Hei!(「ヘイ」って読んで「やあ」って意味)~義務教育世界一の秘密

義務教育世界一の国の教師養成の実態を探る旅。フィンランドの魅力もリポート!その他,教育のこと気にとめた風景など徒然に。

ペスタロッチー教育賞表彰式&記念講演会

2006年11月19日 | Weblog

広島大学で第15回ペスタロッチー教育賞表彰式並びに記念講演が次のように開催されます。(敬称略)

【日  時】 平成18年11月27日(月)13:00~14:30

【表 彰 式】 13:00~13:30
 
【記念講演】 13:30~14:30
 
【場  所】  広島大学教育学研究科K201講義室
        (東広島市鏡山一丁目1番1号)

【主  催】  広島大学大学院教育学研究科
        ペスタロッチー教育賞実行委員会

【後  援】  (財)広島地域社会研究センター
         中国新聞社

【受 賞 者】  学校法人愛育学園理事長 津守 眞(つもり まこと) 

【プログラム】
 1 開会の辞
 2 主催者挨拶
    ペスタロッチー教育賞実行委員会委員長
                      広島大学長  牟田 泰三
    広島大学大学院教育学研究科長  坂越 正樹
 3 祝辞
    (財)広島地域社会研究センター理事長  篠原 康次郎
 4 ペスタロッチー教育賞贈呈
 5 記念品贈呈
    中国新聞社代表取締役社長  川本 一之
 6 記念講演
     第15回ペスタロッチー教育賞受賞者  津守 眞
 7 閉会の辞

( 参 考 )
ペスタロッチー教育賞受賞者一覧
第1回受賞者 宮城 まり子 ねむの木養護学校校長
第2回受賞者 谷 昌恒 北海道家庭学校校長
第3回受賞者 児玉 三夫 明星学苑理事長、明星大学学長、明星小学校校長
第4回受賞者 山田 洋次 映画監督
第5回受賞者 NHK名古屋放送局「中学生日記」制作スタッフ
第6回受賞者 本吉 修二 学校法人白根開善学校校長
第7回受賞者 黒柳 徹子 ユニセフ親善大使
第8回受賞者 社会福祉法人 広島新生学園
第9回受賞者 丸木 政臣 和光学園学園長
第10回受賞者 佐野 浅夫 俳 優
第11回受賞者 社会福祉法人 似島学園
第12回受賞者 九里 茂三 学校法人九里学園学園長
第13回受賞者 中野 光 日本生活教育連盟委員長、日本子どもを守る会会長
第14回受賞者 アグネス・チャン 日本ユニセフ協会大使
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ゴムパッチンの笑い

2006年11月18日 | Weblog
ある番組で「ゆ~とぴあ」の興味深いを耳にした。ご存じと思うが,一昔前にゴムパッチンで有名になったあのお笑いグループだ。このゴムパッチンとは「ゴムの片側を口にくわえさせ,その反対側を思いっきり引っ張った後に手を離し,顔にゴムをあてるという罰ゲームなどで用いされるもの(はてなダイアリー)」を指す。

興味深いというのは,そのゴムパッチンにまつわるエピソードだ。受けをねらって採り入れたパフォーマンスだったが,最初は客席から全く受けなかったというのだ。なぜか?

やり始めの頃,客席では受けるというよりむしろ「痛そう」!といった感じ方の方が強く,お客さんはむしろ「引いて」しまったのだという。そりゃそうだ。本当に痛いのだから。なのに思いっきり伸びたゴムの収縮を顔に受けて舞台で倒れる芸人さんの様子を見て,いつの間にか観客が笑えるようになった変化の事実は何を意味するだろう。

これは,人の痛みを自分の痛みと感じるようなそんな共感性の回路を,場の雰囲気に合わせていつの間にか遮断してしまったからではないか。「ここはきっと笑うところだろう」「他の人も笑っている」という状況判断を元に,周りに自分を適応させたということだ。最初は自分自身の感じ方とのギャップに戸惑いながらも,またおっかなびっくり周りに合わせていても,次第に自分自身の感じ方がなくなるだけでなく,いつの間にか自分が周りに影響を与える立場にさえなってしまう。1971年にスタンフォード大で行われた心理実験さえ思い浮ばされる。(注http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93)

