ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

生まれて初めての経験

2014-02-21 15:13:13 | 徒然の記

 山田均著「タイ 自由と情熱の仏教徒たち」(平成9年 三修社刊)を、最後まで読まずに放棄した。生まれて初めての経験だ。

 まずもって、山田氏は、題名の付け方を間違えた。いかにも初心者向けの本で、タイの僧侶や人々の暮らしなどが、生き生き描かれていると、誰もがそう思う表題だ。

 ところが最初の30ページ余りは、タイの言語についての詳述である。タイ語の音韻構造や、単音節の純タイ語と外来語、子音文字と母音記号になどについて、タイ語に明るい者にだけか分る内容で、詳しく丁寧に書かれている。

 次はタイ史である。タイ人とは、どこから来た民族なのか、あるいは土着の民なのか、ミャンマー、インド、中国など、調べるほどに分からないのだと、氏は言う。おそらく氏は、真面目な学究の徒であるに違いない。仲間同士の話なら、良心的で誠実な事柄ばかりで、きっと正しく通じ合うのだろう。

 それならそれで、本の題名も注釈も、素人に誤解されない工夫があって、いいはずだった。

 さてその次は、タイ仏教の核心「教団」についてだ。教団への入門と、教団内での掟につき、微に入り細に入り、入団したい志願者でもない私に、懇切丁寧な説明が続く。
タイを広く知りたいと望む一般人にとっては、どこまで読んでも、訳の分からない書物でしかない。

 いつか平易な話になると期待し、半分まで読んだが、同じ調子で叙述が進む。

 タイ王宮の建設という段になると、もうお手上げだ。王宮内の王様の執務の場、くつろぎの場、寝室の場が、それぞれ別れて建っているという話。砦が幾つあり、門が幾つあるとか、高さがどうで、長さがどうなど、知ったことかと、私は次第に癇癪がおきてきた。

 固有名詞の地名、人名、場所名が、説明無しに現れ、地図も無く、関連図も無いでは、門外漢にはチンプンカンプンだ。

 私の忍耐はここで切れた。再び言うが、最後まで読まず放棄するという、生まれて初めての経験である。何度でも言うけれど、タイ研究者にとっては、きっと優れた本なのだろうし、貴重な本に違いない。だが、私には、まるで関係のない本だ。

 氏には何の恨みも無く、誠に申し訳ないが、今度の有価物回収の日に、ゴミとして出すしかない。ブログを訪問した方は、「豚に真珠」だったと、惜しまれることだろう。

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NHK経営委員の適性

2014-02-21 12:50:22 | 徒然の記

 百田氏に続き、朝日新聞が、今度は長谷川氏への攻撃を、賑やかにやっている。

 端から見ている私にすれば、長谷川氏も百田氏も、ついでに言えば籾井氏も、軽卒としか言いようが無い。安倍総理を支援している者にとって、彼らのやっていることは「贔屓の引き倒し」でしかない。なぜもっと慎重に行動しないのかと、疑問さえ覚える。

 国民の支持に支えられ、衆参両院で多数を得ていても、安倍氏の党内基盤はまだ確立しておらず、一歩後退二歩前進の政権運営だ。戦後レジュームからの脱却、国の独立、このための憲法改正をと願う、国民の前には、まだまだ茨の道が続いている。

 道を険しくしている元凶の一つが、反日報道に明け暮れるマスコミであり、その筆頭が、朝日新聞とNHKだ。

 だから総理は慎重に、NHKの人事を進め、静かに改革の歩を進めようとしている。この大事な時に、当事者たちが軽はずみな言動をして、どうするのだろう。

 とは言うものの、長谷川氏の件は少し趣が違う。どこから探してきたのか、そして何という本に掲載されていたのか知らないが、反日朝日新聞の卑しい執念を見る。

 右翼への追悼文が気に入らないから、長谷川氏に経営委員の適性が無いという、朝日の主張は、反日・左翼の人間以外、恐らく誰も納得しない主張だ。私は、田原総一朗氏によれば、右翼ということになっているが、「わが国の今上陛下は、再び現人神となられたのである」、という長谷川氏の主張には、私にも、馴染めないものがある。

 天皇陛下に敬意の念を抱いていても、現人神とまでは思っていないので、私はきっと、長谷川氏とは違う右翼なのだろう。

 だが、朝日新聞は、長谷川氏のことを、うるさく言うのなら、自社の論説委員だった、若宮氏について言及する方が、先でないのか。反日・売国の社説で展開し続け、日本の国益を失わせた彼の、論説委員としての適性はどうだったのか。不偏不党で、客観的意見ででもあるごとく、善良な読者を騙し、偏向の主張を全国に拡散した彼の罪は、長谷川氏の一遍の追悼文になどとは、比べ物にならない。

 760万部の朝日新聞と、どこで出版されたのかも分からない、マイナーな雑誌の追悼文と、どっちが社会に害をなすというのか。朝日新聞の非常識を、読者はそろそろ気づくべきだろう。

 論説委員の若宮氏は、定年退職後に、韓国の東西大学の教授として職を得ている。定年後の職を得るため、韓国に媚を売り、日本を売る社説まで書いた彼に、朝日新聞は、謝罪文を書かせる方が先でないのか。

 長谷川氏の適性を言うのなら、先に自社の身辺を綺麗にしてからだと、事情を知れば、誰だってそう云うはずだ。

 更にもう一つ、付け加えるなら、そもそも右翼といわれる危険な野村氏に、なぜ朝日の社長が、護衛も無しに面談し、謝罪したのか。目の前で、右翼の彼が拳銃自殺をしたのに、この事件を、朝日はキチンと国民に知らせたのか。

 私は、野村氏がどういう人物なのか知らないし、朝日とのトラブルがなんであったのかも知らない。こんな重大事件でも、朝日新聞が報道しなかったせいで、世間の人間は誰も知らない。取るに足りない、長谷川氏の追悼文を、わざわざ問題視するのなら、極右の野村氏の自殺の原因となった、社長との面談につき、朝日新聞は、国民に知らせる義務があるのではないのか。

 今回、朝日がやったことは、自分に都合の良いことだけを報道し、部の悪い事件は何も語らず、バカな国民が見過ごすことを、期待したということだ。長谷川氏への批判は、朝日の、常日頃の卑しい根性が、丸見えだ。

 長谷川氏は、こんな腐った朝日新聞の攻撃を、無視すれば良い。偏向した新聞社に、適性を問われるなど、お笑いでしか無い。長谷川氏は辞める必要が無いと、多くの国民が思っているはずだ。

 これが私の、結論だ。

コメント (3)
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