Hei!(「ヘイ」って読んで「やあ」って意味)~義務教育世界一の秘密

義務教育世界一の国の教師養成の実態を探る旅。フィンランドの魅力もリポート!その他,教育のこと気にとめた風景など徒然に。

北風と太陽

2006年10月31日 | Weblog
北風と太陽が,どちらが強いかを争っていました。そのとき,一人の旅人が歩いてきました。太陽は北風に言いました。「よし,勝負だ。あの旅人が着ている上着を脱がせた方が勝ちってことでどうだろう。じゃあ,まず君の番だ。」 

北風は旅人の上着を吹き飛ばそうと,得意のパワーで思い切り風を吹き付けました。ところが,北風が強く吹けば吹くほど,旅人は上着をしっかりと握って吹き飛ばされないようにしています。「はぁ,はぁ」最後には北風はへとへとになって,やむなく上着を吹き飛ばすのをあきらめてしまいました。

次は太陽の番です。太陽は旅人の上にポカポカとした陽気を浴びせかけました。すると旅人は温かさを通り越してしまいには暑くなってしまい,ついには自分から上着を脱いでしまったとさ。
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ある場所で北風と太陽の話をする機会がありました。イソップ物語ですね。この寓話は,人間の教育を理解するうえで最も基本的なことを私たちに教えてくれます。

久しぶりにフィンランドに関連づけて話すと,彼の地で子どもたちは「自ら学ぶ」といいます。なぜでしょう。それは,フィンランドでは「社会構成主義的な学習概念」を重視しているからだと言われています。つまり,ただ単に「必要な知識だから憶えなさい」じゃあなくって,子どもにとって必要を感じる知識を必要を感じる関連の中から学んでいくわけなのです。自分の必要と関連付いて知識がイメージされているから,理解も深く長く記憶を保持できるわけです。そう言えば,試験前の丸暗記って,試験が終わったらすぐに忘れてしまうσ(^◇^;)ものでしたねぇ。

北風が旅人の上着を吹き飛ばそうとした行為は,学習においては形式的に憶えさせたり訓練したりすることに他なりません。力ずくの学習です。

一方,太陽が旅人の上着を脱がせたのは・・・そう,自分からそうしたくなったのです。これを「内発的動機付け」といいますが,フィンランドの場合はそこに社会構成主義的な学習が仕掛けられていて,自ら学びたくなるのですね。

あなたの授業は,北風タイプですか?それとも太陽タイプですか?
コメント (2)
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山本鼎『自由画教育』③ 愛を以て創造を処理する

2006年10月25日 | Weblog
もう一つだけ,山本の『自由画教育』から。

「自由画教育は,愛を以て創造を処理する教育だ。従来のやうに押し込む教育でなくて引き出す教育だ。」(15頁)

ロマンティックです。要はこのロマンティシズムをどう評価するかにかかってくるのでしょう。しかし,教育からロマンを除いたら「生産」にしかならない。だから私はこれがいいと思います。

10月20日に「芸術の指導って難しいのです。だから,教師としての専門性を高める学習が何より必要なのです。」と書きました。これは私の教育現場体験をふまえた偽らざる実感なのですが,「芸術は教えられるか」という問いがもたらす答えとある意味同意であるようにも感じます。

芸術は,それを体験することができるようにさまざまな仕掛けをすることはできるけれど,最終的に体験をするのは子どもたち自身によります。だから芸術そのものは教えることができない。教師が本当にできるのは,子どもがよりよく芸術体験できるように,環境を整備することしかありません。

こんなこというと,「芸術って教えられないの?図工や美術の時間,混色や重色など色のこと,二等辺三角形や逆三角形など構図のこと,それに何より鉛筆での明暗のつけ方とか,いろいろ教えているじゃないの?」なんて声も聞こえてきそうです。

確かに,図工や美術の授業でこのような内容を教えることはあります。しかし,よくよく考えると,これらは芸術を制作するときに用いる技能や知識であって,芸術そのものではない。だから,技法や知識を教えたとしても,芸術を教えたことにはなりません。

山本は芸術のこんな真理をふまえ,愛を以て創造を処理する教育,押し込む教育でなくて引き出す教育,これらに眼差しを向けたのではないでしょうか。こんな教育の姿は,今日の厳しい教育事情において現実離れしていると思いますか?それとも,だからこそ求められていると思いますか?
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山本鼎『自由画教育』② 普通教育における美術教育

