2011年の演奏会通いも残り「第9」のみとなった。ジルベスターコンサート とか、「くるみ割り人形」を聴きに出掛けた時期もあるのだが、私高本には「年末は第9」である。年とともに「悪い演奏を聴いた時に体に悪影響出る」が頻出して来るようになったので、年を追う毎に厳選に厳選を重ねるようになった。今年は
ことにした。リンク貼っておいたので興味ある方は「読響コンサート情報」覗いて下さい。公演数が6回(+ 読売新聞チャリティ「第9」がもう1回あるが、主催でないからか、全席売切になって説明が面倒くさいからか、HPに記載無し)と在京オケ自主公演最多の上、「全席売切公演」がサントリーホールと横浜みなとみらいホールで続出。チケット争奪戦に出遅れたので、東京オペラシティ公演になってしまった(涙
「第9」批評は書くかも知れないし、書かないかも知れない。ご要望があればコメント欄にどうぞ。今日のサントリーホール公演はチケット入手出来なかったので、家で「シューベルトの合唱曲集」を酒呑みながら聴いて過ごす(爆
厳密に言えば、これからここに書く文章は「批評」と言えない。「日本ドイツリート協会 関東支部公演」を聴いた後に、打ち上げで 内藤稚子 に(普通の感覚で言えば)密着インタビューした内容が半分以上含まれるからだ。「批評」は演奏家との距離が近過ぎては成り立たない。遠すぎて「共鳴できるもの」が何も無ければ「高評」は生まれない。良心ある評論家は誰もが悩むジレンマである。これから書く文章は「基本は批評」であるが、心情的に「内藤稚子寄り」になっていることを初めに述べる。(岡原慎也寄りでは無いぞ~!)
まずは客観的に述べる。
お2人の公式HPである
・・・で、12/11(日)に聴いた曲は「日本ドイツリート協会」がテーマに掲げた「マーラー」で埋め尽くされていた。以下の通り。
聴いた直後の感想として「マーラー歌曲慣れしているソプラノじゃん!!!」と言う感じ。低い音域でじらしながら、高い音域で ズバッ! と斬り込む。「武士の女子版」ってな演奏。素晴らしかった。(細かなことまで、ごちゃごちゃ文句垂れる)作曲家 = マーラー が聴いても「ブラヴォー」の演奏だった、と思う。こんなソプラノが東京に居たのかよ!!!
私高本は絶対音感が無いから断言はできないが、高声用と中声用が出廻っている楽譜の内、全5曲「高声用」で歌われた、ように聴こえた。「原調」と書かない理由は、「リュッケルト歌曲集」は「高声用」「中声用」同時出版だったからだ。どちらが原調かは私高本の猫頭ではわからん(泣
シューベルトでも要求されるのだが、声楽家の「声の負担」がより大きい。特に「下」である。
だろう。バーンスタイン指揮の2回、ピアノの1回も「ベイカー + バルビローリ」には人気は叶わない。テンシュテットの録音は今のところ発売されたことがない。バーンスタインは、バリトンと2回、メゾソプラノと1回録音している。ご覧の通り「中声」ばかりなのである。ちなみに
である。つまり「下の支えがしっかりしていないと聴けない」を意味している。
これには驚き! その上で上がきらきらと輝きを保ちながら伸びやかに響く。
ことは特筆モノ。1曲バーンスタインがピアノ伴奏では録音を残していない曲(「美しさゆえに愛するなら」)も含めてである。
終演後に、「プログラムに織り込まれていた 内藤稚子 のチラシ」を読んだ。マーラー は1曲も無かった。帰宅してインターネット検索して 過去のコンサートチラシ を見付けた。これまた マーラー は1曲も無かった。このまま「演奏家人生」を歩んで 内藤稚子 は納得できるのだろうか?
