源田實氏著 『真珠湾作戦回顧録』(平成10年刊 (株)文藝春秋)を、読了。
源田氏について、私が知っているのは、氏が参議院議員であったことと、軍人であったこと・・それだけでした。しかしブックカバーに書かれた略歴を読み、びっくりするほどの経歴を知りました。
・明治37年広島県生まれ、
・大正10年、海軍兵学校に入学
・昭和3年、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生、以来一貫して海軍航空畑
・昭和16年航空艦隊幕僚、真珠湾攻撃、インド洋作戦、ミッドウェイ攻略などの作戦に参謀として参加
・終戦時は海軍大佐
・昭和29年に防衛庁入庁し、空将、航空幕僚長を歴任
・昭和37年参議院議員に当選、以後4回当選し、平成元年に84才で死去
明治37年の日本海海戦で、東郷大将がバルチック艦隊を全滅させました。この時、東郷司令長官を補佐したのが、秋山真之参謀でした。寝食を忘れ、ロシア艦隊の全滅作戦を立案したのが、秋山参謀であることは多くの人が知っています。
真珠湾攻撃と言えば、敗戦後の現在では、卑怯な奇襲作戦としてしか語られていません。日米開戦の火蓋を切った戦いですから、敗戦思考の現在の日本人には、恥じる思いが先に立ち、むしろ忘れたい日となっています。
しかし戦前は「戦勝記念日」と呼ばれ、国民の祝日だったそうで、私は真珠湾攻撃の二年後の昭和18年に、満州で生まれました。出産予定日が12月8日でしたから、郷里の祖父母たちが喜んでいたそうです。しかし私は一日遅れの、12月9日に生まれました。
昔の話なのでどこまで本当なのか分かりませんが、当時の出生届は、本籍地の役場でしていたのだそうです。戦勝記念日と同じくらい目出度い日はいつなのかと、祖父が思案し、「一月元旦、正月だ」と考えつきました。
ですから私の戸籍上の生年月日は、「昭和19年1月1日」となっています。
真珠湾攻撃の12月8日という日は、田舎に住む祖父でさえ疎かにできなかった目出度い日だったということになります。残念に思った祖父が、これに匹敵する国民の祝日の「一月元旦」に誕生日を決めたも分かる気がします。随分いい加減な話ですが、私の生年月日には、歴史の匂いがこもっています。
日米開戦の初戦を飾った真珠湾攻撃は、南雲中将が連合艦隊司令長官で、中将を支えた参謀が本の著者源田中佐でした。いわば氏は、日本海海戦で東郷大将を支えた、秋山真之参謀と同じ立場にいたのです。
秋山参謀のように歴史に残る人物として語り継がれて良いはずなのに、氏はどうしてそうならなかったのか。二つの原因がありました。
1. 日本の敗戦
東京裁判で、日本がした戦争はすべて間違った極悪非道な戦いだっ
たとされ、真珠湾攻撃が「卑怯な騙し討ち」の代名詞になったこと。
2. ミッドウェーの敗戦
南雲中将の率いる無傷の艦隊が米軍の攻撃で無残に壊滅し、その後の日本
の敗戦を早める結果となった。源田中佐は、ここでも南雲中将の参謀だった。
源田氏はミッドウエーの敗戦について述べていませんが、巻末の解説で日大教授の秦郁彦氏が書いていました。
源田氏は普通の軍人でなく、キラ星のように輝くエリートであ、歴史の生き証人の一人だと分かりました
小さな活字で、305ページにわたり、真珠湾作戦に関する海軍の苦労話が、詳細に綴られています。優秀な参謀らしくたくさんの資料を使い、整理された事実を克明に語ってくれます。
・真珠湾作戦を考えついたのは、山本五十六元帥だった。
・賛同したのが大西中将で、司令官となったのが南雲中将だった
しかし私は、氏の著作に感銘を覚えませんでした。戦前の話なら、何にでも心を動かされると思っていましたが、ただ文字を追っただけで氏の著作を読み終えました。
理由の説明は次回に譲ることとし、本日はこれまでと致します。5月6日、ゴールデンウィーク最後の日曜日です。爽やかに晴れた、美しい朝です。
けれども、心が少し曇っています。