見回してみると,テレビなどで見る最近の笑いには,場の勢いで出演者などにいろいろなことを強要し,断り切れず困ったりぶざまに対応する様子をあざけり笑う場面が多い。子どもたちを取り巻く笑いも,そんな様子に汚染されているのではないか。お笑いのやり方をこのように取り上げるのもどうかと思われるかもしれないが,しかしこんな世間の雰囲気がもしかしたら子どもたちの共感性の回路を遮断しているかもしれない。だとしたら,看過できないと思う。「いじめ」の中で行われるあのあざけりとの共通点を見つけるのは私だけではないだろう。
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変化を拒む

2006年11月16日 | Weblog
今日,教壇で学び自分が変化することを「拒む」教育実習生が少しずつ増えているように思われてならない。全国に散らばる友人に聞いても同じような感想を持つ者が少なくない。決して変化することを「恐れている」のではない。そんな不安に揺れた様子には思えない。自信満々堂々と変化を拒絶するのである。

実習中は当然,授業を行うための学習指導案を事前に作成し,授業としてどのような点が適切でどのような点が不適切であるか,何をどのように改善すべきかの指導を受ける。授業後には,実際に行った授業についての指導を同様の観点で受ける。そう,このように指導を受けて自分の気づかなかった点に気づかせてもらい教員としての適切な視点と方法を獲得し増やしていくこと,つまり教員の卵としてよりよく変化するのが教育実習の主眼だ。

ところが,実習生が計画したり行ったりしたことを「すばらしい」と誉めているうちはよいものの,授業内容に対して不備を指摘したり修正を指示したりすると,状況が一変することがある。「あの先生はどうも私のことを嫌っているらしい」「私の考えを認めてくれなかった」「自分を否定された」と不満を持ち,校長や大学に苦情を申し立てる若者がいるというのだ。

実習受入校のベテラン教員たちは,このような一部の実習生の変化に戸惑いを隠せない。教材研究の不足や学習指導の不備,教材解釈の間違いなどを指摘すると,なぜかそれが実習生の人格否定をしたとすり替わって受け取られているためだ。ひどいケースでは,実習指導が,学生の評価を行う指導教員という「強い立場」からの指導であるとの構図で語られ,いつの間にか「立場を利用した指導の強要」の行為者に仕立て上げられてしまうことさえあるという。

教育実習生諸君よ,教育実習はあなたに合わせて学校や教員が変化する場ではない。あなた自身が教員になるために謙虚に変化する場だ。今変化しなくていつ変化するのだ。いい加減に目を覚まさないか。大人にならないか。
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行動は語る

2006年11月15日 | Weblog
ある授業で欠席した学生は,その人が欠席した授業で与えた課題をいつの間にか自分で完成させて次の授業に臨んだ。また別の欠席学生は,次の授業が行われる前に私の部屋まで欠席した授業で配布したプリント類を受け取りに来た。

どちらも私から指示した行動ではないので,自分で考え行ったことだろう。もしかしたらその背後には,そのような行動を促す学生たちの友人関係があったのかもしれないな。

なかなかこんな姿は見られないご時世になっているため,久しぶりに感激してしまった。授業で多くを流暢に語る二人ではないが,その行動は今の若者がなかなかヤルことを雄弁に語ってくれたように思う。
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子どもに伝えたい「心に響くちょっといいはなし」

2006年11月09日 | Weblog
広島県教委のWebsiteの更新はよく注目しているのですが,『子どもに伝えたい「心に響くちょっといいはなし」』っていうページができていますね。県民の方々から届いた,さまざまないい話が掲載されています。元気が出ると思います。

http://www.pref.hiroshima.jp/kyouiku/hotline/12doutoku/h_kokoro.html#68
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次がある次が・・・

2006年11月09日 | Weblog
教育実習に関わっていつも思い出す話がある。教員養成に関わる者として生涯忘れてはならないと肝に銘じているし,ことさら決意などしなくとも,おそらく生涯忘れられないだろう。それは10年以上も前に,ある保護者から直接聞いた話だ。

ある日,教育実習中の学校に立ち寄った。すると空き時間なのか,黒いスーツを着た教育実習生らしき若い男女が,地べたに座ってジュースを飲みながら楽しそうに談笑していた。彼らは次のように話をしていたという。

「いやぁ,授業が全然うまくいかなくってねぇ,結局はちゃめちゃのぼろぼろだったよぉ。ハハハハハ・・・」
「キャァ,あなたも?まぁ,私も同じだからドンマイドンマイ。ハハハハハ,次がある次が・・・」

