進藤 宏 先生が,昨夜お亡くなりになったそうです。残念です。念のためお知らせします。
通夜 ご自宅(東広島市志和町奥屋1113)
平成25年6月27日(木)18時~
葬儀 ひがしひろしま聖苑(東広島市八本松町宗吉56)
電話:082-428-6663
平成25年6月28日(金)11時~
通夜 ご自宅(東広島市志和町奥屋1113)
平成25年6月27日(木)18時~
葬儀 ひがしひろしま聖苑(東広島市八本松町宗吉56)
電話:082-428-6663
平成25年6月28日(金)11時~
本日1年生授業・教育実習入門での観察実習第二日。附属三原中学校にて松本裕子先生の授業を拝見。「平和・命・つながり」という鑑賞の授業。来週には外国のお客さまをエスコートする仕事が中学生にはあって,そのための学習でもあるとのこと。
あだしごと。今日は三原市も大雨だった(広島市には大雨警報発令)ので,移動中にスーツ用のズボンが柔道着のズボンのようになってしまった。衝撃的(;_;)。
あだしごと。今日は三原市も大雨だった(広島市には大雨警報発令)ので,移動中にスーツ用のズボンが柔道着のズボンのようになってしまった。衝撃的(;_;)。
友人が教えてくれた。今日6/24は五月雨忌。そう,歌手,村下孝蔵さんの命日。
[Wikipedia Link:村下孝蔵]
村下孝蔵 初恋
「『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し,村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲」なんだそうだ。このメロディの魅力はもちろんだが,それ以上に多くの人の心を打つのはやはり歌詞であり,この歌詞が織りなす世界だろう。繊細で臆病な青春時代の心が見事に表現されている。
今,こんな曲は流行ったりするのだろうか。若者の心に響いたりするのだろうか。この曲の中に現れる若者の様子にはあまりお目にかかれないようにも感じる。「あまり」と使ったのは,もちろんそうでない人に逢えることもあるからだが,時代が変わったのか,それとも私が気づけない歳になってしまったのか・・・。
そうだねぇ。今だったら,「放課後の校庭を走る君がいた。遠くで僕はいつでも君を探してた」なんて,「キモッ!」と避けられるか,「ストーカーじゃないの!」って詰られるか,どちらかしかないような気がしないでもない・・・。
1992年発売のシングル『ロマンスカー』は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し,完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語ったのだが,結局この渾身の作品は売れなかった。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤はその時,「時代が違ってきたんだ」と感じたという。この時期の村下が試行錯誤の末,「時代は追いかけるものではなく,巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至ったのは,一つの真実なのかもしれない。
さあ,今日は緑色の五月雨か,それともあんず色の夕映えか。
[Wikipedia Link:村下孝蔵]
村下孝蔵 初恋
「『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し,村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲」なんだそうだ。このメロディの魅力はもちろんだが,それ以上に多くの人の心を打つのはやはり歌詞であり,この歌詞が織りなす世界だろう。繊細で臆病な青春時代の心が見事に表現されている。
今,こんな曲は流行ったりするのだろうか。若者の心に響いたりするのだろうか。この曲の中に現れる若者の様子にはあまりお目にかかれないようにも感じる。「あまり」と使ったのは,もちろんそうでない人に逢えることもあるからだが,時代が変わったのか,それとも私が気づけない歳になってしまったのか・・・。
そうだねぇ。今だったら,「放課後の校庭を走る君がいた。遠くで僕はいつでも君を探してた」なんて,「キモッ!」と避けられるか,「ストーカーじゃないの!」って詰られるか,どちらかしかないような気がしないでもない・・・。
1992年発売のシングル『ロマンスカー』は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し,完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語ったのだが,結局この渾身の作品は売れなかった。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤はその時,「時代が違ってきたんだ」と感じたという。この時期の村下が試行錯誤の末,「時代は追いかけるものではなく,巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至ったのは,一つの真実なのかもしれない。
さあ,今日は緑色の五月雨か,それともあんず色の夕映えか。

バスを降りたら,ちいさなちいさなかたつむりに気がついた。かわいいねぇ。
ところで,「かたつむり」と「でんでん虫」の見分け方は知っているかな?
