田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

裏見の滝 4

2007-11-01 22:23:38 | Weblog
11月1日 part2 木曜日 晴れ
●裏見の滝への桟道の途中、切り立つ崖から滝が寄り添うように落下していた。寄り添うようにということは、雄滝と雌滝ということらしい。インターネットで詳細に調べておけばよかった。仲良く相い老いるというような意味があることは知っていた。最初は、これが裏見の滝かとカミサンがシャッターを切った。さらに桟道の先、観瀑台の右手を眺めているひとがいる。それでこれが相生の滝なのだとわかった。どうして、右の滝に意識がいかなかったのだ、この右側が裏見の滝だった。



●「仲良く相い老いる、なんてロマンチックね」
「おれたちみたいだな」
二人でのろけあっている。

●Gにひかれて落下する二本の滝。低いほうへ流れる水。絶えず理想に燃え、高みにのぼろうとするわたし。わたしの理想とは小説家として一本立ちになること。それを寄り添い支えてくれているカミサン。相生の滝。いいひびきの言葉じゃありませか。でも、このまま相い老いて、理想が実現できなかったらカミサンにもうしわけないな。



●滝の落下音をききながら、わたしはいろいろなことを考えていた。砂防の石積みにも、模造丸太の転落防止柵にも青あおと緑の苔が生えていた。

●快い冷気を帯びた秋の桟道を歩きつづけた。
「あまり、渓谷側を歩かないでよ」
カミサンからみると、危なっかしくみえるのだろう。                  

●清山院地蔵尊があった。



●水音が耳朶を打つ。裏見の滝が間近だった。のどの渇きを癒すため急な階段となった桟道で、しばし佇み、ぺツトボトルをだして茶をのんだ。






裏見の滝 3

2007-11-01 09:08:03 | Weblog
11月1日 木曜日 晴れ
●チャールス・ミンガスの「PITHECANTHROPUS ERECTUS」直立猿人の第一楽章「Evolution」進化のサウンドが絶えず耳もとに響いている。ジャズとの思い出について語りたいのだがここでは、裏見の滝についてまだ書いてみたい。日光の裏見の滝について書こうとしているのに、なぜ英語で打ち込んだりしたのか。裏見の滝との出会いで、まだ心が高揚しているからだ。

●歩くことはいい。健康への効用もさることながら、ゆっくりと歩くスピードでものを考えることができるのが更にいい。わたしは、まだ第二楽章「Superiority Complex」優越感をあじわっていない。そんなことをかんがえながら小柄で華奢なカミサンのあとから2、5キロ、滝へのかなりきつい上り勾配の山道をとぼとぼと歩いていた。ジャズからは距離を置き、優越感という言葉そのものについて考えていた。じぶんを能なしだと思っている。時流にものれず、それでもまだあきらめきれず、片田舎で小説を書くことに集中している。べつに、優越感などあじあわなくてもいい。ただ死ぬ前の10年間くらいはフルタイムの作家として過ごしたいものだ。

●カミサンが足もとのおぼつかないわたしをみかねてリックを背負ってくれた。まったく、様にならないったらありゃしない。男がそれもカミサンの倍も体重のあるわたしがリックをカミサンに任せている。
「わたし軽いから」
そういう捉え方もある。カミサンは励ましてくれるがどうも目から始まった老いが下半身にまできているらしい。らしいなどという推測でじぶんを慰めているが、老いたなぁというのが実感である。

●二足歩行を、なんの滞りもなく三万歩くらいこなすのにはぎりぎりの年配にさしかかっているような気がする。ヒトは猿から直立猿人となり進化の過程を歩んできている。歩行の「行」は修行の「行」のように思えてならない。もちろん、わたしなりのコジツケだ。行者の「行」でもある。この裏見の滝への道も途中から細く枝分かれする道がありその方が古道らしいが、いずれにしても勝道上人とその弟子たちが切り開いた道なのだ。古来、深山にわけいり仏と出会うための激しい自己研鑽の山岳仏教の徒の歩んだ道を歩かせていただいている。

●日光は絢爛豪華な二社一寺の裏に、修験者の労苦がある。

●見ること。観ること。目の快楽、それもそれなりに楽しいことだ。しかし、視覚によって得た感動を言葉にしてみる。あるいは文字にして抽象化する。さらに抽象的な思考にまで深めていく。そろそろ死を素直に受け入れなければならない年齢にさしかかっている。死とはなんぞや。と、ある一高生のように考えていた。

●そこで、裏見の滝と出会った。観瀑台に立つ。足腰を伸ばして。イナバウアー。反り返った姿勢からもどってから、あらためて滝を礼拝した。