教育において「自分が変わること」の意味や重要性を,もっと我々(教員や大人)が自覚し,子どもたちや学生に伝え促す必要があるのではないか。
資本主義の世界に生きる日頃の生活において,我々が受ける快適なサービスは,「お金を支払う」対価として提供されることが少なくない。お金を出すからこそ,外で美味しい食事をとったり,しゃれた服を着たりすることができるわけだ。このようなことは,この社会の中でごく当然のこと自然なこととして行われている。そしてそのことで生活の多くの部分が成り立っている。
しかし,同様の論理を教育という営みの中にそのまま適用することは果たして適切なことだろうか。教育も社会サービスであり,サービスを提供するために我々教員は給料をもらっているし,学校には国民が払った税金から資本が投入されている。またサービスを享受する児童・生徒・学生たちは税金や授業料といった形で対価を支払っている。
これまで行われてきた教育において,サービスといった発想が充分でなかった点は否定できない。するつもりもない。これは我々が謙虚に反省すべき点である。しかし,だからといって,教育という営みの中に商業行為におけるサービスと同じ発想と手法をそのまま導入することはやはり違うと言わざるを得ない。
これを,変化や対応といった視点で考えてみよう。商業行為においては,客の満足を得るためにサービスを提供する企業側が細やかに変化や対応を行う。では教育行為ではだれが変化するのか,するべきなのか。両者それぞれに必要ではあるものの,その本質は,教育の主体である子どもたちや学生がより良い方向に変化することに他ならない。周りが自分に合わせてくれてその場が一時的に快適だということより,どこにでも通用する人材になれるようにするために,一時的に負担感があろうとも自分が変化することの方が優先されなければならないのだ。
高まるための変化の要求をしなければ,単にお茶を濁し,ごまかしているにしか過ぎない。サービスの提供者である教師や指導者が,子どもたちの姿を見極めようとするのではなく,顔色を伺おうとするならば,それは教育の崩壊を意味する。
教育という営みで提供すべき本当のサービスは,内発的な動機に支えられる学びを重視しつつ,時に厳しい変化の要求であってもそれを敢えて行うことにある。「オレ様化」が進む子どもたちや学生の世界に,教師は商業行為と同様のサービスで「アナタ様化」する迎合を行ってはならない。
cf:諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ171,2005年
資本主義の世界に生きる日頃の生活において,我々が受ける快適なサービスは,「お金を支払う」対価として提供されることが少なくない。お金を出すからこそ,外で美味しい食事をとったり,しゃれた服を着たりすることができるわけだ。このようなことは,この社会の中でごく当然のこと自然なこととして行われている。そしてそのことで生活の多くの部分が成り立っている。
しかし,同様の論理を教育という営みの中にそのまま適用することは果たして適切なことだろうか。教育も社会サービスであり,サービスを提供するために我々教員は給料をもらっているし,学校には国民が払った税金から資本が投入されている。またサービスを享受する児童・生徒・学生たちは税金や授業料といった形で対価を支払っている。
これまで行われてきた教育において,サービスといった発想が充分でなかった点は否定できない。するつもりもない。これは我々が謙虚に反省すべき点である。しかし,だからといって,教育という営みの中に商業行為におけるサービスと同じ発想と手法をそのまま導入することはやはり違うと言わざるを得ない。
これを,変化や対応といった視点で考えてみよう。商業行為においては,客の満足を得るためにサービスを提供する企業側が細やかに変化や対応を行う。では教育行為ではだれが変化するのか,するべきなのか。両者それぞれに必要ではあるものの,その本質は,教育の主体である子どもたちや学生がより良い方向に変化することに他ならない。周りが自分に合わせてくれてその場が一時的に快適だということより,どこにでも通用する人材になれるようにするために,一時的に負担感があろうとも自分が変化することの方が優先されなければならないのだ。
高まるための変化の要求をしなければ,単にお茶を濁し,ごまかしているにしか過ぎない。サービスの提供者である教師や指導者が,子どもたちの姿を見極めようとするのではなく,顔色を伺おうとするならば,それは教育の崩壊を意味する。
教育という営みで提供すべき本当のサービスは,内発的な動機に支えられる学びを重視しつつ,時に厳しい変化の要求であってもそれを敢えて行うことにある。「オレ様化」が進む子どもたちや学生の世界に,教師は商業行為と同様のサービスで「アナタ様化」する迎合を行ってはならない。
cf:諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ171,2005年