↓
↓
↓
え?違うの?って思っている人も多いだろうが,そう,違うのだ。
↓
↓
↓
見分けるのはとても簡単。「おーい」と声をかけてみるとよい。
すると,
かたつむりは,ウィンクしてくれる。。。そう,片目をつむって「片つむり」
でんでん虫は,うんともすんとも言わない。。。そう,「でんでん無視」
なーんだからね―。チャンチャン(^^;)。

教育実習入門は1年生の前期,つまり大学の教育学部生に成り立てのこの時期に行う教育実習だ。
二つの附属(今年は附属中・高等学校,附属三原中学校)で附属学校教官の授業を観察する。それは,これまでの授業が生徒としての立場,つまり授業を受ける立場であったものを,教師の立場,つまり授業を実施する立場で観察するということ。そう,生徒から教師への視点の転換を促す初めての教育実習なのだ。
1年生のこの時期に教師としての視点を少しでも獲得できれば,それはこれからの学びに大きく資する。何より態度面での効果は大きいだろう。
授業後の協議会では先生からの授業説明が行われたあと,観察をした1年生が一人ひとり質問をした。12名全員が質問をすることができたので,一つの目標は達成。はっきりとした声で適度に大きく発話することの大切さも指摘されていい学びになったと思う。受講者はこれからの課題にしてくれるだろう。期待している。
実に秀逸な文章を読んだ。次のURLにある。子どもに関わる全ての人に必見だ。
[日本経済新聞電子版:男子校の流儀 男の子は転ばなければ学べない]
↑↑↑
上記リンクからまずはオリジナルの文章を是非ともご覧あれ!
教育ジャーナリスト おおたとしまさ さんの文章,内容は題名通りで「男の子は転ばなければ学べない」という。育児や教育の世界にある「男の子問題」(初耳!)を採り上げ,男の子の育ちの特性に着目している。
面白いのは,「一般的な傾向として、コミュニケーション能力にたけている女の子は、大人がダメだというものにはダメな理由があることを理解する。しかし男の子にはそれができない。実際に痛い目に遭ってみないとダメな理由が理解できない。だから男の子はダメだと言われたことでもひとまずやってみる。失敗してから初めて学ぶ。男は失敗しなければ成長できない生き物なのである。」という指摘。
うぅん,わかる。実によくわかる。確かに,コミュニケーション能力にたけた女の子に生きやすいよう,世の中は動いているなぁ。で,現代の風潮ではここに指摘されるような男の子の,しでかす意味のない失敗は許されない。一般的にはそうだろう。「世知辛い」と言えばいいのか。それとも「寛容でない世界」が適当か。失敗を許さない「管理主導の社会」は,同時に思い切った試みが沈滞する社会でもある。
ところが,男子校の一部ではそんな男の子の特性を理解し,敢えて生かし,「手を離して抱きしめ」ているところがあるという。そして「徹底的にバカをして,失敗を経験し,実感をもって学ぶことを繰り返し,草食化しかけていた男の子は積極性や意欲を取り戻し,たくましい一人前の男性へと成長していく。」のだという。
育ち盛りの男の子ばかりを受け入れる男子校には確かにこういうところがあるんだよな。これまた,ストンと落ちる。男子校育ちのウチの長男と学校との関係はまさにこのとおりだった。
正直言って長男は「転ばなければ学べない」典型的なタイプで,傍から見れば大迷惑な「大バカ野郎」と言ってよいと思う。中・高校生時代は学校の風土が昔からバンカラだったこともあり,「徹底的にバカをして,失敗を経験し,実感をもって学ぶことを繰り返」す6年間だった。
