に憎しみの色で織り込まれている。

 意識するとしないに拘らず、日本人の多くが、欧米に比較しアジアの国々を軽視しているのは事実であり、横柄な態度で接しているのも事実である。これを非難する氏の意見には、全面的に賛成だが、日本の歴史に関する、浅はかな断定は受け入れられない。

 明治の政治家たちは、もっと真摯に国を思い、アジアの他国を考え、当時の国際情勢にへの理解は、中国や朝鮮より遥かに深かった。そのようなことは何も知らず、底の浅い歴史観を展開する、彼こそがステレオタイプな意見の持ち主だった。

 多様な考えがあるからこの世が面白いし、対立する意見を尊重するのが、民主主義だと、理屈は百も承知だが、私は、そんな寛容さが持てない。心の狭い人間だと認めるしかないが、自分の国を悪し様にしか語れない人間の方が、最低でないかと、理屈抜きに反応してしまう。

 習慣なので最後まで読んだが、新聞記者なんて、やっぱり碌な人間がいないと、偏見丸出しの結論と成り果てる。他人を責める醜いブログになったと、今回も自己嫌悪にかられる。本題とは何の関係もないけれど、年から年中、日本ばかりを責めている、中国や韓国は、自己嫌悪に駆られることはないのだろうか。

 しかし私はこの本を、自己嫌悪なしに、資源ゴミの日にひもで括り、ゴミとして出す。永井氏の反日に比べれば、遠藤周作氏や三島由紀夫氏のものはまだ増しだった。

 もう遅いが、ゴミとして処分したことが悔やまれる。

コメント
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