今日は友人(平山S氏)と村山市側から背炙り峠へ向かいました。
実は私がまだ子供のころ、父親から峠の地蔵と湧水を教えられた記憶のような、感覚のような不思議なものがありました。それを長い間、確認したいと思っていたのですが、現職中はどうしても時間が取れませんでした。
昨年、11月にようやく念願がかない、半日の休暇を得て探しに出かけました。しかし何処にあるのか全く見当が付かずに、いつもの私の行動パターン、暗中模索の開始です。「峠にあるのだから、尾根の何処かにはあるはずだろう」の調子です。現在の自動車道の峠から尾根に登りひたすら南へ向いました。行けども行けども「普通の」尾根が続くばかりです。途中、冬毛に装った野兎が飛出し、「熊か!」と小心者は肝を潰してしまいました。やがて努力は報われ、立派な道が現れました。自動車道路からは想像できない、全く異なるルートを通っていました。地蔵堂が見つかりましたが、私が父から教えてもらったかもしれないイメージとは似ても似つかない姿でした。湧水は見つけられませんでした。
そして、今日、再び背炙り峠の調査です。今度は峠そのものではなく、村山市側から峠に向かう旧道の確認です。明治時代の国土地理院の地図と畑沢の古瀬(T)氏の話を頼りに、二人で山中ウロツキ始めました。予定の場所へ行く前に、直ぐに斜面に白く残雪が蛇行しているようなものが見えました。「まさか早すぎる」と思いながらも、確認だけはしておこうと急斜面を登って驚きました。旧道そのものでした。単なる山道とは明らかに異なり、牛や馬が通っていたという言い伝えのとおり、十分な道幅と長い間使われた証である道の中央が大きく凹んでいます。資料では、戦国期から明治初頭まで使われたような書き方でしたが、もっと古くて古代からの道ではなかったかと感じています。それほどまでに堂々とした「道」でした。
峠の名称はありますが、何かと不便なので、友人の発案でこれからは「背炙り古道」と呼ぶことにしました。やがて、峠付近に近づくと昔の「楯」の遺跡が次々と姿を現し、その規模の大きさから、如何に大事な「峠」であったかが分かります。
山はまだまだ寒いのですが、残雪の上にマンサクが咲き、木の根元にはヤマガラが餌を啄んでいました。
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