なぜ、源田氏の著作に感銘を受けなかったのか。
陸軍と異なり、海軍の戦いがいかに呆気ないものであるかを、氏の説明を読むまで考えたことがありませんでした。
・海軍は、数十年にわたる、長い苦しい訓練を重ねるが、いよいよ決戦ともなれば、おおむね一時間もあれば戦闘は終了し、しかも、勝敗の分岐点は、最初の数分間で決まるのである。
・まことに、十年兵を養う。ただ一日、これを用いんがためなりとは、まさにこのことを言ったものであろう。
陸上の戦いも熾烈ですが、海の上での戦争は、一旦始めたら即座に勝敗が決まってしまうのです。しかもせいぜい一時間というのですから、瞬時の決戦です。数に劣勢の海軍が、優勢な米国艦隊を撃破するために払った努力は、並大抵のものでなかったと氏が説明します。
海軍の軍団構成は、戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦となっています。海軍は戦艦を中心として戦い、他の艦はすべて、戦艦を敵から守るためにあるのが、基本だそうです。
真珠湾攻撃作戦は戦艦中心の戦いでなく、航空機を前面に出した、画期的な戦法だったと言います。海軍の上層部は日本海海戦の勝利以来、大型戦艦が戦争の勝敗を握ると固く信じ、山本長官の航空機作戦に賛成する者がいませんでした。
大西中将が一人賛同し協力をしたことや、南雲中将は消極的態度だったことなど、舞台裏を知る意外感もありました。
氏は、勝利を収めた真珠湾攻撃に関連する三人の将軍、山本五十六、大西瀧次郎、南雲忠一氏を、傑出した軍人であると高い評価をしています。特に、大西中将については傑物と語っています、
・人物を評価する場合、一言で言えばどんな人であったかと、そんな質問が、よくされるが、大西滝治郎という人物は、一言にして評価できるような、単純な人物ではなかった。
・豪放磊落の反面、驚くほど緻密であり、飛んで行って、死んで来いと言わんばかりの厳しい命令を出すかと思えば、その心情に同情し、パイロットたちと一緒になって涙を流す人でもあった。
・海軍には、心の底のしれない先輩が若干いたが、大西中将のごときはその最たるものであろう。
氏は優れた三人の将軍について述べるだけでなく、真珠湾の作戦を成功させるため、命がけの工夫と研鑽をした部下についても語ります。
海軍の伝統的な戦い方は、攻めてくる敵艦隊を待ち伏せし迎え撃つというのが基本形でした。バルチック艦隊を全滅させた日本海海戦も、戦い方はこれでした。
しかし真珠湾攻撃では、戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦という、軍団構成は取るものの、戦い方は航空機が主体でした。しかも動いている敵艦を迎撃するのでなく、停止した戦艦を浅瀬の湾内で撃破するというのですから、すべて海軍の基本を離れた奇策であったのだそうです。
実行に移す参謀の源田氏はもちろんのこと、実践に参加するパイロットたちも、浅い海に浮かぶ戦艦に、どの角度から、どの程度の高度で魚雷を投下すれば良いのか。未経験の戦闘に知恵を絞り、研究し、訓練を重ねます。
飛行隊長村田少佐、加賀飛行長、佐田中佐、翔鶴飛行長、和田中佐など、多くのパイロットの名前と、研究・訓練の内容が詳細に解説されています。このパイロットたちのほとんどが、真珠湾の戦いで命を落とし帰らぬ人となりました。
氏が作戦に参加したパイロットについて詳述するのは、鎮魂と感謝の気持ちからだと思います。将軍を語るのと同じ枚数を費やし、氏が著書で取り上げなければ、彼らの名前は知られないままでした。
布留川大尉、江草少佐、島崎少佐、高橋少佐と、歴戦のパイロットたちの名前が出るたび、私たちのご先祖様となった彼らに手を合わせました。
氏は特攻隊の兵を前にし、大西中将が行った演説を紹介しています。
「国を救う者は、諸君青年である。諸君だけ殺しはせぬ。俺も必ず後からゆく。」「ただ俺は、指揮官だから、最後でなければ、死なない。」
そして氏が、中将について説明します。
・中将は特攻隊創設を決意した時、このいくさが勝っても負けても、死ぬ腹を固めていたことが、伺えるのである。
・終戦時海軍首脳の中で、最も強硬な戦争継続論者は、当時軍令部次長であった大西中将だった。
日本の降伏が決した時、中将が割腹自決したのは周知の事実です。
氏が本を出版した昭和45年がどういう年であったかを、振り返ってみたいと思います。
沖縄返還を花道に佐藤首相が退陣し、田中幹事長が首相となり、今太閤ともてはやされます。グアム島で元日本兵の横井氏が発見される一方で、札幌での冬季オリンピックが開催、山陽新幹線の延長など、日本からは敗戦の痛手が消えていました。
1 月 グアム島密林内で元日本兵・横井庄一氏発見、救出。
2 月 第11回冬季オリンピック、札幌で開幕。35カ国参加。
・連合赤軍の5人、軽井沢の浅間山荘に龍城。28日警官隊突入(浅間山荘事件)
・ニクソン米大統領、中国訪問(~2.27)
3 月 山陽新幹線、大阪~同山間開通。
5 月 沖縄施政権返還 沖縄県発足
6 月 佐藤首相、退陣表明。
7 月 第一次田中角栄内閣成立。
9 月 田中首相、日中共同声明に調印、国交樹立
どの出来事も、テレビの映像とともに記憶に残っています。経済が活況を呈し、高度成長期に入ろうとする勢いのある年でした。しかし素朴な疑問が、ここで生じました。
自決した将軍を思い、戦禍に散った部下を思いやり、そのために著書を出したというのなら、氏はなぜ国の安全保障について一言も語らなかったのか。グアム島で発見された横井さんのように、氏は名前も知れられていない一兵卒ではありません。真珠湾、ミッドウェイと、歴史に残る戦いを指揮した参謀として、日本の現状を思う一言がどうして著作の中で述べられなかったのか。
敗戦後の日本がアメリカの属国になっていることや、憲法が軍隊を否定していることに対し、抑えても出てくる憂国の情があるのではないかとそんな気がしていました。
「たとえこのいくさには負けても、日本人は100年でも、200年でも、アメリカと戦うのだ。」
と大西中将の言葉を伝えているのなら、なぜ氏は日本の現状への思いを、著作で語らなかったのか。
東京裁判史観が主流を占め、軍人は口をつぐむしかなかった時代だったとは言え、いやそういう時代だからこそ、日本のため心情を吐露すべきではなかったのか・・
だから私は氏の著作に感銘を受けず、不完全燃焼のまま、「ねこ庭」の紹介を終わります。