千鳥川ウォッチングの投稿は直近のものでさえも、もう2年以上も前になります。千鳥川の中にいる生き物などをもっと撮りたいのですが、水中カメラがないので、ついつい疎かになってしまいました。また、殆どの川岸がコンクリートの間知ブロックで護岸されてしまいましたので、風景そのものに面白さがありません。純情無垢な少年時代を思い出させる自然豊かな川岸はなくなりました。昭和40年代ごろからかどうかは定かでありませんが、少なくとも50年代は、次々とコンクリートの護岸になっていました。護岸工事は「災害復旧工事」という名称で行われていたようです。「災害」という文字がありますから、台風、地震、大雨などの災害を想像しますが、決してそのようなものではありません。毎年、必ず春先に増水させる雪融け水によるものです。まあ、珍しくない毎年の現象ですが、長年の間には川岸も浸食されます。浸食される個所は、当然のことにカーブの外側です。浸食されたカーブの川岸を間知ブロックで護岸します。それで「災害」は起きなくなるはずですが、何故か直ぐ隣の川岸が浸食されて、毎年、繰り返されてカーブの所だけでなく、川岸が連続して護岸されてしまいました。不思議なもので、護岸されると必ず言えるほどに隣の川岸が崩れていました。何か事情が秘められているようです。
さて、そのような訳で畑沢の川も殆どがコンクリートに固められたことによって、畑沢で長年行われてきたことにも大きく影響しました。それは農業用水を千鳥川から取水する方法です。昔は川から農業用水を揚水するために、農業用水を利用する人たちが共同して川に雑木、土砂などで「堰」を造りましたが、護岸によって今までの堰を造ることができなくなりました。でも、コンクリートで堰を造った所もあります。その代表例が下の写真です。ここは、かつて畑沢で最も大きな堰だったので、「大堰(おおぜき)」と呼ばれていました。子どもたちから見ると、広くて、深くて、長い水辺でした。夏のプールになり、川魚の宝庫でもありました。
今は写真のように小さな小さなコンクリートの台だけです。農業用の堰としては十二分な機能を持っていますが、子どものまで老人になっている私たちには、どこか物足りない寂しさを覚えます。しかも、残念ながら堰が高いので、下流から魚が遡上できなくなりました。畑沢の魚好きな先輩によると、ここまでは「カマツカ」「ヤマメ」「スナヤツメ」が生息しているとのことでしたが、これより上流には全くそれらの姿は見えません。頑張れ、魚たち。でも、無理でしょうね、この高さでは。
コンクリートの堰でない場所では、電力のポンプで揚水しています。