館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2025・冬の沖縄旅・・うるま市石川!

2025-02-04 04:31:23 | 旅は続く






117番線高速バスで石川ICを目指す。(高速バスはいくつかのIC入り口にバス停がある)
高速バスは路線と違いバスも高級、コードがあれば携帯も充電出来るぜ。
さて、石川IC到着。











まずは石川の戦中・戦後をお勉強。ソテツの葉で作った虫かごが素敵!
この後、石川の訪ねたいポイントをくまなく回る。

①石川市のポイントその1。 



かつて美里村の一部でしかなかった石川が、一気に石川市へと昇格を果たした背景には沖縄戦が大きく関わっていた。1945年4月に沖縄本島上陸を果たした米軍は、あっという間に各地を接収し民間人を捕虜として収容所へ送り込んでいった。主に本島の東側に収容所を造り、中部には石川、胡差(コザ)、前原、平安座の4エリア(他、エリアは割愛)が設けられた。戦時中捕虜となった住民30万人以上がこの12エリアに収容され、終戦後の1945年9月に発布された地方行政緊急措置要綱によって県内12市に制定された。こうして石川市が誕生したのだった。特に石川収容所は沖縄本島南北の中間地であり、本島で最も東西間の距離が短い狭小部を持つことから(この後、この狭小部を踏破した!)本島を南北に分ける軍事ポイントとして重要視されていた。

②石川市のポイントその2。





1945年5月7日 収容所内で石川学園を開校。校長は山内繁茂、現在のうるま市立城前小学校の前身であり、まだ日本軍と米軍とが首里防衛線で激戦を展開している頃 (那覇のシュガーローフの戦いは5月12日から)、背後にある石川収容所では、青空教室ではあったが「戦後」の学校が始動し始めた。現在、城前小学校の校庭には「戦後教育発祥の地」の記念碑が建っている。米軍の子供たちを何とかせねばの意向があったらしい・・・集められた教員たちのサラリーは、たばこワンカートンだったという、手記もある。









③石川市のポイントその3。





また米軍政府が各収容所から招集した地元識者によって組織された諮問機関「沖縄諮詢会(しじゅんかい)」が設置され、戦後沖縄行政はここから始まるのである。石川収容所は沖縄各地から人が集まる交流地となり戦後沖縄の中心地になっていく。教職員出身者・県議経験者・報道関係者などで組織される。戦前の県庁は他府県者で占められ、経済界も鹿児島商人が主導権を握っていたから、本来入るべき、政治・経済の有識者が居なかったのだ。

④石川市のポイントその4。









沖縄のチャップリンと呼ばれた小那覇舞天!「命のお祝いをしよう!」そう言いながら、カンカラサンシンを手に弟子の照屋林助とともに現れ、歌いだす二人に、収容所の人々は怒りを込めて言葉を返します。

小那覇全人(息子さん)さん「はじめは怒られたらしいね“こんなに人が沢山死んだのに何がスージ(祝い)か”と言って、すると親父は“死んだ人は沢山いるんだけど、あんた方は生き残ったんだから、死んだ人の分までね、楽しくこれから幸せに暮らそうでないか”そういうことを言ってたよと(照屋)林助さんさから聞いた」

生き残った者には、亡くなった人の分も人生を楽しむ責任がある。沖縄諮詢会では、芸術課長に就任。笑いで沖縄の復興に活力を与えたのだ。

その後各収容所から人々の帰村が進むにつれ各地人口移動が活発となり、上記緊急措置要綱は解かれ12市体制は解消、戦前の市町村行政機構へ復帰した。しかし石川市だけはその重要性を維持し特区扱いを受け旧美里村から分離独立、そのまま石川市として存続することになった。沖縄の高速自動車道が1975年「許田 – 石川」間から始まっていることにも当時の石川の重要性が見て取れる。

⑤石川市のポイントその5。

忘れてはいけない「宮の森小学校」!























1959年6月30日午前10時40分頃、米空軍F-100D 55-3633号機が操縦不能となった。パイロットは空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまとなった子供達は水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられている。
被害者の要求する金額の1割にも満たない額で終止符。基地がある限り、こうした事故は、寄せては返す波のように続くだろう・・・・



石川白浜地区にある通り。石川社交街。4つの社交街通りがある。
昔は米兵相手のAサイン店も多く賑わっていたが、今では怪しい雰囲気のスナックが立ち並ぶ通りに。
年金通りのスナックだけではなく、若者を対象にしたキャバクラらしき店も点在し、夜も深くなると怪しい通りになるようである。



何だか、素敵な看板もあった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2025・冬の沖縄旅・西原... | トップ | 1月下旬・・菜園片付け。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅は続く」カテゴリの最新記事