誤解があるといけないが,これは何でも子どものあり方を認め受け入れ、何をやっても叱られない学校だったというのではない。むしろ,いっぱいバカなことをしながら,いっぱい叱られていた。それでもバカなことをし続けられたのは,先生方の叱り方に男の子の特性を踏まえた温かい眼差しを感じ,バカなことを面白いと見なす風土が学校にあったからだろうと思う。それは,先生方が失敗の質を辨別し,育ちにとって価値ある試みと,そうでないものを分けて指導してくれたからに違いない。ワタシはそう思っている。
学校は専門職としての先生が運営されるからこそ,これらの営みが可能なんだろう。しかし,この知見を先生の世界だけに通用することにしておくのはもったいない。だから,親の立場にある私たちにとって、あるいは将来教師になる者,なりたい者にとっても,「男の子は転ばなければ学べない」ことを頭の片隅に覚えておこう。男の子の育て方と男の子の育ちが少し変わってくるんじゃないか。
・・・とは言え,長男は大学生になった今でも大バカ野郎から脱却できていないばかりか,さらに輪をかけてバンカラで名を馳せる男子寮に入って青春を謳歌していて・・・失敗続きの姿に問題を感じないわけではない。そのたび毎に反省はしている模様だが・・・本当かな???当分親の悩みは尽きそうにない・・・子は親の鏡だから仕方ないか・・・。
※今回は引用文の趣旨をふまえ,男の子,女の子と,ジェンダーと特性を関連づけて感想を書いたが,もちろんここで言う男の子の中にもそうでない男の子がいるし,また同時に女の子がすべてコミュニケーション能力にたけているってわけでもない。例外がいつだってあることは当たり前なので,決めつけることなく子どもたちを見つめる柔軟性は必要だ。
---以下,本文---
「草食系男子」という言葉を聞くようになって久しい。
昨今の日本の若者に見られる「内向き傾向」も特に男の子に顕著である。2012年度に東京都が高校生を対象に企画した留学プログラム「次世代リーダー育成道場」の応募者には圧倒的に女子が多かった。
ベネッセ教育研究開発センターが2009年に行った「第2回子ども生活実態基本調査」によると、「高校生では、なりたい職業がある女子は6割近くだが、男子は4割余りにとどまる」「将来幸せになっていると思う割合は女子のほうが多い」など、男の子は女の子に比べて将来を悲観している割合が多いことが示されている。
男の子がおかしい。
実際、育児や教育の世界には「男の子問題」という言葉がある。「男の子が力を発揮できていない。男の子がのびのびと育つ環境や男の子への適切な関わり方がもっと理解される必要がある」という指摘だ。
背景には「男性不在による女性中心の育児・教育環境」や「他人に迷惑をかけることを過度に恐れる世知辛い世の中の風潮」があると考えられている。
■男の子が女性的価値観に染まってしまう理由
母親をはじめ、保育園や幼稚園など、子どもと直接関わる大人たちのほとんどが女性だ。核家族化や地域社会の希薄化のせいで、子どもの周りには男性が少ない。母親には夫以外の男性のサンプルが身近にいないし、男の子には父親以外のロールモデルがいない。父親も仕事に追われ子どもと触れ合う機会が少ない。男の子が早々に女性的価値観に染まってしまうのは仕方がないともいえる。
また、いくら幼い子どもであっても公共の場で騒ぐことは許されないムードが強まっている。保育園や幼稚園で友達に手を出してしまうと相手によっては大問題に発展することもある。トラブルを避けるため親は息子に、自己主張をせず、来るものを拒まない「いい子」であることを強く求めるようになるのだ。その結果、一見粗雑さに見える男の子らしさ、つまり意欲や好奇心や積極性は影を潜めてしまう。
草食系男子の誕生だ。
