野辺沢家は、元和八年(西暦1622年)の最上家改易とともに、野辺沢城を追われました。その後、月日が流れてから野辺沢家に所縁があると思われる者たちによって、野辺沢氏にまつわる言い伝えがまとめられました。それが「延沢軍記」です。 ところで、「野辺沢」が「延沢」に変わったのは、元和八年以降からです。延沢軍記は、原本に当たるものがあったのでしょうが、印刷機械がなかった昔は手書きで写されて何冊にもなっています。延沢軍記は、畑沢では源右衛門家に伝わったようで、末裔の方が畑沢を離れるときに延沢の龍護寺へ託したと聞いています。
貴重な資料は、尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」として発行しました。その中には、「龍護寺本」「塚田本」「片仮名本」などが収録されています。これらの収録されている「〇〇本」なるものも、江戸時代から伝わるものではなくて、龍護寺本は明治15年、塚田本は昭和9年、片仮名本は昭和14年にどこかの延沢軍記を書き写したものだそうです。尾花沢市史編纂委員会の延沢軍記は、尾花沢市、山形県、村山市、天童市、上山市、河北町、米沢市、長井市、鶴岡市の図書館の蔵書になっています。戦国時代から江戸時代前期の資料として、専門家内では貴重な資料となっているようです。
その延沢軍記には、畑沢に関係するものが少しだけ記載されていました。先ずは73ページにある塚田本の図面です。
この図面が何を意味するものであるかの説明がありません。従いまして、当時の各村の全戸数を表わしているとも言えません。そもそも、野辺沢家の領地でない地域である大石田の井出、土生田、飯田も書いてあります。野辺沢領内ではないようです。また、畑沢の五戸をはじめとして、戸数が少なすぎる地区があったり、逆に多すぎる地区があったりしています。この図面が記載されているページには、野辺沢家の家臣について説明されています。
そこで、いつものように私の大胆な憶測に近い推測をしてみました。この図面は、野辺沢家の家臣たちが城勤めをやめて帰農したりした戸数を地区ごとに表わしていると思うのですが、どうでしょうか。このような考えをしている歴史の専門家はおられないようですが、あながち外れてもいないのではないでしょうか。もしもそれが事実だとすれば、野辺沢家の家臣は畑沢に五戸が定住したことになります。
畑沢の大戸M氏によると、野辺沢家へのつかえ方には二種類があったそうです。所謂、家臣と言える城勤めの者と普段は農作業をしていて戦の時だけ戦場に駆り出される者だそうです。図面に出て来る五戸はその城勤めをしていた者を意味しているように思えます。畑沢には有路姓、古瀬姓の中の主だった者がそれに当たるのかもしれません。
畑沢は同じ村でありながら、禅宗(曹洞宗)である龍護寺の檀家と、浄土真宗である徳専寺(今は廃寺)の檀家に分かれています。 龍護寺の檀家が城勤めであった家の流れを汲んでいて、徳専寺の檀家はそれ以外の家だったと言われています。有路姓と古瀬姓が龍護寺の檀家です。すると、大戸姓などは徳専寺の檀家でしたので、城勤めではない村人と言うことになります。昔は荒屋敷には大戸姓だけでしたし、荒屋敷の南側の田んぼが、「郷士田(ごすだ)」と呼ばれていたのは、城勤めの「城士」に対して地元の侍という「郷士」に因む名称であると考えられます。郷士は下畑沢にあった山楯を守っていたのでしょう。
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