2006年10月24日 | Weblog
山本鼎は,同著の中で次のようにも書いています。

「美術教育と美術家教育を混同してはいけない」(6頁)

美術教育と美術家教育は違うというのです。美術教育とは美術を使って人間を育てること,美術家教育とは美術家=アーティストを養成することを指しているでしょう。こう言われれば確かに違う。しかし,我々はこれらのイメージを混同し重ねていることはないでしょうか。

例えば,図工や美術の成績をもらうとき,「別にアーティストになる訳じゃあないから,構わないよ。」なんて言葉,聞いたり言ったりしたことありませんか。こんな発言の背景には,美術教育が美術家教育だっていう考えがありそうです(成績・評価の是非についてここでは置いておきます)。言い方を変えれば,将来にゴールとなるべき職業像があって,それに近づけるのが「教育」だという見方です。もちろんこのよう側面があることは否定できない。しかし芸術は今普通教育に導入され,将来アーティストになろうとする子どもたちだけでなく,すべての子どもたちが授業を受けています。なぜでしょう。

これは,すべての子どもたちに芸術的な体験が必要不可欠なものであるからに他なりません。

人にとって,将来のために準備をする教育はもとより必要です。将来なりたい職業があるとすれば,さまざまな基礎学力を付けていくことによってその子どもの可能性が開いていくことは確かな事実なのです。

しかし,我々は社会の歯車になるためにのみ存在するわけではありません。教師だって,社会の歯車として効率的かつ正確に動く子どもたちを生産しているわけでもない。

子どもたちにとって,現在をよりよく生きたり,子どもとして人として現在を全うしたりすること「も」,必要不可欠なことなのです。現在行われている芸術の教育は,それを重視しています。子どもの今が,子どものリアルが,芸術の営みの中で命と重なることを可能にしているのです(残念ながらそうでない実践も少なからずあります・・・)。

今,教育の効率化という掛け声のもと,狭い意味での学力向上だけに目が向いてしまっています。この風潮は「将来アーティストになる子どもたちばかりではないのだから,いっそ芸術の授業を削減してしまおう」という動きにもつながっています。しかし,こんな時代だからこそ,すべての子どもたちの今を,芸術的体験によって充実させ,かけがえのないものに位置づける必要があるのです。大正時代に山本が語った言葉は,平成の今の時代も生きています。
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山本鼎『自由画教育』アルス,1921

2006年10月20日 | Weblog
大正自由画教育運動をリードした山本鼎は,自著『自由画教育』で次のように述べています。

「子供にはお手本を備へてやらなければ画は描けまい,と思ふのならば,大間違ひだ。吾々を囲んで居るこの豊富な『自然』はいつでも色と形と濃淡で彼れ等の眼の前に示されて居るではないか,それが子供らにとっても大人にとっても唯一のお手本なのだ。・・・教師の任務はただ生徒らを此自由な創造的活機にまで引き出す事だ。」(4-5頁)

この言葉には,子どもたちに対する有能感が満ちあふれています。明治に始まった近代公教育制度(学制)における図画教育は,最初「臨画」という形で行われました。書道で学習者に与えるお手本のことを「臨書」というように,図画では画を与えて画に臨む(=臨画)のですね。大人の描画したお手本を,子どもがその通りに描き写すことによって,同じような画が描けるようになることを目指したものです。

だからこの学習は当然,子どもの描画を大人の描画に近づける学習です。もっと言えば,大人の用意した訓練プログラムで,「できない」子どもを「できる」大人に徐々に変化させる学習です。子どもがどのように対象を見たり感じたりするかといったこと,つまり個性的な見方や感性などが重視されている学習とは言い難い。山本の言葉を借りて言うならば,子供にはお手本を備えてやらなければ,大人が思っているような「立派な」画が描けないと思っている訳です。当時,子どもに対する有能感が全くなかったとは言いません。しかし,有能感があったとしても,山本が語った有能感との間には大きな違いがあるでしょう。