草食系男子が悪いわけではない。もともと草食系としての気質を持つ男の子もいるだろう。しかし本来は肉食系であるにもかかわらず、幼少期のうちに牙を抜かれてしまうのではたまらない。「男の子はつらいよ」ということになる。
このような状況で育った男の子たちの面倒をまとめて見ているところがある。男子校である。「最近の男の子は転んだ経験が少ない」と多くの男子中学校の教師が声をそろえる。「転んだ経験」とは失敗して痛い思いをして自らの力で立ち上がること。今はトラブルを避けようと親が先回りしすぎてしまうため、子どもが十分に転ぶ経験をしていないというのだ。これが特に男の子にとっては致命的なデメリットになりかねないと多くの教師たちが指摘する。
■男の子は失敗しなければ成長できない
一般的な傾向として、コミュニケーション能力にたけている女の子は、大人がダメだというものにはダメな理由があることを理解する。しかし男の子にはそれができない。実際に痛い目に遭ってみないとダメな理由が理解できない。だから男の子はダメだと言われたことでもひとまずやってみる。失敗してから初めて学ぶ。男は失敗しなければ成長できない生き物なのである。
だから男子校の教師たちは「男子校では男の子をたくさん転ばせる」と言うのだ。そのままやればきっと失敗するであろうということも、よほど取り返しのつかないことでない限りひとまずやらせてみる。「よほど取り返しのつかないこと」の線引きは特に思春期においては男女で異なる。男子だけの集団であるからこそ、「失敗マネジメント」がしやすい利点が男子校にはある。そして男の子が自らの力で立ち上がるのを励ましながら見守る。
教師たちだって手助けしてやりたい気持ちになる。しかしそこで手を貸してはいけない。しかればいいのかというとそうでもない。自ら学ぶべきときにはしかるのは甘やかすことになると、これらの学校の先生たちは口をそろえる。忍耐が必要なのだ。ある男子校の教師はその状況を「手を離して抱きしめる」と表現する。またある男子校の校長は「待つことこそが教育」と説く。それだけ時間もかかる。
■あえて「ぼったくり」にひっかかる
修学旅行でハワイに行くことになった某男子校での話。ハワイには観光客の肩にオウムを乗せて写真を撮り、高額な撮影料をせしめるという定番のぼったくり商売がある。それに「あえてひっかかってみたい」と一部の生徒たちが言い始めた。自分たちの英語力でその状況を切り抜けられるのではないか、試してみたいというのだ。彼らは実行した。結局まんまとぼったくられた。引率の教師は物陰から一部始終を見守った。現在の世の中の常識からすればかなりやんちゃな教育だろう。
この傾向はいわゆる名門校と呼ばれる上位校ほど顕著である。これが「面倒見が悪い」とか「放任主義」などと誤解されることがある。しかしある男子校の教師は「生徒に好きなようにやらせるということは、あらゆるトラブルを想定し、ハラハラドキドキしながら見守り、時には臨機応変なフォローが必要になるということ。教師が仕切ってしまえるならそのほうが教師としてはラクだ」と訴える。
徹底的にバカをして、失敗を経験し、実感をもって学ぶことを繰り返し、草食化しかけていた男の子は積極性や意欲を取り戻し、たくましい一人前の男性へと成長していく。
もちろん幼児期と思春期では子どもに対する親のあるべき態度は違う。また、手を離して抱きしめることやひたすら待つことは、彼らがプロの教師だからできること。普通の親がまねしようとしてもなかなかできないことは事実。
しかし「男の子は転ばなければ学べない」ことを頭の片隅に覚えておいて損はないだろう。
---本文ここまで---
[日本経済新聞電子版:男子校の流儀 男の子は転ばなければ学べない]
↑↑↑
上記リンクからまずはオリジナルの文章を是非ともご覧あれ!
