中川剛氏著「町内会」(昭和55年刊 中公新書)を、読了。知らないことを教えてもらう本との出会いは、胸が躍ります。一昨年、自治会の副会長を経験しているため、戦前と戦後の嵐をくぐり抜け、現在の自治会があるのだと知ると、感慨深いものがあります。町内会とか自治会とか呼ばれていますが、いずれも同じものです。
氏は昭和9年に大連で生まれ、京都大学を卒業後、広島大学の法学部教授となり、平成7年61歳で亡くなっています。左右に偏しない学者であるのか、事実を中心とした語り口に、好感を覚えました。
「第二次大戦の最中、町内会が大政翼賛会の指導を受けることとなり、」「軍国主義による社会教育の、強力な機関となったのは知られている通りである。」「占領軍総司令部は、町内会、隣組などの組織を、」「食料配給機構であると共に、スパイ摘発組織で、」「軍国主義を奉ずるイデオロギー団体であると見ていた。」
GHQはこんなところにまで手を伸ばしていたのかと、氏の説明に驚きましたが、小学校唱歌や童謡まで禁止したのですから、さもありなんと納得しました。しかし町内会が、アメリカには無く、日本独特のものだったということは今日まで知りませんでした。
氏によれば、アメリカのデモクラシー社会では市町村が基礎的地域団体であり、彼らの思考に町内会という日本的組織は存在していない。つまり町内会は、アメリカの民主主義の枠から外れた存在だったということでした。アメリカだけでなく、ヨーロッパもそうなのでしょうが、個人主義の徹底した社会で、人は政治信条か、宗教か、あるいは人種などにより共同体を作り、それがやがて町になり、市になるのだといいます。共同体は異質のものを排除するので、異質のものは新たに別の共同体として集まり、町や市を作るのだと言います。
これまで私は、日本人こそが異質の者を排除し、人種の混在する欧米は混在したままの共同体を作っているのだとばかり思っていましたので、意外な気がしました。
ですから日本のように、住んでいる地域を中心に、住民としてまとまる町内会がGHQに理解できなかったのだと、これもまた目から鱗の話でした。いわば町内会は、日本社会における自然発生的な「人々のつながりの場」であるとのことですが、分かりやすいので、氏の説明を引用します。
「町内会では、異なった宗教や、異なった政治信条の人々が隣り合わせに住んでいても、」「そのこと自体ではなんのもめ事も起こらない。」「そのことが原因で、町にいられなくなるということもない。」「信仰や政治的立場が、なんの意味も持たないというのではない。」「ただこうした問題が、人間関係の場に持ち込まれないのである。」
「町内会自体は、イデオロギーを持ち得ないのだ。」「持てば、町内会自体が壊れてしまう。」「信条を同じくする者の集まりでないからである。」「町内会は、伝統的な生活様式の結果であって、」「制度(市町村)の影響を大きく受けるが、制度とは別物である。」「制度外のものである限り、日本人の生活様式が消滅しない限り、」「不可死のものとして、存続する性質のものであると言える。」
この説明に私は納得しました。少数の左翼活動家たちが、多数の住民の気持ちを無視し、自治会で元気に意見を述べた時、どれだけの者が不愉快な思いを我慢したことか。今でも忘れられません。共産党や民主党系の活動家たちは、町内会を市や県政に対抗する団体に作り変えたかったのでしょうが、今考えますと、これがまさに欧米のデモクラシーを元にした活動だったわけです。しかし日本の町内会は、本来、政治とは直結しない、住民の互助組織ですから、制度外のものだという、氏の言葉がよく分かりました。
「自然発生的な住民組織は、町内会に限らず、昭和初年代までは、部落会の名称で呼ばれているところもあった。」「地区会、互助会、隣組という命名もある。」「世帯ごとの加入を原則とするが、平均すると三百世帯程度が自治会になっている。」「連絡の便宜上、更に幾つかの班や組に分けられ、たいていは回り持ちで責任者が決められる。」
「町内会の役目は、広報、親睦、防犯など軽易なものに限られており、」「市の連絡業務を一部受け持ったり、住民の苦情を市町村へ伝達する場合もある。」「日本人にとって、生活単位は町内規模が最も自然である。」「これは小さな祭りを維持できる、対面接触の可能な範囲となっている。」
氏は何のために、他の学者が目を向けない「町内会」を研究し、本まで出版しているのか。後半で理解しました。時代遅れの組織と言われている「町内会」の中に、氏は明日の日本につながる鍵を見出そうとしているのでした。地方自治が根付いていない日本ですが、政府も住民も、もっと「町内会」に注目し、知恵を絞るべきでないのかと、提案しています。
「アメリカやイギリスの住民組織は、階層ごとに結成され、それがステイタス・シンボルともなっている。」「組織は階層の利益を追求し、異階層の人々に対し排他的でもある。」
「我が国の町内会は地域単位に編成され、そこに居住している異なる階層の人々を、」「過去から現在、未来に渡って、統合しつつ永続するという、運命的性格を持っている。」「異質なものを統合していくことは、政治である。」「町内会は固有の理念も特定の目的も持たないが、活動の仕方には、高度な政治技術がひそんでいる。」「もちろん無意識のうちに獲得されたものであるが、これが地域社会の安定に果たしている役割は、無視し得ない。」
自治会の役員を経験した身にしてみれば、氏の意見は正しいような的外れのような、いずれとも断定し難い部分があります。けれども、氏の主張には夢と希望があり、私はそこに惹かされました。
「利益を第一とする社会」はやがて見直しの時が来て、今は町内会に背を向けている若者たちも、やがて町内会の中に故郷を発見する時が来ると、氏は予言します。学者らしい沢山の説明があるのですが、それを省略し、結論だけを述べているので、飛躍した話と思われるかも知れませんが、楽しい予言です。
安倍総理が、大量の移民受け入れを政策としていますので、自己主張の塊のような外国人が町内会に加わった時、日本人は母屋を取られてしまうのでないかと、私はそちらの方が心配です。氏の本を読んでいますと、それでも日本の町内会は、外国人をうまく吸収し、日本固有の制度を永続させていくのだと言います。
キリスト教も日本に来たら、日本的キリスト教になり、儒教や仏教ですら、すでに日本的儒教となり日本的仏教となっていますので、もしかすると、私の危惧より、氏の楽天的予言が的中するのかも知れません。是非そうなって欲しいものと願いつつ、本日は終わりとします。
春は名のみの、風の寒さやと、歌の文句の通りですが、さくらんぼの花が四分咲きとなっています。日を浴びた白い花に、小さなミツバチが飛び交っています。きっと春はそこまで来ているのでしょう。希望の春に、希望の本を一冊読みました。