1921年というと,これから1911を引いてみる・・・っと,そう,大正10年です。今から約85年前も前,大正という遙か昔に,このような子どもに対する眼差しがあったことを改めて思い起こす必要があるのではないでしょうか。そして,この山本が語ったと同じような構造が,現在の図画工作・美術教育にないかどうか,見つめてみる必要があるのではないでしょうか。

あ,念のために言っておきますが,私は山本の行った自由画教育運動を全面的に支持しているわけではありませんし,むしろ問題点が多いと思っています。だから,指導をしてはいけないって言っているわけではありません。指導はむしろすべきなのです。しかし,ここに示した考え方を生かすような,さりげなく「見える」指導があるのではないかと思うのです。いかがでしょうか・・・そんな難しいこと誰にできるんだ,くだらないこと言うなよっていう声が聞こえてきそうです。そう,芸術の指導って難しいのです。だから,教師としての専門性を高める学習が何より必要なのです。
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作品展~広島市立基町高等学校

2006年10月19日 | Weblog
広島市立基町高等学校創造表現コースの作品展があるそうです。

日時:2006.10.26(木)~10.31(火)1000-2000
場所:福屋広島駅前店6階マルチの広場

行ってみようっと。
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研究会・学会情報

2006年10月18日 | Weblog
近々開催予定の公開研究会や学会で把握しているものを挙げてみます。参考にしてください。

■10/22(日)「第1回 がんばれ!図工の時間フォーラム」
日 時:平成18年10月22日(日)午後1時〜4時
場 所:日本科学未来館(東京都江東区青海2-41)7階会議室3
アクセス:ゆりかもめ船の科学館駅徒歩5分
内 容:プレゼンテーション(午後1時〜)
    パネルディスカッション(午後1時半〜)
    ティーパーティー(3時〜)
※パネラー
藤幡正樹(東京芸術大学大学院教授)
原島 博(東京大学大学院教授)
佐藤雅彦(東京芸術大学大学院教授)
堤 康彦(NPO芸術家と子どもたち代表)
楚良 浄(東京都図工研究会副会長)

司会 上田信行(同志社女子大学教授)

10:30〜12:00教員・学生向きのワークショップが開催されます。

主催:がんばれ!図工の時間フォーラム実行委員会
問い合わせ先:「がんばれ!図工の時間フォーラム」事務局
〒113-0024 東京都文京区西片1-13-6-804
NPO学習環境デザイン工房内
Tel:03-5842-5377 Fax:03-5842-5392
URL: http://ganbarezukou.net

■11/1(水)-11/3(金) 第59回 全国造形教育研究大会 
長野大会ですね。既に参加申し込みが締め切られています。

■11/10(金) 広島大学附属中・高等学校教育研究大会
 http://www.fsc.hiroshima-u.ac.jp/conf/2006kenkyu-1.htm
 芸術科(美術)では次の通りです。

 ①公開授業(中1)「色の広がり,色の魅力」森長教諭
 中学生になって「図工」から「美術」へと教科名が変わり,より専門的な学習をおこなっていく過程では,アイデアや構成,形態と同様に色の選択や配色も重要な要素となります。そこで本授業では,色彩学習支援ソフトや電子情報ボードを使ってわかりやすい色彩学習を試みます。

 ②研究発表「美術教育におけるデジタルコンテンツの開発と活用のための工夫」森長教諭
 デジタルコンテンツとは,授業において理解を促すために見せる動画などをデジタル化した素材のことです。最近では,数多くの素材をサーバーに蓄積し,必要な素材のみをダウンロードして活用するということが可能になっています。
 本発表は,美術教育で必要とされるデジタルコンテンツの整理と開発に関する設計思想,並びに活用に関する調査研究の成果を発表する予定です。

■11/21(火)-22(水)第57回造形教育・図画工作・美術教育研究全国大会広島大会

 大会テーマ「とどけ ひろしまからのメッセージ―感じる心を輝かせる造形教育―」

■11/24(金)広島大学附属東雲小学校 第112回東雲教育研究会(附属東雲中学校同時開催)
 http://home.hiroshima-u.ac.jp/eleshino/112kai.html

 <公開授業>
 3年1組図工 40分「色々な線で,色々な色で」 川口教諭
 養護低図工 40分「どれをつくろうかな」 中田教諭
 6年1組図工 40分「心の写真館 ~東雲三十八景~」 天野教諭
 中3 選択美術 50分「アクティブ鑑賞!しゃべり場!! ~大学生の彫刻作品とその制作過程を通して~」三桝教諭

