何事にも、例外がある。
村田喜代子氏の「焼野まで」を読み終えたが、今回は感想を書かない。
内容がつまらなくてそうするのでなく、身につまされるものがあり、避けたくなったからだ。私は癌の手術をしたが、作者は手術をせず、放射線の局地照射による癌細胞破壊という療法を選ぶ。死に至る病にかかった者の心が、作者特有の冷静な目で観察される。悲壮さもないし、大げさな叙述もなく、淡々として語られる。しかしその一言一言が、静かに読む者の心に反響する。
これ以上、感想を述べる気にならないから、ここで終わりだ。
次に読む本は、中野孝次氏の「道元断章」 だ。読書にかかる前に、著者の略歴を見るのが癖になっているので、ページをめくったが何処にも見当たらない。珍しいことがあると更にページを繰っていると、本の裏表紙の空白部分に、叔父の文字を見つけた。生真面目な叔父らしい、堅苦しい楷書だ。
「読書感想談」と銘打ち、なんと作者への苦言が書いてある。「道元の心知らない中野様。もっと勉強なさりませ。」今日まで何冊か叔父の蔵書に目を通してきたが、書き込を見るのは初めてである。自分が野次馬根性で本に向かっているから、叔父もそうだと思っていたが、どっこい叔父は真剣そのものだった。いったい作者のどこに怒りを向けたのだろうと、これまた野次馬の目で前書きを流し読むと、飛び込んできた著者の言葉だった。
「正法眼蔵は、おそろしく難解だ。」「私は生涯の全てを読書に捧げてきた人間で、読書のプロだと自惚れているが、その私でも読んで直ちに理解できるというわけにいかない。」「こんな経験は初めてだ。」「が、わかってもわからなくても読む。」
なんだこんな薄っぺらな人間なのかと、「わかってもわからなくても読む。」なんて、私によく似たせりふを並べる作者に嫌悪を覚えた。生涯を読書に捧げてきたから読書のプロだと自惚れるなど、どんな思考回路の人物なのかと軽蔑さえしたくなる。大抵の人間は、生きるために読書をしているのであり、プロになるため本を読んでいるのではない。
世に文芸評論家と称される人々がいて、彼らは、書評を書き対価を得ることを生業とする。多量の書を乱読し、出版社が喜び、著者にも感謝されるような、いわゆる「銭になる文章」をひねり出す。そのためには本気で書物と対面するのでなく、いかに要領よく、効率的に読書をこなすかに腐心する。プロにしかできない、流し読みという方法もあるらしい。
中野氏の言う読書のプロとは、そういうものかもしれず、私が知らないだけで、氏は案外有名な評論家なのかもしれない。だとしても、あまり感心しない作者だ。早合点して喜怒哀楽し、後で謝ったりする私みたいな軽薄な人間でなく、叔父は慎重だったから、こんな前書きで作者に苦言を呈したりしない。「もっと勉強なさりませ。」というのだから、作者の思考内容への反論だ。
中野氏への興味は半減しているが、叔父の怒りが何なのかに惹かされる。作者への感心が半分なのに本を読む。読む前から、感想らしきものを述べてしまう。しかも作者の略歴は知らない。・・・・・こうしてみると、今回は例外だらけだ。
梅雨だというのに、外はカンカン日照りで、洗濯物はすぐに乾き、干した布団は気持ち良くふくらむし、何もかも例外だらけの今日だ。もう少ししたら、風呂の掃除でもするか。
ただし、これは例外でなく、私の日常だ。戸外では、5時のチャイムが鳴っている。ドボルザークの新世界だ。家路という名の曲だが、今では夕方になるとこの曲が有線で流される。日本中と言って良いほど普及している暮方の調べだ。
お手てつないで みな帰ろ
カラスと一緒に 帰りましょ
小学生の頃までは、暮方の曲はこんな童謡だったのに、いつからかドホルザークに取って代わられてしまった。でもこれは、例外でなく、現在は私の日常生活の一部だ。例外と日常を述べていると、自分でも何が何だか分からなくなってきた。村田氏の本も中野氏の著作のことも忘れてしまい、ブログのまとめまでおぼつかなくなった。
支離滅裂な話ばかり・・・、きっとそのうち、これが私の日常となる日が来るのだろう。