教育ジャーナリスト おおたとしまさ さんの文章,内容は題名通りで「男の子は転ばなければ学べない」という。育児や教育の世界にある「男の子問題」(初耳!)を採り上げ,男の子の育ちの特性に着目している。
面白いのは,「一般的な傾向として、コミュニケーション能力にたけている女の子は、大人がダメだというものにはダメな理由があることを理解する。しかし男の子にはそれができない。実際に痛い目に遭ってみないとダメな理由が理解できない。だから男の子はダメだと言われたことでもひとまずやってみる。失敗してから初めて学ぶ。男は失敗しなければ成長できない生き物なのである。」という指摘。
うぅん,わかる。実によくわかる。確かに,コミュニケーション能力にたけた女の子に生きやすいよう,世の中は動いているなぁ。で,現代の風潮ではここに指摘されるような男の子の,しでかす意味のない失敗は許されない。一般的にはそうだろう。「世知辛い」と言えばいいのか。それとも「寛容でない世界」が適当か。失敗を許さない「管理主導の社会」は,同時に思い切った試みが沈滞する社会でもある。
ところが,男子校の一部ではそんな男の子の特性を理解し,敢えて生かし,「手を離して抱きしめ」ているところがあるという。そして「徹底的にバカをして,失敗を経験し,実感をもって学ぶことを繰り返し,草食化しかけていた男の子は積極性や意欲を取り戻し,たくましい一人前の男性へと成長していく。」のだという。
育ち盛りの男の子ばかりを受け入れる男子校には確かにこういうところがあるんだよな。これまた,ストンと落ちる。男子校育ちのウチの長男と学校との関係はまさにこのとおりだった。
正直言って長男は「転ばなければ学べない」典型的なタイプで,傍から見れば大迷惑な「大バカ野郎」と言ってよいと思う。中・高校生時代は学校の風土が昔からバンカラだったこともあり,「徹底的にバカをして,失敗を経験し,実感をもって学ぶことを繰り返」す6年間だった。
誤解があるといけないが,これは何でも子どものあり方を認め受け入れ、何をやっても叱られない学校だったというのではない。むしろ,いっぱいバカなことをしながら,いっぱい叱られていた。それでもバカなことをし続けられたのは,先生方の叱り方に男の子の特性を踏まえた温かい眼差しを感じ,バカなことを面白いと見なす風土が学校にあったからだろうと思う。それは,先生方が失敗の質を辨別し,育ちにとって価値ある試みと,そうでないものを分けて指導してくれたからに違いない。ワタシはそう思っている。
学校は専門職としての先生が運営されるからこそ,これらの営みが可能なんだろう。しかし,この知見を先生の世界だけに通用することにしておくのはもったいない。だから,親の立場にある私たちにとって、あるいは将来教師になる者,なりたい者にとっても,「男の子は転ばなければ学べない」ことを頭の片隅に覚えておこう。男の子の育て方と男の子の育ちが少し変わってくるんじゃないか。
・・・とは言え,長男は大学生になった今でも大バカ野郎から脱却できていないばかりか,さらに輪をかけてバンカラで名を馳せる男子寮に入って青春を謳歌していて・・・失敗続きの姿に問題を感じないわけではない。そのたび毎に反省はしている模様だが・・・本当かな???当分親の悩みは尽きそうにない・・・子は親の鏡だから仕方ないか・・・。
※今回は引用文の趣旨をふまえ,男の子,女の子と,ジェンダーと特性を関連づけて感想を書いたが,もちろんここで言う男の子の中にもそうでない男の子がいるし,また同時に女の子がすべてコミュニケーション能力にたけているってわけでもない。例外がいつだってあることは当たり前なので,決めつけることなく子どもたちを見つめる柔軟性は必要だ。
---以下,本文---
「草食系男子」という言葉を聞くようになって久しい。
昨今の日本の若者に見られる「内向き傾向」も特に男の子に顕著である。2012年度に東京都が高校生を対象に企画した留学プログラム「次世代リーダー育成道場」の応募者には圧倒的に女子が多かった。
