実は、私は財布で困っている。
もう最低の財布しかない。
土屋鞄製造所の財布がどんなものか?は知らないが高価なのだろう。
だが財布がダメなのが如何に面倒か?今毎日思い知らされている。
それまではダイソーの化学繊維の財布が超デキ物で、使い勝手が滅茶苦茶良かった。
それがとうとう手に入らなくなったのが3年前で、ストックを切らして一年ほど前から違う奴を使っている。山田電気で買った300円の奴だった。
これなら良いかな?と思ったがダイソーの100円には遠く及ばなかった。
私が欲しいのは、機能性の高いシンプルで分厚くならない上に強度のあるものと言う滅茶苦茶贅沢な要求だが、これがあったのである。
今となっては1万円で良いから、いや、もっとでも良いからマシなのが欲しいと思っている。
そして困った事に到達しそうである。それは自分で作るのである。そうでもしないと、あのダイソーの100円の財布と同じものは出来ないだろうと諦めている。
さて土屋鞄製造所さんへ。トリビアを一つ、薀蓄とも言うがね…。
平安時代の一時期、朝廷は、或る書付に印を押したものを渡すと、その額面相当の米・金を渡してくれた。それは米券であり金券である。これが日銀の報告書の中にある正式な最初の金券の登場である。この金券を「割符」と書いて「さいふ」と読んだ。これが後の世に金入れを「財布」と呼ぶ語源となっている。
この金券を割符などの符と言ったり、手形、切手、といった。符は護符などの祭礼に使う紙の事を言うようになり、その後金銭や許可証の事を状、手形、切手と言っている。
例えば関所を越える為の書面を通行手形と「学校」は言っているようだが、実は旅切手とも言うし、この通行手形、切手は幕府が発行するだけでなく、入国ビザの様に、これを各藩で、発行している。大体入ってきたら発行して、出る時に取られる。
この発行の形態は、無料で審査無しが基本だが、いやな藩では金を取られる。それも諸国内での移動でも取り、それは領民でも取ると言う記述が「泉光院旅日記」にも書かれている。
この泉光院坊の旅日記では、托鉢と護符を売って収入にしていて、これらの金の多くは銭(銅貨、後に鉄貨も出てきた)だったのである。しかし長い間旅に出る場合一向宗門徒の村が続くと金が無くなり困るので泉光院坊は丁銀を持っており、これが大体金二分程度の価値である。
この手の高額貨幣は、一般人が持つ事は殆ど無く、鬼平の一番の嘘である。この泉光院坊は宮崎は佐土原にある士分の身分の人だから疑われないが、金が足りない時に丁銀を質屋や両替商に「質(担保)」として銭を幾らか工面して貰って、後で一向宗門徒ではない所で托鉢して金を払ったらしい。一向宗で泉光院坊が厚遇されたのは今の長崎は諫早の付近だけで、この時の持て成しは相当なもので「一枚起請文」を唱えると涙ながらに読経したと言う。他の場所では散々だったらしいが。
ちょっと、この関連で検索してみたのだが、銀二貫で220万円程度の価値であるとYahoo知恵袋で出ていたが、それはちょっと違う。
先ず、この質問者が1文を20円程度と言うが、それは大体合っている15円~30円と言うのが正しい。
但し、1両を400文は明らかに間違いで、1両は4000文から7000文と移って行った。また、それなら1両は6万円から21万円となると思われるだろうが、この貨幣価値に関しては各種異論がある。大体相場が違うし値段のつけ方が需要と供給以外に座による相場があり、銭の評価は江戸時代を通して10%程度しか動いていない。つまり貧富の格差が広がっていたと言う事と、通貨が増えた分だけ産業が発達したことを意味している。
例えば蕎麦は16文となると480円ぐらいと分からないではない。だが月収は、稼ぐ大工でも2両程度であり、12万円から42万円となる。更には、この時代米と燃料は高く、一概に言えないのである。
実際それなら年収の高いのは年400万円程度となる。実質上現金としての通貨は奉納金としての銀二貫は1000万円程度の価値があったのではないかと私は勝手に思う。
また銀二貫が銀で揃えられていたが、これも疑わしい。実は、銀は大阪では「仮想通貨」として使われていた可能性が高い。それは日銀のレポートで銭匁勘定の事が書かれている。
経済評論家の森永卓郎の寝言「江戸の金使い、上方の銀使い」とほざくが、実は異なっている。
小判の方の評価が銀より秤量で高く、その結果通貨量の増加を政府の第一命題としていた幕府は、通貨量を実質的に増やす為に銀貨を廃して、金貨を増発していたのである。その為、江戸から下り物の払いは、金貨から、銀貨へ交換する為替作業があったのは森永卓郎の弁を待たずともあったのだが、この金貨から銀貨への為替作業自身が実物の銀で払われずに、証文で「銀二貫」を保障するものとなっただけである。
つまり「転売」と同じで、実物の作業ではないのだ。
この様に経済学者と吹聴する連中も往々にして事実を知らない。
また後出しじゃんけんの様に当時の幕府の通貨政策(鋳造改悪)を突っつく卑怯な馬鹿文科系大学出の経済音痴専門がほざくが、この鋳造改悪は下敷きがあって、ローマ時代の鋳造改悪が進んだのに、貨幣価値が下がらなかった事が延々とあった。その例に倣ったと言えば十分に日本の商人ががめついと言う事が「新事実」だったのだろう。
そんな中、経済運営に四苦八苦した徳川吉宗は、独裁権力者でありながら、見事に経済の運営を仕切った名君中の名君と世界中に褒められて当然である。彼の偉業は虫獄の春秋時代の最初の覇者・桓公の宰相管仲に並び称される偉人と言える。
また土屋鞄製造所さんへ、池上彰も知らないトリビアを一つ。
紙幣は日本銀行が発行している「日本銀行券」ですが、貨幣は「日本国」の鋳造(正確にはコイニングと言う鍛造)となっており、これは小判鋳造、銭、一分金、一分銀、一朱金、一朱銀は幕府が、金座や銀座、銅座の商人に命じて鋳造を行った仕来りに倣ったもので、紙幣は座の裏書の或る「証文」の流れを汲んだものなのである。これは藩札(金券、米券と呼ばれたもの)と同じく、通貨としての紙幣であるが、債権としての意味を持っていた。
その意味では、この当時、最初民間で発行され、その後政府移管、或いは監視の対象となった、日本のみならず世界最初の紙幣山田葉書、その後の松坂葉書などとは異なるものである。
複雑な江戸時代の通貨の話でしたとさ…。
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