「エピローグ - 〈 ドイツ魂 〉というもの」と題された、最終章です。桝谷氏が経験した30年前の話で、現在の時点から計算すると43年前のことになります。
ドイツ語教員の国際セミナーに参加した氏が、帰国間際にライン川下りを楽しみました。船の待ち時間があるため、ホテルのバーカウンターでビールを飲んでいると、一人の紳士に声をかけられます。
「失礼だが、日本の方ですかな。」
白髪で長身の彼が、片手にワイングラスを持ち、隣に座って良いかと尋ねてきました。退屈していた氏が、うなづきます。
「私は若い頃、シベリアに何年かいたのですよ。ソ連軍の捕虜になってね。」
「それは、大変なご苦労をされたのですね。」
「よく生きて帰ることができたと、神に感謝しています。」
彼の話によると捕虜収容所には、ドイツ人だけでなく日本人も沢山いたとそうです。極寒の地で、原生林から木を切り出す重労働のため、仲間が次々と倒れ、戦後の帰国時には人数が半分以下に減っていたと、紳士が話します。
シベリアの捕虜の話となりますと、私は他人事でなく受け止めてしまいます。父は原生林での伐採作業でなく、炭鉱で働かされていたのですが、同じ過酷な労働だったはずです。
「しかし日本人は偉かった。」
紳士が思いがけない言葉を口にし、桝谷氏の顔を覗き込んできます。
「われわれドイツ人の将校や兵士たちは、自分の利害のみで行動していたが、日本人の将校は、まず部下のことを第一に考えていました。」
「例えばソ連側が、ノルマが果たせなかった部隊の、兵士たちの食事を減らそうとした時、日本の将校は激しく抗議し、部下を必死にかばった。」
「そのため将校は、不服従ということで営倉に連行され、三日間監禁されたのです。」「零下何十度にもなるシベリアで、暖房もない、小さな部屋に閉じ込められるということは、どうなるか分かりますか。」「やっと解放された時、その将校は虫の息だったそうです。」
「戦争が、ドイツ人をすっかり駄目にしてしまった。」「それにひきかえ日本人は、今も昔も武士の心を失っていない。」「確か、ヤマトダマシイと言いましたね。シベリアで、日本人から教わりました。」
「でも貴方達ドイツ人は、素晴らしい復興を遂げて、僕たち日本人は、いつもお手本にしてきました。」「ドイツの製品は、日本でも憧れの的です。」
「そう、ドイツの魂が生きているのは、今ではそうした仕事をしている、マイスターたちの中だけにあるのでしょうね。」
二人は船の時間が来たため、別れます。私が氏を立派だと思うのは、紳士の話で有頂天にならず、真面目に考え続けたところです。ここにはあの軽薄な氏がいなくなり、ドイツ贔屓の一人の日本人がいます。
「でも僕は、ドイツのあちこちの街を旅したり、住んでみたりして思うのだ。」「やっぱり、あの 〈 ドイツ魂 〉 は、」「ドイツのいたるところに、普通のドイツ人の心の中に生きているように見える。」
「彼らの理想とする頑固と丈夫は、ドイツ製品の中だけでなく、ドイツ人の精神の中に、今でも、息づいているのではないか。」
私は、次の氏の言葉を、息子たちに伝えたくなりました。
「日本人も、あのシベリアの指揮官だけでなく、一般の人々でさえ、昔はやっぱり、ドイツ人たちと同様に、いや、それ以上に頑固に、自説を主張し、義務や仕事は責任をもって実行し、木造の家を作っても、何百年も持ちこたえる丈夫なものを、当たり前としてこしらえたのだ。」
「それがなんだか、おかしくなり始めたのは、あの老紳士が、ドイツ人を叱ったように、戦争が、僕たち日本人を駄目にしたのかもしれない。」
「すっかり自信をなくした国民ほど、惨めなものはないのだ。」「どう考えても、僕たち日本人の方が、もっと 〈大和魂 〉 を失っているのではなかろうか。 」
「21世紀が目前に迫った今、次の世紀には、僕たちはもう一度、僕たちの先人が、19世紀までに築いてきたものを再発見して、本来の日本を回復することが必要だと思う。」
もう少し長いのですが、私にも息子たちにも、これで十分です。
私と氏の思いが、最後に来て重なりました。戦争に負け自信をなくしましたが、日本人は駄目になったのではありません。今も日本人の魂が生き続けているはずと、氏が述べますがその通りです。
シベリアから戻ってきた父も、意気阻喪していませんでした。捕虜生活について話さなかっただけで、貧乏に負けず愚痴も言わず、陽気に私を育て大学へ行かせてくれました。
昭和19年生まれの氏は、私と同じ年です。酷評しましたが、ブログの1回目で述べたとおり似たものがあり、親しみを覚えています。私はまだ75才なので、きっと氏も存命のはずです。元気で頑張って欲しいと思います。