ベネッセ教育研究開発センターが2009年に行った「第2回子ども生活実態基本調査」によると、「高校生では、なりたい職業がある女子は6割近くだが、男子は4割余りにとどまる」「将来幸せになっていると思う割合は女子のほうが多い」など、男の子は女の子に比べて将来を悲観している割合が多いことが示されている。
男の子がおかしい。
実際、育児や教育の世界には「男の子問題」という言葉がある。「男の子が力を発揮できていない。男の子がのびのびと育つ環境や男の子への適切な関わり方がもっと理解される必要がある」という指摘だ。
背景には「男性不在による女性中心の育児・教育環境」や「他人に迷惑をかけることを過度に恐れる世知辛い世の中の風潮」があると考えられている。
■男の子が女性的価値観に染まってしまう理由
母親をはじめ、保育園や幼稚園など、子どもと直接関わる大人たちのほとんどが女性だ。核家族化や地域社会の希薄化のせいで、子どもの周りには男性が少ない。母親には夫以外の男性のサンプルが身近にいないし、男の子には父親以外のロールモデルがいない。父親も仕事に追われ子どもと触れ合う機会が少ない。男の子が早々に女性的価値観に染まってしまうのは仕方がないともいえる。
また、いくら幼い子どもであっても公共の場で騒ぐことは許されないムードが強まっている。保育園や幼稚園で友達に手を出してしまうと相手によっては大問題に発展することもある。トラブルを避けるため親は息子に、自己主張をせず、来るものを拒まない「いい子」であることを強く求めるようになるのだ。その結果、一見粗雑さに見える男の子らしさ、つまり意欲や好奇心や積極性は影を潜めてしまう。
草食系男子の誕生だ。
草食系男子が悪いわけではない。もともと草食系としての気質を持つ男の子もいるだろう。しかし本来は肉食系であるにもかかわらず、幼少期のうちに牙を抜かれてしまうのではたまらない。「男の子はつらいよ」ということになる。
このような状況で育った男の子たちの面倒をまとめて見ているところがある。男子校である。「最近の男の子は転んだ経験が少ない」と多くの男子中学校の教師が声をそろえる。「転んだ経験」とは失敗して痛い思いをして自らの力で立ち上がること。今はトラブルを避けようと親が先回りしすぎてしまうため、子どもが十分に転ぶ経験をしていないというのだ。これが特に男の子にとっては致命的なデメリットになりかねないと多くの教師たちが指摘する。
■男の子は失敗しなければ成長できない
一般的な傾向として、コミュニケーション能力にたけている女の子は、大人がダメだというものにはダメな理由があることを理解する。しかし男の子にはそれができない。実際に痛い目に遭ってみないとダメな理由が理解できない。だから男の子はダメだと言われたことでもひとまずやってみる。失敗してから初めて学ぶ。男は失敗しなければ成長できない生き物なのである。
だから男子校の教師たちは「男子校では男の子をたくさん転ばせる」と言うのだ。そのままやればきっと失敗するであろうということも、よほど取り返しのつかないことでない限りひとまずやらせてみる。「よほど取り返しのつかないこと」の線引きは特に思春期においては男女で異なる。男子だけの集団であるからこそ、「失敗マネジメント」がしやすい利点が男子校にはある。そして男の子が自らの力で立ち上がるのを励ましながら見守る。
教師たちだって手助けしてやりたい気持ちになる。しかしそこで手を貸してはいけない。しかればいいのかというとそうでもない。自ら学ぶべきときにはしかるのは甘やかすことになると、これらの学校の先生たちは口をそろえる。忍耐が必要なのだ。ある男子校の教師はその状況を「手を離して抱きしめる」と表現する。またある男子校の校長は「待つことこそが教育」と説く。それだけ時間もかかる。
■あえて「ぼったくり」にひっかかる
