『タイの大地の上で』の、3回目です。書評らしきものには、まだしていません。編訳者の吉岡氏でなく、推薦者石井氏へのこだわりが、書評の邪魔をするとは思っていませんでした。
元外務省の役人であり、日本史学者であり、さらにはタイ王国の専門家である氏が、本気で日本とタイとの友好を願っているのなら、無視してならない事実があります。
それはタイが主導して作った、「東南アジア文学賞」の説明です。前回ラオス現代文学のブログを書いた時、この賞が東南アジアで最高の文学賞であり、作家たちの登龍門になっていることを教えられました。日本の芥川賞のようなもので、受賞した作家は域内で著名人となり、作品も売れるようになります。
編訳者の二元氏は、4人のラオス人作家の17編の作品を紹介しました。4人は皆、「東南アジア文学賞」の受賞者で、優れた作家であると強調していました。これは別途の情報ですが、参考のため紹介します。
「1970 ( 昭和45 ) 年代の後半は、タイの文学者にとって苦節の時代ではあったが、1979 ( 昭和54) 年に、オリエンタル・ホテルやタイ航空などが資金を出し、東南アジア文学賞を新設した。」
「この賞は、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟の10か国(タイ、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジア)にまたがる国際文学賞で、作品の選考は、各国の委員会に委ねられる。」
「賞は、アセアン各国の文学の活性化と、東南アジア諸国間の文化交流が目的で、賞金その他はタイが全額負担している。」
タイには、外交政策の一環なのかもしれませんが、アセアン諸国にとっては、意義深い賞です。動機が何であっても、東南アジアの文化的発展に貢献しているのですから、本書の「推薦の言葉」で一言説明しておかしくありません。というより、むしろタイの貢献を褒めるべきでしょう。しかし石井氏も、吉岡氏も、これについて触れません。
不思議なのは、吉岡氏が紹介するタイの7人の作家と二人の詩人が、東南アジア文学賞を受賞していない点です。タイの優れた作品を紹介する本なのに、タイが主導して作った名誉ある賞の受賞者を、どうして除外するのでしょう。石井氏も吉岡氏も、タイをこよなく愛する人間と言いますから、いっそう訳が分からなくなります。
あるいは、タイには「東南アジア文学賞」の受賞者が、一人もいないのか。
謎解きは私より物知りの方に任せるとして、無駄な時間を費やすのを止め実際の作品を紹介します。オー・ウダーコーン氏の、『タイの大地の上で』です。この作品が本の題名になっていますから、石井、吉岡両氏が推薦するタイで最も優れている小説なのでしょう。
あら筋は、ジフテリアのため、瀕死の状態でもがき苦しんでいる3才の男の子の傍らにいる、主人公のターラーが、なんとかして救ってやりたいと苦悶する話です。ベッドの側には若い母親と、男の子の兄弟が3人います。若い母親はターラーの叔母で、あと一人の登場人物は彼の恋人らしい娘です。彼らは、医者の到着を、今か今かと待っています。
「メーンおばさん。気をしっかり持って。もうすぐ医者のウエート先生が、たぶん間に合うように。戻ってくるから。」
ターラーは自分の声を、出来るだけ震えさせないようにと、懸命の様子だった。
「希望はないの。」
「よくわかるね、カニッター。」
ターラーは、とても低い声で恋人に答えた。
「デーン坊のジフテリアは、今すぐに、免疫血清の注射を必要としているだけじゃないんだ。」「もはやこれすら、僕たちにはない。」「これだけでなく、デーン坊が、もっとそれ以上に必要としているのは、彼の気管支に孔を開けてくれる耳科医なんだ。」
「何よりもまず、呼吸ができるよう、代わりに特別な管を必要としている。しかしこの全てがない。」「僕たちに、何があるっていうんだ。しかも命が尽きようとしているときに、今更これらが、一体何を意味するというんだ。」
「もしもだよ。デーン坊がこれから先、命があって大きく成長できたなら、彼は一人の大人として、他のみんなと同じように、国家に対する義務を担っていかなければならないだろう。同時にタイ人として、国家に当然要求できる権利だって十分にある。」
「しかしね、見てごらん。我々の生活が、一体どんな風か。」「貧乏で苦しい生活から逃れようと、どれほど必死になって頑張っていることか。だが政府は、今までそのことを、ほんの少しだって考慮してくれた試しがない。」
「カニッター、君だっておそらく見てきただろう。」「政府が与えてくれる行政サービスだと、胸を張って言えるものが何か少しでもあるかい。」
この調子で、ターラーの話が、5ページにわたって続きます。瀕死の子供がいて、その家族が悲嘆に暮れている時、このような話を長々とする馬鹿者が果たしているでしょうか。これだけでも、この作品を酷評する理由になりますが、この後の筋立てがいかにもわざとらしく、読書に耐えません。
ターラーはかって医学生でしたが、社会主義思想に惹かされ、政府の弾圧を受け、学校をやめた経歴を持っています。いわば挫折した、左翼主義思想の若者です。その時、部屋に突然若い男が飛び込んできます。若い男は優秀な医学生で、ターラーの尊敬する友でしたが、今は警察に追われ逃げ回っている境遇でした。
「バチャーン、君はデーン坊を救ってくれ。僕は、君を追ってきた警察を、惹きつける。」「追ってこれるものなら、追ってこい。キツネの手下どもよ。」
そう言って彼は、友が乗ってきた馬に跨り駆け出します。銃声が響き、警官たちの馬が彼の後を追い、次第に追い詰められていきます。警官の銃が彼を撃ち抜き、体が宙を舞い、川へ弾き飛ばされます。警官たちが、彼の最後の言葉を聞きます。
「バチャーン、タイの大地を頼んだぞ ! 」
28ページの小説を、ざっと紹介しました。一言で評すれば、「冗長で退屈」です。社会主義の素晴らしさを、熱く語り続けていますが、小説には読者に読ませる技量が必要です。この程度の出来栄えでは、「東南アジア文学賞」は無理と、私にも分かりました。
左翼嫌いでも、優れた小説なら芸術として読みます。しかし吉岡氏が紹介する作品は、どれも似たような駄作でした。まだ二冊しか読んでいませんが、こうなるとやはり言いたくなります。
「外務省の役人には、文学作品を見る目がない。」
これで、「財団法人・大同生命国際文化基金」出版の本の書評を終わります。