ねこ庭の独り言

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『汚辱の近現代史 』 ( 藤岡信勝氏の経歴 )

2018-05-30 15:48:32 | 徒然の記

 藤岡信勝氏著『汚辱の近代史』( H13年刊 徳間書店 ) を、読んでいます。

 296ページの、文庫本です。半分ほど読んだところで、感想を述べたくなりました。氏について知っているのは、「新しい教科書をつくる会」の、創設メンバーだったということくらいです。

 時々チャンネル桜に出演するので、保守論客の一人だと思い、それとなく敬意も払ってきました。期待していたのに、二、三ぺージのところで、氏の叙述に軽い失望を覚えました。これまで左翼の人々の言葉の陳腐さや、紋切り型の主張を散々貶してきましたが、保守論客と思っていた氏の意見に、似たトーンがあるのに驚かされました。

 誰にでも読みやすく、分かり易くするということと、文章のレベルを落とすのは同じでないはずです。

  ・日本民族の大きな歴史の物語、それをロマンと共感を持って書くという姿勢が、日本の教科書にはまったく欠如しています。だから面白くないのです。

  ・教科書が面白くない、根本的原因はそこにあると私は思います。それどころか自国の歴史をなるべく暗く、悪く書こうと努力しているとさえ見える。

  これは教科書に関する氏の感想ですが、私の視点と異なっています。現在の教科書の偏向ぶりに、氏と同じ批判的意見を持っていますが、面白いとか面白くないとか、そのような観点から考えたことはありませんでした。

  ・日露戦争というのは、言って見れば横綱と新十両の取り組みです。新十両は日本、つまり近代化して、近代国家の仲間入りをしたばかりの日本が、当時の最大の軍事大国である横綱のロシアと戦った。体力実力は、問題なく横綱の方が大きい。

  ・しかし新十両の日本は、とても元気がよかったから、なにくそってんで犠牲を恐れず猪突猛進した。それで最初のうちは、新十両がかなり押した。横綱ロシアは、少しふらふらっとした。一呼吸おいて頑張れば、いつでも盛り返せるという自信をロシアは持っていた。

  ・ところがその時、審判が出てきた。これが、アメリカです。アメリカは判定で、日本が一番有利と思われた瞬間に、そこで待ったと止めに入ったんですね。本当いうと、日本はもう武器弾薬が尽きていたのです。

 これが、日露戦争に関する氏の説明です。小・中学生を対象に、故意にこういう文章にしたのでしょうか。確かにわかり易く平易ですが、この叙述に、命がけで戦った先人への敬意の念が感じられるでしょうか。私には、そこいらのコンビニで売っている、コミック漫画でも手にしているような軽薄さしか感じられませんでした。

  5月27日のブログで、社会学者倉橋耕平氏について取り上げましたが、氏はあるインタビューで次のように語っています。

  ・歴史ディベートは、「つくる会」の藤岡信勝が、教育学の分野で実践を始めました。歴史を対象にディベートすることは、はっきり言って詐術です。

 なんの意味か分からなかったのですが、藤岡氏の著作を読みますと、確かにディベートという言葉が沢山出てきます。倉橋氏が敵として攻撃する人間の中に、藤岡氏が含まれていると分かりました。違和感のある藤岡氏と、軽蔑せずにおれない反日学者倉橋氏の対立ですから、双方に興味がありません。

  ・似た者同士の喧嘩なら、好きなだけやればいい。

 そんな印象しかありません。藤岡氏の言葉と倉橋氏の意見に共通しているのは、「日本人の心が無い」、ということです。魂の抜けた彼らが、論戦に勝つため言葉を交えているのですから、保守と左翼という構図で対立しているように見えても、私から見れば似た者同士です。

  藤岡氏に関する情報を、別途調べるてみました。著名な氏は私と同じ国を大切にする人間と思い調べずにいたのですが、どうやら間違いだったようです。

  「昭和18年北海道生まれで、今年75才。北海道大学卒、日本の教育者。」

 「新しい教科書をつくる会理事 ( 前会長 ) 、自由主義史観研究会代表」

 「拓殖大学客員教授、元東京大学教授、元日本共産党員」

 氏が私と同じ昭和18年生まれで、75才と知ったのも意外でしたが、元共産党員と言うのも意外でした。倉橋氏と似た者同志と何気なく言いましたが、見当違いでもなかったようです。