修学旅行でハワイに行くことになった某男子校での話。ハワイには観光客の肩にオウムを乗せて写真を撮り、高額な撮影料をせしめるという定番のぼったくり商売がある。それに「あえてひっかかってみたい」と一部の生徒たちが言い始めた。自分たちの英語力でその状況を切り抜けられるのではないか、試してみたいというのだ。彼らは実行した。結局まんまとぼったくられた。引率の教師は物陰から一部始終を見守った。現在の世の中の常識からすればかなりやんちゃな教育だろう。
この傾向はいわゆる名門校と呼ばれる上位校ほど顕著である。これが「面倒見が悪い」とか「放任主義」などと誤解されることがある。しかしある男子校の教師は「生徒に好きなようにやらせるということは、あらゆるトラブルを想定し、ハラハラドキドキしながら見守り、時には臨機応変なフォローが必要になるということ。教師が仕切ってしまえるならそのほうが教師としてはラクだ」と訴える。
徹底的にバカをして、失敗を経験し、実感をもって学ぶことを繰り返し、草食化しかけていた男の子は積極性や意欲を取り戻し、たくましい一人前の男性へと成長していく。
もちろん幼児期と思春期では子どもに対する親のあるべき態度は違う。また、手を離して抱きしめることやひたすら待つことは、彼らがプロの教師だからできること。普通の親がまねしようとしてもなかなかできないことは事実。
しかし「男の子は転ばなければ学べない」ことを頭の片隅に覚えておいて損はないだろう。
---本文ここまで---
昨日の授業では,授業のプランニングをするための教材研究を行った。受講者全員の相談の上,授業は音楽から思いついたイメージを絵画表現するものを選択した。
もちろんこれらは教材研究として行っている。だから単なるアート活動ではない。このアート活動が人を育てるどのような価値と効果を持っているか,人を育てるためにはどんな点を強調して出会わせればよいか,逆にどんな情報を隠して出会わせるのが効果的か,あるいは,生徒はどんな点に躓きやすいか,それを解決するために何をすればよいのか・・・などなど,指導のための材料としての教育的特性を把握する様々なトライアルと検討が行われた。







広大生,なかなかやるよ。教員としての適性と誠意と,そして何より謙虚さを持ってて,全員お薦めですぞ。
もちろんこれらは教材研究として行っている。だから単なるアート活動ではない。このアート活動が人を育てるどのような価値と効果を持っているか,人を育てるためにはどんな点を強調して出会わせればよいか,逆にどんな情報を隠して出会わせるのが効果的か,あるいは,生徒はどんな点に躓きやすいか,それを解決するために何をすればよいのか・・・などなど,指導のための材料としての教育的特性を把握する様々なトライアルと検討が行われた。







広大生,なかなかやるよ。教員としての適性と誠意と,そして何より謙虚さを持ってて,全員お薦めですぞ。
ある日頂いたお弁当はこれ。結構ステキな包装でしょ。

二つの折があるんだけれど,今日話題にしたいのは,左側の方。そう,この折の方のパッケージデザインなんだ。これだけでもなかなか素敵だ。シールに書かれているように,実はこの中にご飯が入っている。

これがほら,左側の方の折を開けてみると,こんなふうになるんだね。まるで机の上に花が咲いたよう。ご飯が花弁の形になっているね。パッケージ内側の桃色を花弁と見ればご飯は柱頭か花柱か何だろうけれど,ご飯はやっぱり花弁で,その花開いた華やかさをパッケージ内面の柔らかな鮮やかさで表現しているのかな。

でも実は,ここまでの写真では,このお弁当のパッケージデザインの本質は見えてこない。というのは,ダイナミックな変化が目の前で繰り広げられて初めて,このパッケージデザインを設計した人の意図が伝わると思うからだ・・・ということで,N先生に協力してもらって,そのダイナミックな変化を動画にしてみた。
