-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢には二か所に「楯」がありました。

2014-07-23 21:05:10 | 歴史

 西暦1622年まで野辺沢城があったころ、畑沢が重要な地域であったことは、これまで再三に渡りブログに投稿してきました。野辺沢から山形へ向かう際には、畑沢を通って背中炙り峠を必ず通らなければなりませんでした。野辺沢氏のドル箱になっていた「銀山」からの金・銀を運搬する重要な産業道路が通っていたところでもあります。当然、軍事上も重要な位置にあったために、「背中炙り峠」には、大きな「楯」もありました。

 しかし、畑沢村の中にも、もう一つの「楯」がありました。平成8年3月に山形県教育委員会が発行した「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集(村山地域)」に「畑沢楯」としてその調査結果が載っています。

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畑沢楯 212-026

所在地 尾花沢市大字畑沢

築城者 不明

築城時期 不明

概要

 下畑沢の旧徳専寺(昭56年廃寺)南部の丘陵全体が、階段状の曲輪を有する楯跡となっており、「山楯」「荒屋敷」の地名も残されている。現在民家が建ち、下部は破壊されてしまっているが、残存遺構は曲輪が4段、最後部の標高は220m(比高30㍍)である。

 延沢から背炙峠を経て楯岡へ通ずる道筋を扼する位置にあり、延沢氏によって、出城として築かれた可能性が高い。伝承では古瀬蔵人が楯主とされる。

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 「畑沢楯」という名称で記載されていますが、畑沢出身者には「山楯(やまだて)」と言えば直ぐに分かるでしょう。「山楯」は屋号と思っていたのですが、400年以上も前のことに起因していた名称だったようです。上記の概要で「旧徳専寺(昭56年廃寺)南部の丘陵全体」との説明に困惑してしまいました。これは、「旧徳専寺がある丘陵との南部にある別の丘陵全体」と解釈するものでした。

 詳しくその位置を確認します。旧徳専寺の南側にイヌイ沢があり、その沢の南側に山楯があります。山楯と荒屋敷は同じ丘陵にあり、その丘陵の南側には東の沢があります。「楯」は畑沢で「山楯」と呼んでいたまさにその場所のことでした。野辺沢城があったころ、荒屋敷には野辺沢氏の家臣が住まいしていたものと思われ、それが今、荒屋敷に住んでおられる方たちの「大戸」姓の元になったものと思います。

 荒屋敷の守り神である「稲荷神社」は荒屋敷に面した尾根の末端にあり、「山楯」とは細い尾根で繫がっています。そのことは、国土地理院の地形図を見るとよく分かります。楯に異変があった時には、荒屋敷を抜けて稲荷神社へ登り、そのまま尾根伝いに楯に入ることができます。荒屋敷と山楯は機能が一体的です。山楯と荒屋敷の稲荷神社からの眺望は、大変、優れています。北の方は畑沢の南端である「松母」、南は「背中炙り峠」まで見えます。つまり、畑沢村全体を見通すことができ、見張りには絶好の場所です。楯は地の利を十分に考慮して築かれています。

 なお、徳専寺は野辺沢城が廃城となって、「山楯」の機能を失ってから100年以上も経った1700年代になってから建造されていますので、「山楯」との関係は考えられません。しかし、場所は少しだけ違いますが、「地の利」はそのまま寺の適地でもあったのでしょう。


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