 意外な情報をもう少し、紹介します。

 「昭和37年、当時ソビエト教育学の拠点だった、北海道大学教育学部に入学すると、共産党傘下の民青系サークルに属し、二年生になったとき共産党に入党した。」

 「彼の妻は、北海道教育大学の元学長で、共産党員の教育学者、船山謙次の娘。」「船山謙次の妻しのは、新日本婦人会の札幌代表を務めるなど、共産党系の運動で活躍した。」「船山謙次の兄信一は、著名な共産党系の学者だった。」

 氏は著作の中で自分の父親については書いていますが、妻の家族に関しては触れていません。父親に関する叙述を、紹介します。

  ・私の父親は小さな町役場で、吏員で一生を終えました。生前父は常々、ソ連は、非常に劣悪な国である、それに比べると、アメリカはまだ信用できる、ということを盛んに言っておりました。

  ・戦後半世紀、歴史が大きく回転した結果を見ると、父親のソビエト・ロシアに対する警戒感は、歴史的な根拠のある、正しいものであったと思います。

  ・私の父のような、名も無い庶民が多数を占める戦後の日本国民が、選挙を通じて、社会主義政党を決して多数派にしなかった。

  ・これは今から考えると、誠に正しい判断だったと言わざるを得ないのです。

 残念ながら、氏の説明に共感を覚えませんでした。同じ著作で、氏が共産主義と決別したのは、平成2年の湾岸戦争がきっかけだったと書いています。その時まで、氏は共産党員だったのですから、父親と思想的には対立していたはずです。

 妻方の一族の、筋金入りとも言える共産党員の系譜を知れば、自分の父親を肯定する文章が、果たして何の苦悩もなく書けたのでしょうか。北海道大学卒業の氏が、東大の教授になれたのは、党活動に熱心だった氏を見込み、北海道教育大学・学長だった義父が力添えをしたからだという、情報もあります。

 果たして氏は共産主義思想を信奉していたのか、生きる方便として、学界を支配する赤い思想を利用したのか・・、そういう疑問さえ生じて参ります。

  ・日本には右翼と呼ばれる人々がいて、その主張の当否はともかく、一般の人々の神経を逆撫でするようなことをして、結果として、左翼的な論調に人々を追いやるという役目を果たしたと私は見ている。

  ・私の学生時代の、反民青系トロッキストと呼ばれる人たちは、ちょうど、この右翼と同じ役割を果たしたと思う。

  ・彼らの生活態度を見て、その主張などとうてい信用できないと、私は思ったのである。いずれにせよ学生時代に私は、社会主義幻想に深くとらえられていった。

 これが大学二年生の時、共産党員になった氏の弁明です。私と同年代ですから、北海道と東京の違いがあっても、大学生活は同じ状況のはずです。当時は、全国の大学で紛争が勃発し、過激派の学生たちが先頭に立っていました。現在の中国がいう、「愛国無罪」のようなもので、彼らは何をしても「革命無罪」でした。

 反対派の学生を集団で殴り殺しても、他人に怪我をさせても、学長や教授を弾劾し吊るし上げても、彼らは疑問を抱かず怯むこともありませんでした。その頃の私は今と同じで、惑いつつためらいつつ周りを観察し、氏のような活動家の一途さを、不審の目で眺めていました。

 氏は自分の学生時代を、さらっと書き流していますが、私の経験に照らせばそんなはずはありません。氏は嘘は書いていませんが、大切な事実を省き読者を欺いています。

 著作は最後まで読みますが、書評はここで終わりとします。氏の人間性というか、品格というのか適切な言葉を思いつきませんが、倉橋氏と同じ卑しさがちらつきます。

 右にも左にも、碌でもない人間がいるのは当たり前の話でしょうが、実際に出会うと、不愉快になります。騙されやすいわが息子たちには、しっかりと読んで欲しい今日のブログです。

コメント (2)
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