弁当のパッケージデザイン
お弁当の折を開くとそれが花開く構造になっていることに驚いたっていうのはもちろんそうなんだけれど,何よりそれを実現するために,実は綿密に構造設計がされているところが注目だ。
動画の動きを見てもらったらわかったと思うが,閉じられた時、折の中心は折の中側に向かってくぼんで,何と紙の組合せと弾性で固く閉じられている。折を開けようとすると,折の円周辺がたわんで広がってはじめて開くわけ。この折、通常はゴムを使って留めるなどしなくっても折が開かないように巧くこの紙の弾性を利用して折をロック!しているのだ。
少し力を入れながら開こうとすると,折円周が遠心的に広がり,初めてロックが解除される。そしてその瞬間,鮮やかな花の色が目に飛び込んでくるという仕掛けなんだ。
だからデザイナーは,ロックがかかる程度でなおかつ紙が破れない程度の微妙な円周や切れこみの大きさ,そして紙の強度を総合的に計算してこのデザインを最終決定している。デザイナーとは,エンターテイナーであり,また技術者でもある。とにかくすごい。驚いた。
こんな仕掛けを考える我が国のデザイナーの文化を,子どもたちに理解させることも,私たち大人の仕事なんじゃないかな。もちろん,このパッケージデザインは簡単ではない,っていうか相当高度なので,教材としてはそのまま使うことはできないが,驚きの仕掛けが隠されているデザインの世界の一端を知ることは,子どもたちにとって大きな動機付けになるに違いない。

二つの折があるんだけれど,今日話題にしたいのは,左側の方。そう,この折の方のパッケージデザインなんだ。これだけでもなかなか素敵だ。シールに書かれているように,実はこの中にご飯が入っている。

これがほら,左側の方の折を開けてみると,こんなふうになるんだね。まるで机の上に花が咲いたよう。ご飯が花弁の形になっているね。パッケージ内側の桃色を花弁と見ればご飯は柱頭か花柱か何だろうけれど,ご飯はやっぱり花弁で,その花開いた華やかさをパッケージ内面の柔らかな鮮やかさで表現しているのかな。

でも実は,ここまでの写真では,このお弁当のパッケージデザインの本質は見えてこない。というのは,ダイナミックな変化が目の前で繰り広げられて初めて,このパッケージデザインを設計した人の意図が伝わると思うからだ・・・ということで,N先生に協力してもらって,そのダイナミックな変化を動画にしてみた。
弁当のパッケージデザイン
お弁当の折を開くとそれが花開く構造になっていることに驚いたっていうのはもちろんそうなんだけれど,何よりそれを実現するために,実は綿密に構造設計がされているところが注目だ。
動画の動きを見てもらったらわかったと思うが,閉じられた時、折の中心は折の中側に向かってくぼんで,何と紙の組合せと弾性で固く閉じられている。折を開けようとすると,折の円周辺がたわんで広がってはじめて開くわけ。この折、通常はゴムを使って留めるなどしなくっても折が開かないように巧くこの紙の弾性を利用して折をロック!しているのだ。
少し力を入れながら開こうとすると,折円周が遠心的に広がり,初めてロックが解除される。そしてその瞬間,鮮やかな花の色が目に飛び込んでくるという仕掛けなんだ。
だからデザイナーは,ロックがかかる程度でなおかつ紙が破れない程度の微妙な円周や切れこみの大きさ,そして紙の強度を総合的に計算してこのデザインを最終決定している。デザイナーとは,エンターテイナーであり,また技術者でもある。とにかくすごい。驚いた。
こんな仕掛けを考える我が国のデザイナーの文化を,子どもたちに理解させることも,私たち大人の仕事なんじゃないかな。もちろん,このパッケージデザインは簡単ではない,っていうか相当高度なので,教材としてはそのまま使うことはできないが,驚きの仕掛けが隠されているデザインの世界の一端を知ることは,子どもたちにとって大きな動機付けになるに違いない。