ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

出雲王朝は実在した

2016-06-15 22:19:29 | 徒然の記

 安達巌氏著「出雲王朝は実在した」(平成8年刊 (株)新泉社)読了。

踏み込んだ歴史の森は、果てしなかった。読むたびに曖昧な知識が明らかになっているのか、あるいは逆に、一層混迷を深めているのか。何度も立ち止まり、確認しつつ進むしかない。まず私は、自分が知っている日本史の出来事を書き出してみた。小野妹子が遣随使となって海を渡ったのは、紀元607年、推古天皇の時代だ。聖徳太子が起草したと言われる、かの有名な「日出ずる処の天子・・・・」という、国書を持参している。日本史の時間に、これを見た随の皇帝が激怒したと教わった。

 次に習ったのは、紀元238年に邪馬台国の卑弥呼が、魏に使者を派遣し、魏の皇帝から金印と銅鏡100枚を与えられたということ。順不同になるが、次は別名厩戸の王と呼ばれる聖徳太子の業績だ。574年から622年にかけての飛鳥時代、聖徳太子は推古天皇の摂政だった。「官位十二階の制定」「十七か条の憲法制定」「遣随使の派遣」「仏教の興隆」など、大和朝廷の基礎づくりの政策を推し進めた。

 さてここで、安達氏の著作に戻ると、古事記と日本書紀の記述では、初代の神武天皇の即位が紀元前660年の2月11日だ。その後585年に亡くなるまでの約80年間が統治期間だ。次に有名な神話の人物は、大和武尊である。第12代の景行天皇の子で、東国12ヶ国を平定したと言われている。伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、總、常陸、陸奥の国々だ。この時尊が使った太刀が、草なぎの剣と呼ばれる三種の神器のひとつだ。

 神武天皇や大和武尊については詳しく習ったのでなく、雑談のように面白おかしく教師が話してくれたに過ぎない。長年私の中でくすぶっていたのは、こうした神話の流れと、実在の邪馬台国卑弥呼や、遣随使の小野妹子が、どのようにつながっているのかだった。今でもそうだが、神武天皇の即位が紀元前ならば、邪馬台国の卑弥呼の国はなぜ大和朝廷との関連で語られないのか。

 安達氏はこれについて、明快に叙述する。「わが国の古文献の多くが大和朝廷を権威づけ、その正当性を主張するという視点に立っているからである。」「換言すれば、史書の多くは支配者側によるもので、これを貫く理念は皇国史観だということである。」「虚構が、これでもかこれでもかといった具合に執拗に強調されると、いつのまにか真実性を持ってしまうのである。」「まだ大和朝とそれ以前の出雲朝との関係については、まとまった研究や論争はないといって良い状況である。」

 だから氏には私の疑問など眼中になく、大和朝廷以前に出雲王朝が存在した事実の究明に忙しい。放置された私は、自分でネットの情報を探し回り、驚くべき事実に行き当たった。歴史上の人物として教科書で教えられてきた聖徳太子が、曖昧な存在となってきたという話だ。

 つまり厩戸の王は実在するが、聖徳太子として語られてきた事実が疑わしくなってきたらしい。輝かしい業績と言われているものに、聖徳太子が関わっていたという文献が存在せず、もしかするとこれは天武天皇の作りごとでなかったかという意見だ。平成14年に山川出版が、教科書で聖徳太子という言葉を使用しなくなり、厩戸の王と記述するようになったらしい。清水書院は、平成25年から聖徳太子の虚構説を述べているとのこと。

 673年に即位した天武天皇は、前年の壬申の乱で兄である大友皇子を倒している。統治期間は白鳳文化と呼ばれているが、大和朝廷の脆弱な基盤を確固たるものにした実力者天皇だ。皇族を要職につけ、他氏族を下位に置くという皇統政治を断行した専制君主でもあった。

 「氏姓制度の再編」「律令制度の導入」「新都(藤原京)の造営」「古事記、日本書紀編纂の指示」など矢継ぎ早に制度改革をし、皇室中心の政治を確立していった。その過程で、天武天皇は聖徳太子というおよそ100年前の政治家の像を作り上げ、己の政道のバックボーンにしたのだという。

 学界で見直しの機運が高まり、やっと教科書に波及してきたというのだから、日本史の中身はまだこれから変動するのだろう。自信たっぷりの安達氏が苦々しいが、事実が判明し修正されるのなら、門外漢が口を挟むことではない。

 中国や韓国の歴史捏造をさんざん貶してきただけに、古代の話とはいえ、日本も似たようなことをしていたかと、残念でならない。

 「以上出雲と新羅との密接な交流に関する若干の考察であるが、」「こうした事実の延長線上にあるのは、大陸の青銅器、鉄器文明が燕や扶余、高句麗、新羅などをへて、次々と出雲に流入したであろうことである。」「東アジアでの農耕文化が、日本に伝来したのは縄文時代の末期だったが、本格化したのは弥生時代であった。」

 こうなれば、何を言われてもお説ご尤もと拝聴するしかない。「オオクニヌシが大和王朝にたいして、平和裡に葦原の中つ国の施政権を譲り渡し、」「出雲族と大和族の正面衝突を避け、政界引退位の挙に出たということが、日本の素晴らしい成長発展の支えとなって良かったということである。」

「もしオオクニヌシが全国に分散している、傘下の国つ神に呼びかけ、徹底抗戦の道を歩んだならば、」「両者がその国力を消耗し尽くして、朝鮮半島の諸国に漁夫の利を得さしめることになったであろうからである。」「勝海舟と西郷隆盛が、相互信頼の上に立ち平和裡に江戸城を授受し、日本の近代的再出発の糸口を開いたという、」「あの劇的場面に似ている。」「あの時両者が正面衝突していたら、幕府にはフランス、朝廷にはイギリスが加担し、」「両国の代理戦争が始まり、挙げ句の果てに日本は両国の植民地に成り下がっていたのかもしれない。」

 分かりやすいので納得させられるが、分かり易いからといって、学問的に正確とは断定できない。しかしどう考えても、皇国史観は分が悪い。大和朝廷の正当性を強調するあまり、中国や朝鮮とのつながりを故意に語らず、あたかも日本だけの神話であるかのように整理している。

 神話時代の日本が中国や朝鮮と深い関わりを持ち、大きな影響も受け、盛んに交流していたのは、どうやら事実であるようだ。この点については、安達氏の意見が妥当だという印象が強い。

 私と安達氏の相違をあえて言わせて貰えば、すなわちこうだ。

「祖先がどこから来た民族であれ、現在の日本人は固有の国民である。」「中国人とも朝鮮人とも異なる、明確な日本人である。」「日本という国土の中で、二千年の時を経て私たちは民族のアイデンティティーを確立した。」

 あまり強調すると、隣国と同様の醜い自己主張と同じになるから、これ以上は言わない。心の中で静かに思うだけとし、頑迷固陋な保守の人々とも一線を引きたい。

 

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