この会話を聞いた保護者がどのように感じられたか,分かるだろうか。その方は,憤まんやるかたない様子で,次のようにまくし立てられた。

「実習生が授業をうまくできないことはよく分かっているけど,それを簡単に考えてもらったら困るのよね。実習生にとって授業の失敗はドンマイで,次があるって思っているのだろうけれど,受けてる子どもにとっては,その1時間1時間がかけがえのない授業の1時間であって,取り返しはつかないんだから。あなたが失敗して子どもたちから奪った1時間を,そっくりそのまま返してよって言ってやりたかったわ!」

この保護者は,私などが到底及ばないような人格者であって,いつも学校を支え助けて下さっていた。そのような方が口に泡してこのように話されたことは何を意味するだろう。

もちろん,学生は学生なりに努力し準備したことだろう。しかし,我々はこの「なりに」を使うときこそ,「なりに」の奥底にある意識に目を向ける必要があるのではないか。「なりに」はいつも,不十分の弁解に使われるのだ。児童・生徒にとって見れば,ベテランの先生が行う授業の1時間とは質の違った1時間を受けさせられることになる。そこそこの努力をする教育実習では大いに困るのだ。既にお気づきのように,保護者の憤りは,授業がうまくいかなかったことではなく,授業がうまくいかなかったことを軽く考えているように受け取れる発言をしていたことにある。

教育学部に入学し,所定の単位を修得して本人が希望しさえすれば教育実習に行くことができる。それは大学が保障した学生の権利だ。しかし,この権利の行使は,教師の卵として誠実であることが前提になっている。誠実とは,教育現場,とりわけ授業において,自分の力量不足・経験不足を自覚して可能な限り慎重に準備し,最大限の努力をすることだ。実習生なのだから,結果が十分であるはずはない。そんなことは皆分かっている。その上で受け容れてくれているのだ。だから繰り返すが,誠実に努力しよう。これができないとすれば,教員としての適性以前の問題だ。そんな者に権利の濫用は許されない。
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予算配分の格差が促す学校間競争は子どもを幸せにするか

2006年11月05日 | Weblog
東京都足立区教育委員会は,区立小中学校に配分する来年度予算で,都と区の教育委員会が実施している学力テストの成績に応じて各校の予算枠に差をつける方針を固めた。小学校と中学校を最上位約400~500万,最下位は約200万円の間で4段階にランク分けする予定。
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足立区教委が決めたこのような予算配分格差が促す学校間競争は,子どもたちを幸せにするでしょうか。内藤博道・区教育長が「頑張った学校に報い,校長と教員の意欲を高めることが,区全体の基礎基本の学力向上につながる。」と語ったように,確かに学校間競争は促されるでしょう。競争すること自体が悪いわけではない。しかし問題は,この競争が本当に教育の場で行うにふさわしい,教育的なものになるかどうかという一点にあります。

学校では,短期的に確実な成果を上げるために,論理的な考え方や本当の理解を大切にした時間と手間のかかる学習を放棄し,記憶や訓練中心の学習塾のような学習を重視したりしないでしょうか。場合によったら,成果のマイナス要因になりそうな子どもを欠席させたり欠席したことにするなどの問題が起きたり,成績の改ざんが行われたりはしないでしょうか。過去の事実からすれば,これらは決して杞憂ではありません。もしこれらが起こったとすれば,教育上極めて不適切なことであり,それは導入の動機が善意であったとしても,結果として教育委員会が学校に強要したことになるのです。

問題はそれだけではありません。今回の措置でそもそもそう見なしているように,これまで成果が上がらなかった原因が校長と教員の意欲のなさにあった(真実がどうか私には分かりません)のであれば,その責をなぜ子どもたちに負わすのでしょうか。配分予算の格差の影響を受けるのは子どもたち自身に他なりません。またどの教科の成績を学力と考えるのか不明であるものの,基礎基本という名のもと限られた数教科の学力のみを測定して,その結果で児童生徒の教育を受ける権利に格差を設けるのは適切なことでしょうか。

このような拝金主義の競争の結果,大人社会が学校にさえ生み出す「勝ち組―負け組」「勝ち学校―負け学校」という眼差し,そして予算配分の多い少ないによってさらに拡大される不平等は,全て子どもたちに向けられ背負わされるものです。予算配分の格差が促す学校間競争は決して子どもたちを幸せにはしません。むしろ「いじめ」現象を助長することさえあるでしょう。結果が思わしくないのであれば,むしろ予算を向けるのは成果の上がらなかった学校であるべきです。
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GT-Rさんへ~10/31「北風と太陽」へのコメント感謝

2006年11月04日 | Weblog
10月31日に書いた「北風と太陽」にGT-Rさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。

