愛国心に関する、三氏のキャッチフレーズを見つけました。表紙をめくった次のページに、ありました。三人の写真とキャッチフレーズと、主張が並べてありました。
目次に入る前の、いわば「前書き」の部分で、ページの振られていない特別ページです。まず、キャッチフレーズを、そのまま転記いたします。
1. 田原総一郎
「民主主義という人は、反権力・反国家であり、」「愛国心という人は、民主主義記が嫌いという、日本人の相反」
2. 西部邁
「自分の国は、自主的に自分で守る。」「アメリカは本性において、凶暴な子供の国なのだ。」
3. 姜尚中
「愛郷心は、愛国心につながらない、」「むしろ相克し合う。」「愛国心を超えた、アジアの共同性を目指して。」
キャチフレーズの後に、各氏の主張が続いています。愛する息子たちのため、私は父親として、日本を代表する、学識が深く、しかも先鋭的な学者である三氏に、勇気を振るって、異論を述べます。愛国心に学識は不要であると言う、庶民としての気持ちも述べます。
まず田原氏の言葉に、私は驚きました。民主主義を私は語りますが、反権力・反国家の人間ではありません。愛国心を語るからと言って、私は民主主義を嫌っていません。こういう基本的な認識のズレは、どこから生じているのでしょう。氏の言葉は、76年間生きてきた私の経験と、どの部分でも重なりません。こんな奇妙な思考をしながら、テレビの司会をしていたのかと、呆れました。
もっと言えば、肝心の氏は、二つに分類した日本人の、どちらに属しているのでしょう。自分の立場を明らかにせず、どちらの側にも賛成するような顔をし、どちらをも批判するのですから、これが氏の卑怯さであり、卑しい処世術だと、私は軽蔑いたします。
学者である西部氏や姜氏と、当意即妙の対話をしているのですから、氏の優秀さについては、脱帽いたします。何にでも即答し、何にでも意見が返せるというのは、頭脳明晰な人間にしかできません。けれども、愛国心を語る時、一番大事なものは、「誠」です。東大生を見れば分かりますが、頭脳明晰、成績優秀な人間は、日本にいくらでもいます。しかし「誠」のある人物は、なかなかいません。「誠」とは、別の言葉で言えば、「日本人としての心」、「日本人の魂」のことです。
愛国心を語る時、この点に何も言及しない、というより、言及できない人物は、愛国心を語る資格がありません。愛国心は知識だけではなく、文字通り、国を愛するという心です。
西部氏の言葉にも、私は、頭脳明晰・知識偏重のインテリの姿を見ます。「自分の国は、自分で守る。」という意見には大賛成ですが、次のフレーズが余分です。日本の愛国心を語る時、わざわざ、アメリカの悪口を言う必要があるのでしょうか。私たちはマッカーサーから、「日本人の精神年齢は、12才だ。」と言われた時、どれほど傷つき、怒りに燃えたか。愛国心を語ろうとする人間なら、米国人を貶めるような言葉を、不用意に口にして良いはずがありません。
過激派左翼から転向した氏は、「保守本流」の人々へ引目があり、機会あるごとに、米国追従でない自分を見せたかったのでしょうか。確かにアメリカは、第二次世界大戦後に台頭した、若い覇権国ですし、凶暴な国ですが、このような本の中で強調する必要は、どこにもありません。
生前の氏は、専属の動画を持ち、敗戦以来米国の属国となった日本を、無念に思うあまり、吐き捨てるように言っていました。
「いつまで経っても、アメリカにこびている日本人ばかりだ。」「こんな日本人は、ジャップとしか言いようがない。」
では、氏は、そんな日本人と、どこが違うのか。自分は、何をしようと考えているのか。そこは語りませんでした。批判するばかりで、自分の立ち位置を示さず、自分の考えも述べないと言うのでは、田原氏と同じです。
私は二人を見ていると、幕末の武士たちを思い浮かべます。「勤皇か、佐幕か。」「尊王か、攘夷か。」と、自分の立場を正面に出し、武士たちは命をかけて意見を戦わせました。斬り合って死んだ武士も、無数にいます。頭脳明晰、博学の武士もいたでしょうが、「国を守る」と言う気持ちだけの武士も多数いたはずです。
本気で物事を為そうとするのなら、己の立場を明確にするのが基本です。昔風の言葉で言えば、「旗色を鮮明にする」と言うことでしょうか。亡くなった氏を、悪様に言うのは本意でありませんが、保守としての覚悟が定まらなかったから、氏は自死したのではないかと、そんな気がいたします。
目次に入る前の、いわば「前書き」の部分で、しかもその入り口で、ブログのスペースがなくなりました。次回も、この続きと致しますが、保守を自認する方々には、参考にならないと思います。どうか、息子たち以外は、スルーしてください。
( 私自身について言えば、保守のカバーをかけた、この「悪書」について、納得するまで書評をする気でいます。)