誰に聞いたか読んだのか,それすら分からない昔の記憶。愛には二つのカタチがあるのだと。
一つは許す愛であり受け容れる愛。「ドラえもん的愛」とか「母性的な愛」とかって言っていたように憶えている。もう一つは立ちはだかる愛であり,はねつけはねとばし鍛える愛。「父性的な愛」って言っていたろうか。星一徹のような愛とは言わなかったと思うがそんなイメージか。
ドラえもんは,「う~ん,のび太くんったら~。しようがないんだからぁ~。」とぶつぶつ文句は言いながらも,決して拒否せずつきあってくれる。最後はのび太に添いつつなんとか力を貸して問題解決してくれる・・・実にある意味現代的。心地よい。
対して星一徹はというと,決して優しかったり柔らかかったりする言葉や態度はない。「バカモーン」とも言わずいきなり竹刀で殴る。蹴る。ちゃぶ台をひっくり返す(これは実際にはなかったらしいが)。そして有無を言わさず大リーグボール養成ギブスを装着する・・・実に時代錯誤。いやになるほど旧臭い。
どちらが良いかって聞かれるまでもなく,一般的にはそりゃ前者が好まれるでしょう。眼に見えて愛されている気がする。でも両方とも,そう,受け容れられるかどうかは別にして,後者だって確かに「愛して」いるんじゃないか。要は愛のカタチが違うのだ。
そう言えば,仏様だって人間の望みの声を聞けば何でもそれを叶えてくれるという観世音菩薩つまり観音様がいらっしゃる。一方,忿怒(ふんぬ)の相で迦楼羅焔(かるらえん)を背にし立ちはだかる不動明王だっていらっしゃる。人間の弱さを知り抜くからこそ添いつつ代わって願いを叶えようとする仏と,人間の弱さを知り抜くからこそ立ちはだかり無理矢理にでも正しい道に導こうとする仏。かの山折哲雄氏は,観世音菩薩・不動明王(と地蔵菩薩)のセットが日本ではそれぞれ母・父(と子)のイメージの投影であろうと指摘しているらしいが,古今東西人間のあり方と願いの本質は変わらないのだ。
我々が知らなくてはならないのは,表面的には横暴かつ前時代的に見えスマートさに欠けた振る舞いであったとしても,実は近視眼的には見えにくい何かを懸命に励まし育てようとする慈しみを秘めたものがあるかもしれないってことだろう。逆に言えば,優しく受け容れているように見えても,実は立ちはだかることを避けているだけってことがないわけではないのかもしれない。家庭だって学校だってね。違うかな?
一つは許す愛であり受け容れる愛。「ドラえもん的愛」とか「母性的な愛」とかって言っていたように憶えている。もう一つは立ちはだかる愛であり,はねつけはねとばし鍛える愛。「父性的な愛」って言っていたろうか。星一徹のような愛とは言わなかったと思うがそんなイメージか。
ドラえもんは,「う~ん,のび太くんったら~。しようがないんだからぁ~。」とぶつぶつ文句は言いながらも,決して拒否せずつきあってくれる。最後はのび太に添いつつなんとか力を貸して問題解決してくれる・・・実にある意味現代的。心地よい。
対して星一徹はというと,決して優しかったり柔らかかったりする言葉や態度はない。「バカモーン」とも言わずいきなり竹刀で殴る。蹴る。ちゃぶ台をひっくり返す(これは実際にはなかったらしいが)。そして有無を言わさず大リーグボール養成ギブスを装着する・・・実に時代錯誤。いやになるほど旧臭い。
どちらが良いかって聞かれるまでもなく,一般的にはそりゃ前者が好まれるでしょう。眼に見えて愛されている気がする。でも両方とも,そう,受け容れられるかどうかは別にして,後者だって確かに「愛して」いるんじゃないか。要は愛のカタチが違うのだ。
そう言えば,仏様だって人間の望みの声を聞けば何でもそれを叶えてくれるという観世音菩薩つまり観音様がいらっしゃる。一方,忿怒(ふんぬ)の相で迦楼羅焔(かるらえん)を背にし立ちはだかる不動明王だっていらっしゃる。人間の弱さを知り抜くからこそ添いつつ代わって願いを叶えようとする仏と,人間の弱さを知り抜くからこそ立ちはだかり無理矢理にでも正しい道に導こうとする仏。かの山折哲雄氏は,観世音菩薩・不動明王(と地蔵菩薩)のセットが日本ではそれぞれ母・父(と子)のイメージの投影であろうと指摘しているらしいが,古今東西人間のあり方と願いの本質は変わらないのだ。
我々が知らなくてはならないのは,表面的には横暴かつ前時代的に見えスマートさに欠けた振る舞いであったとしても,実は近視眼的には見えにくい何かを懸命に励まし育てようとする慈しみを秘めたものがあるかもしれないってことだろう。逆に言えば,優しく受け容れているように見えても,実は立ちはだかることを避けているだけってことがないわけではないのかもしれない。家庭だって学校だってね。違うかな?