山遊塾With You

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山遊荒川倶楽部恒例の正月越生七福神巡りをやってきました。

2023年01月08日 | ウォーキング
 このイベントが始まったのはかれこれ20年前。定年退職者が集まって出来たような倶楽部は今高齢者軍団になり、歩行困難者の集まりになってしまい、いつ終焉の時を迎えるのかもう時間の問題です。当初30名を超す会員がいたのですが、現在は半数の15名に減ってしまいました。その中で実質毎回参加してくれるのは10名足らず。ことにコロナ問題が起きてからは、参加者の数がグンと減ってしまい、毎回寂しい人数で歩いています。今回も寒気が厳しい埼玉県北部の越生ですから、集まる会員は僅かだろうと思っていたら、9名も顔を出してくれました。お陰で何だかホッとした気分になりました。
 例によって越生駅前から黒山三滝行のバスで、まず布袋尊の全洞院に参拝。それは越辺川の上流の清流に架かる橋を渡った、山裾に建つ小さなお堂です。北に面しているため寒い所です。全洞院には明治元年5月新政府軍との戦いに敗れ、僅か22歳で自刃した渋沢栄一の義弟で、養子の渋沢平九郎の墓があります。


 ここから次の毘沙門天は龍穏寺に向かいます。天気予報は期待できる予報はしていませんでしたが、それは外れて雲一つない快晴になってくれました。




 龍穏寺までは約2,5kmの歩き。標高差150mの小さな峠を越えて行きます。途中柚木の里を抜けて行きますが、今年は実の付き具合は悪いようです。


 峠を越えて薄暗い杉林の中を降りて広い道に出ると、道路わきに下馬門と刻まれた石標がありました。龍穏寺は相当格式の高い寺であったようで、侍であってもこの先は歩いて行ったのでしょう。


 龍穏寺山門に着きました。1842年建立の堂々たる山門です。ここには太田道真、道灌親子の墓があることで知られています。草創は807年、1472年に太田道真、道灌親子によって再興された格式10万石の名刹です


 山門を潜ると道灌像が立っています。ちょいと小ぶりな像で威圧感がありません。もうちょい大きな像にして欲しいですな。




 龍穏寺で私が好きな所は、境内にある鏝絵で外壁を飾った蔵です。今は塗装もはげ落ちて、ほんの僅かしか残っていませんが、昔は素晴らしい彩色が施されていたはずです。ここも手を入れて昔の姿に戻して欲しいですね。


 龍穏寺は小さな谷間にあって、冬の今でも穏やかな緑に囲まれています。いい所です。


 龍穏寺を出ると今回のコース最悪の急坂を越えなくてはなりません。以前は未舗装の悪い道でしたが近年道幅も広くなり、舗装もされて格段に良くなりましたが、やはり登りはきついです。登り終えれば後は下り一方です。途中の柚子畑の中に代官屋敷が残っていて、私を除いた8名はそちらへ見学に回りましたが私はそのまま直行。すると道路脇に無人販売があり、無造作に造った台の上に、2個100円のミカン(いわゆるデコポン)を売っていたので買っておきました。


 無人販売店の先で竹炭を焼いているおじいさん(私も負けず劣らずのおじいさん)の所で引っかかってしまい、お互いにペチャクチャやっている間に、仲間にグンと引き離されてしまいました。しかしこの辺りは冬でも日当たりは良く、緩い斜面に七曲りの細い車道、そして利用客などいるのかしらと危ぶむ喫茶店の手造り看板。何とものどかな風景でございます。




丁度正午に三つ目の寿老人円通寺に着きました。昼飯はいつもここの農産物売店の食堂で「ひも川」を食べることと決めていますので、迷わず2階の食堂へ。普通盛りと大盛りがあって、普通が500円、大盛が600円なり。当然私は大盛を注文です。今日はここに着くまで店はやっているか心配でした。なぜなら今年の巡礼者が極端に少なかったからです。そのため年中やっている食堂ではないので、この分では休業ではと心配したのです。円通寺の参拝は形通りに済まし、境内のユニーク過ぎる大きな仁王像に対面をして、四つ目の最勝寺に向かいました。


 最勝寺へは梅林で有名な越生梅林を横切って、越辺川に架かる道灌橋を渡って、川の左岸に沿って行きます。橋を渡った先に道灌の父,道真退隠の地とされる場所があり、三体のお地蔵さんと並んで碑も立っています。


 四つ目の最勝寺にはいつも門前の蝋梅が独特の芳香を放っているのですが、今年はそれがありません。花も僅かです。楽しみが無くなっていたのでここも型通りの参拝に済ませ、山門を出たら丁度長老のIさんが、円通寺の「ひも川」を食べた食堂にストックを置き忘れ、取りに行き今戻って来たところでした。年を取ると忘れ物が多くなる。他人ごとではない。自慢じゃないが私も忘れ物は多い。この忘れ物を長老に代わり、私が取って来ましょうと言い出す者が一人もいなかったことが、現在の倶楽部の状況を良く現しています。ああー悲しい。誰も余分に歩きたくない。




 越生梅園正面です。入園する人が見当たらない。なんせまだ梅は咲いていません。それどころか昨年の内に延びた余分な枝切もまだ終わっていないのです。この枝切作業は大変です。


 五つ目の弁財天の弘法山ですが、ここがまたきつい。長いしかも勾配もきつい。ここが登れなくなったら、長年続けてきた越生七福神巡りも終わりですなと、お互いをいたわり合いながら登るのです。


 登り終えると目の前に飛び込んできたのが赤い南天の実。傍の銀杏の木の周りには皮が付いたままの実が沢山転がっていました。その実はタダで差し上げます、と張り紙がありましたが、皮付きの銀杏は貰っても臭いし、その皮むきが大変なことは子供の頃の経験から解っているから誰も持って行かない。通りすがりの無人販売所で見かける一袋100円は、その苦労を考えると涙ものの値段です。


 弘法山を降りて四度越辺川を渡り、新しく建て替えられた越生町役場前を通って大黒天正法寺に着きました。大黒天のお堂は寺の左奥にあり、参拝者はここでよく間違えて、正法寺本堂に参拝して帰って行きます。なにしろ一見ただの蔵みたいにしか見えませんから。


 最後の法恩寺へ向かうために、正法寺の横手から出る所に可愛い石仏が置いてありました。このような石仏は地方の田舎道を歩いていると良く見かけます。手を握り合った男女の仏像など、ほほえましいものがあると、なんだかホッとするものです。


 午後3時に最後の恵比寿法恩寺に着きました。ここから越生駅まではほんの5分ほど。大黒天に参拝して法恩寺にもお参りをすまし、なおも四国88ケ所を巡ったと同等の御利益があるという、碑にもお参りをしてやっと解散と相成ったわけです。来年もまた会いましょう、と別れましたがどうなることやら。
 ここ法恩寺には渋沢平九郎の首が埋葬され、その埋首之碑があります。平九郎の首と躯は後に渋沢栄一により収容され、東京谷中の渋沢家墓地に埋葬され、全洞院に墓石が建立されたということです。いい勉強になりました。この正月も有意義なウォーキングになりました。
















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