GT-Rさんは,太陽タイプの教師になりたいとのこと,うれしい限りです。教職に対する熱意と誇りを持ってらっしゃるのだと拝察します。だからこそ,生徒の質問に答えていたときに説明に終始していたことを振り返っていらっしゃる。北風タイプになっていたと。私はその場にいたわけではないので,詳しい状況はわかりません。だからもしかしたら少しずれたことを書いてしまうかもしれませんが,その際はご容赦を。

一般論として言えば,説明に終始するということが北風タイプの指導であるとは限らない。また逆に,太陽タイプの指導では説明をしないということでもない,ですよね。

明らかに言えるのは,質問に答えるという教師の指導は,生徒の質問行動の対応として行われるということです。生徒が授業やその他のことについて聞きたいと願っているときに,その内容を丁寧にわかりやすく答えること,それは教師にとって必要な指導です。それを的確に出来なかったとすれば,むしろそのことの方が問題です。なぜなら,生徒がよりよい説明などの指導を「求めていた」からです。

私には,指導によって生徒が質問しに来てくれたということ自体が,太陽タイプを目指すGT-Rさんの指導の成果であるように思えます。たぶんGT-Rさんは,その説明の時にも生徒の知的好奇心をさらに刺激したい,しなければとの思いを持たれて,「北風タイプになっていた」と表現されたのでしょう。見習いたいと思いました。

志の高さは教師の力量を高める大きな原動力たり得ます。GT-Rさんのような教師が我が国の教育界を背負って立たれることを心から願っています。
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フィンランドがPISAで成功した背景

2006年11月03日 | Weblog
2004年にフィンランド教育省が発表した「フィンランドがPISA(OECDの実施した学習到達度国際調査)で成功した背景」には,次の11項目が挙げられています。

①家庭,性,経済状態,母語に関係なく,教育への機会が平等であること。
②どの地域でも教育へのアクセスが可能であること。
③性による分離を否定していること。
④全ての教育を無償にしていること。
⑤総合制で,選別をしない基礎教育。
⑥全体は中央で調整されるが実行は地域でなされるというように,教育行政が支援の立場に立ち,柔軟であること。
⑦全ての教育段階で互いに影響し合い協同する活動を行うこと。仲間意識という考え。
⑧生徒の学習と福祉に対し個人に合った支援をすること。
⑨テストと序列付けをなくし,発達の視点に立った生徒評価をすること。
⑩高い専門性をもち,自分の考えで行動する教師。
⑪社会構成主義的な学習概念(socio-constructivist learning conception)。
(翻訳:福田誠治『競争しなくても世界一―フィンランドの教育―』アドバンテージサーバー,2005年より)

1年前にフィンランドの教員養成事情を調査したときに,ユバスキュラ大でもヘルシンキ大でもヘルシンキ芸術工芸大でも,教員養成を担当する教授らが誇りに満ちた表情で最も強調したのは「平等」と「非選別」でした。今日はこの「平等」について書きます。

さて我が国では,子どもたちに平等が保障されているでしょうか。答えは誰の目にも明らか,Noです。子どもたちは,生まれたときから親の経済状態や住む地域によって,結果としての差別を受けているのです。

例えば,東京大学の学生の保護者の多くの世帯収入は年間1000万を超えるなどは有名な話です。また,苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)では,東大生の保護者の職業は医者,弁護士,大学教授などの専門職や,大企業・官公庁の管理職,中小企業の経営者などであると指摘されています。

最近必修教科未履修問題が起こった高等学校の所在地域の多くは,いわゆる「地方」でした。この問題の背景には,地方であるがために大きな予備校がなく,地元の高等学校しか生徒の受験学力を保障する場がないことがあったという意見もあります。つまり,子どもたちの進学保障のために必修教科の未履修という対応をせざるを得なかった(言い方を換えれば,都会の子どもが教育環境として優遇されている)というのです。事の善し悪しは別ですが,我が国の教育に地域による差別があることが大きな原因になっている可能性があります。

スタート地点が同じでないこんな競争を,我が国が子どもたちに強いているとしたら,こんな国に誇りが持てるでしょうか。本当に国を愛する心が芽生えるでしょうか。

我が国の教育から差別をなくし平等が保障されれば,子どもたちは自己実現と幸福を手に入れることができるでしょう。その結果,学習到達度も産業競争力も,フィンランドが手に入れたように間違いなく世界一になる,私はそんなふうに思っています(学力や産業競争力が一番になることが唯一絶対の価値っていうんじゃ,ないですよ)。
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