ねこ庭の独り言

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道元断章

2016-06-24 23:01:36 | 徒然の記

 中野孝次氏著「道元断章」(平成12年刊 岩波書店)を読み終えた。

 氏は大正14年に千葉県で生まれ、平成14年に没している。鎌倉時代の禅僧道元の著作である、「正法眼蔵」の書評というか感想というのか、そんな本である。ネットの情報では、「東大文学部卒、日本の作家、ドイツ文学者、元国学院大学教授」と書いてある。してみると、氏も複雑な人物でないか。左翼の巣窟みたいな東大を卒業したのち、保守の砦のような大学に職を得ている。

 国学院大学の前身は、明治政府が創立した皇典講究所で、日本の国史・国柄を研究するところだった。初代総裁は、有栖川親王だ。これもネットの情報だが、氏は政治的には平和主義者で、反核アピール運動で井上靖、井上ひさし、大江健三郎と行動を共にした経歴を持つらしい。

 読後の率直な印象は、飾らない本音を語ったり、独断的解釈を恥じらわず披露するなど、なんだか鏡で自分を眺めているような錯覚に陥ったということか。もちろん氏と私の違いが、比較できないほどの学識にあることは言うまでもない。好きになれないが、思ったほど嫌味な人物でなく、むしろ憎めない、とても不思議な先生だった。

 それもそのはず。私の嫌悪する左翼思想の人間と同調していながら、昔日の日本を高評価する意見を並べるのだから、こんがらがって当然だろう。

「道元は、私の時間観念、因果観念、生死観念を根底からくつがえし、」「ぶっ壊してしまうような、おそろしいことを言っているのであった。」「常識破りとは、まさにこのことなのだろう。」「道元は、全力をふるって、われわれの頭の中にある固定観念を、こっぱみじんに粉砕しようとかかっているかのようだ。」

 二三ページのところで、氏が述べていたが、このように扇動的で、大げさな叙述を私は好まない。「駅から歩いて、たったの5分」などと書いて、実際に歩くと30分かかるという、不動産屋の誇大広告みたいでとても本気になれない。力説する、胡散臭い氏の言葉を、もう少し引用してみたい。

 「道元の説法にはいつも、弾けるような精神の躍動がある。」「力強い言葉の、うねるリズムがある。」「次々とイメージが現れ、響き合い、一大交響曲となる。」「音楽的といっていいような、説法である。」「聞いている修行僧たちの心は、さぞや踊ったであろう。」「仏道修行僧にとって、生きることは修行すること、座禅することがすべてだ。」「座禅が生きることなのだ。」

 こうした説法解説の後に、氏の高説が披露される。

「人間は、人に生まれたままで人間になるのではない。」「道を学んで、修行して心身を鍛え、この世に生きることは何であるかを、知らなければならない。」「ところが過去50年、日本くらい子供のしつけ、家庭教育を怠ってきた国は、ちょっと世界でも例がないのではあるまいか。」「しつけとか我慢とか自制とか、努力、訓練、鍛錬といったことは、あたかも封建時代の悪習であるかのように見なす風が、支配的だった。」

 うんざりするような説教だが、もう少し我慢してみよう。「その結果どうなったかといえば、有名大学を好成績で卒業し、人の羨む官庁や銀行や商社に入り、出世して高い地位についても、人間的にはまるでダメという連中が続出したことだ。」「そんな人生は、たとえ百歳生きても何の価値もないと、道元は言う。」

 途中を沢山省略したが、本の中身はこのパターンの繰り返しだ。道元による仏典の紹介がなされ、道元による解説があり、続いて氏の高説が展開される。漢文混じりの古文が常に引用してあるが、私にはどれもチンプンカンプンだ。敬意を払わずにおれないのは、「仏典の紹介」と「解説」を読みこなす氏の博識だ。

 軽蔑したくなるのは、何の説得力もない、退屈な高説の披露だ。正論であるものの、誰もが知る言葉の羅列では、読んでいる読者の心は踊らない。もしかすると叔父は、氏の高説の陳腐さに呆れはて、「中野様、もっと勉強なされませ。」と苦言を呈したのだろうか。

 だが、本の中身が半分を過えても、氏の高説はとどまる処を知らない。

「日本人は江戸時代末期までは、外国人が感心するくらい、きちんとした作法を持っていた。」「型を守ることは、剣や弓や槍など、武術の修行の場合とくに重んぜられた。」「正しい礼を知ることは、立派な人間とみられ、社会でも重んじられてきた。」

「そういう文化が失われたのは、むろん維新とともに西洋文明が入ってきたからである。」「西洋にも厳しい型の社会があることも知らず、個性の尊重というような言葉に踊らされた青年、」「とくに高等教育を受けた若者が、型を破壊することが個性的であるかのように振る舞った。」

「その破壊は、1945年の日本敗戦後、アメリカ文明がどっと入ってくるに及んで、修復不能なところまでいってしまった感がある。」「デモクラシーは、自由と同時に規律があって成り立つことを知らず、」「規則も作法も礼儀も、封建時代の悪習とばかり無視し、」「自分勝手にふるまうのをデモクラシーと誤解した。」「なかで最もひどいのが、倫理という、行動の是非善悪についての判断能力が、根底から崩れてしまったことであった。」

 「道元の、この日常生活の仕方についての、おそろしく厳しい定めは、返ってこれからの日本のあるべき姿のように、新鮮に見えたのであった。」「日本はもう一度、型の文化をつくりあげねばならぬと、道元に警告されているような気さえした。」

 それならばもう一歩進んで、日本国憲法が、日本人の魂をダメにした元凶だと、なぜ氏は指摘しないのか。歴史を否定し、ご先祖を憎み、国を蔑むしかできない左翼の人間たちと、どうして共に活動したのかと、無念でならない。けれども、物故者となられているから、これ以上氏を批判するのは止めにしよう。

 氏の本を読み、感動する知識は得なかったが、氏が平易に解説してくれなかったら、「正法眼蔵」には一生無縁だったに違いない。いっぱし批判している私だが、氏の手引きが無かったら、歴史的に名高い道元についても知らずじまいだった。

やっぱり、ここは中野氏への感謝で締めくくるのが適切であり、正しい「型」でないかと、私は考える。

  有難うございました。

 

 

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