下野竜也指揮 読響 + 新国立劇場合唱団 だけ2公演聴く
ことにした。リンク貼っておいたので興味ある方は「読響コンサート情報」覗いて下さい。公演数が6回(+ 読売新聞チャリティ「第9」がもう1回あるが、主催でないからか、全席売切になって説明が面倒くさいからか、HPに記載無し)と在京オケ自主公演最多の上、「全席売切公演」がサントリーホールと横浜みなとみらいホールで続出。チケット争奪戦に出遅れたので、東京オペラシティ公演になってしまった(涙
「第9」批評は書くかも知れないし、書かないかも知れない。ご要望があればコメント欄にどうぞ。今日のサントリーホール公演はチケット入手出来なかったので、家で「シューベルトの合唱曲集」を酒呑みながら聴いて過ごす(爆
岡原慎也ピアノ伴奏にて「全ての自由を獲得した」内藤稚子
厳密に言えば、これからここに書く文章は「批評」と言えない。「日本ドイツリート協会 関東支部公演」を聴いた後に、打ち上げで 内藤稚子 に(普通の感覚で言えば)密着インタビューした内容が半分以上含まれるからだ。「批評」は演奏家との距離が近過ぎては成り立たない。遠すぎて「共鳴できるもの」が何も無ければ「高評」は生まれない。良心ある評論家は誰もが悩むジレンマである。これから書く文章は「基本は批評」であるが、心情的に「内藤稚子寄り」になっていることを初めに述べる。(岡原慎也寄りでは無いぞ~!)
まずは客観的に述べる。
岡原慎也HP
内藤稚子HP
お2人の公式HPである
・・・で、12/11(日)に聴いた曲は「日本ドイツリート協会」がテーマに掲げた「マーラー」で埋め尽くされていた。以下の通り。
「私はほのかな香りを吸い込んだ」 ~ 「リュッケルト歌曲集」より
「夏に交代」 ~ 「若き日の歌」より
「ラインの伝説」 ~ 「不思議な子供の不思議な角笛から」より
「美しさゆえに愛するなら」 ~ 「リュッケルト歌曲集」より
「記憶」 ~ 「若き日の歌」より
聴いた直後の感想として「マーラー歌曲慣れしているソプラノじゃん!!!」と言う感じ。低い音域でじらしながら、高い音域で ズバッ! と斬り込む。「武士の女子版」ってな演奏。素晴らしかった。(細かなことまで、ごちゃごちゃ文句垂れる)作曲家 = マーラー が聴いても「ブラヴォー」の演奏だった、と思う。こんなソプラノが東京に居たのかよ!!!
私高本は絶対音感が無いから断言はできないが、高声用と中声用が出廻っている楽譜の内、全5曲「高声用」で歌われた、ように聴こえた。「原調」と書かない理由は、「リュッケルト歌曲集」は「高声用」「中声用」同時出版だったからだ。どちらが原調かは私高本の猫頭ではわからん(泣
マーラー歌曲の難しさの1つが「上も下も要求される」
シューベルトでも要求されるのだが、声楽家の「声の負担」がより大きい。特に「下」である。
これまでのマーラー「リュッケルト歌曲集」で最も評価が高いのは ベイカー(Ms) + バルビローリ指揮盤
だろう。バーンスタイン指揮の2回、ピアノの1回も「ベイカー + バルビローリ」には人気は叶わない。テンシュテットの録音は今のところ発売されたことがない。バーンスタインは、バリトンと2回、メゾソプラノと1回録音している。ご覧の通り「中声」ばかりなのである。ちなみに
EMI「マーラー大全集」の最終Disc16 に「私はこの世に忘れられて」が8演奏収録されているが(Disc8と併せ)全部「中声」、これが大EMIの録音の全て!
である。つまり「下の支えがしっかりしていないと聴けない」を意味している。
内藤稚子 は「ベイカー並み」に下の支えががっしりしている!
これには驚き! その上で上がきらきらと輝きを保ちながら伸びやかに響く。
岡原慎也 のピアノが『バーンスタイン並み』に自在にサポートしていた
ことは特筆モノ。1曲バーンスタインがピアノ伴奏では録音を残していない曲(「美しさゆえに愛するなら」)も含めてである。
終演後に、「プログラムに織り込まれていた 内藤稚子 のチラシ」を読んだ。マーラー は1曲も無かった。帰宅してインターネット検索して 過去のコンサートチラシ を見付けた。これまた マーラー は1曲も無かった。このまま「演奏家人生」を歩んで 内藤稚子 は納得できるのだろうか?