 <研究協議会>
 図画工作科(小中合同)
  子どもたちが主体的・能動的に取り組む鑑賞学習のあり方とその評価
 美術科(小中合同)
  3H美術教育をふまえた活きて働く学力の育成~鑑賞学習におけるポートフォリオ活用法~

■12/2(日)-3(月) 日本教科教育学会第32回全国大会(大阪大会)
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jcrda/

■12/15(金) 東京都図画工作研究会 北多摩大会
 http://www.interq.or.jp/tokyo/tozuken/
 ↑東京都図研のHPですが,トップページの一番下に北多摩大会の研究大会情報が掲載されています。
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とんだ災難で3ヶ月以上

2006年10月16日 | Weblog
七夕の日にアップしてから何と3ヶ月以上もご無沙汰してました。忙しくしていたというより,最初のの原因はパソコンの不具合。安全のため複数使うことにしているマシンが,ほぼ同時期に起動しなくなってしまったのです(T_T)。とんだ災難でした。その後は・・・お仕事の濁流に呑み込まれてました・・・。

その間も多くの方にご覧頂きました。更新しておらず,ごめんなさい。

前回アップの直後7/9には,unknownランエボさんとnaporinさんからコメントを頂きました。ありがとうございます。

unknownランエボさんからは,初めていただいたコメントでした。整理された内容を提示されて,勉強させられました。言葉による指導と,言葉によらない指導について,そのそれぞれの特性をふまえたご指摘です。皆さんも是非読んでみていただきたいと思います(7/9のブログ一番下の「コメント」欄の数字をクリックしてください)。

確かにそうですね。言葉以外に語るものは多い。というより,言葉が飾ることを知っているがために,言葉を信じない気持ちを心の片隅に持っているのが,傷ついてきた者の悲しさか。

ただ,老婆(爺?)心ながら補足すると,言葉のもつ力はレイ・L・バードウィステルの知見をふまえてもなお強大です。言葉は,ただ単に考えを伝える「メディア」としての働きだけでなく,考えるという行為そのものや,その集大成としての思想をさえ司る中心的なツールとしての顔を持つのです。むしろこれこそが言葉の本質かもしれない。昨今耳にすることの多い「言葉の教育」に対しての注目は,こういった事実をふまえたものと考えるべきでしょう。

ここで言いたいことは何かというと,我々が通常行っている発話では,実に無駄というか,必要以上の余分なことが語られており,教室で言葉に配慮するだけで,意外と伝えたいことがよく伝わるようになるということなのです。

無駄といっても,児童・生徒との関係を築くうえである意味効果的に働く無駄な言葉があります。学習からは少しあるいは全くかけ離れていても,人間関係を大きく進展させるプラス効果が期待できることがある。

一方,マイナス効果しかもたらさないといった無駄な言葉もあるでしょう。それは,伝えたいことを伝わらなくする,あるいは伝わりにくくする無駄です。伝えたいことのエッセンスに付け加わった「言葉の贅肉」によって,教師が本当に伝えたいことをぼやかしてしまったり,わからなくしてしまう。そしてそれが学習活動における子どもたちの「わからない」や「できない」につながってしまうのです。

おもしろいですよ,授業の様々な場面で語っている言葉をビデオかなんかで録ってみて,それを書き起こしてみたら。もちろん話し言葉と書き言葉といった使い方の違いはあります。しかしそれを差し引いて考えても,実に多くの無駄な言葉を口走っているものなのです,少なくとも私はね。そしてそれらを冷静に分析してみると,確かに聞き手の理解を阻んでいるように思われる言葉の使い方が数多く見つかるのです。

何をどのように語ればよいか。プロの教師として,これを適切に使えるようになりたいものです。意図的・効果的に無駄を入れ,無駄を省く。特に努力することなくこれらを自由自在に操れる言葉遣いの天才もいるでしょう。しかし私のような凡人には訓練が必要です。ハイ,だから今も訓練中です。今ざっと読み返してみると,今日書いた文章は,どうにも無駄が多いようです。私は一生涯かかりそうですので,楽しみながらやっていきます(^-^)。

長くなりすぎました。ということで,naporinさんへはまた後日
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