ぽかぽかと行きましょう

急がず、後れず。自分の歩幅でぽかぽか行くようなブログです。

カテゴリ 「一字の母」 余聞

2007年02月24日 | 不思議ニッポン

 カテゴリ「一字の母」は自分のオリジナルと思って、一人で悦に入っていたら、「そんなん、オリジナルでも何でもあらへんわ。たくさんある「じ」の字から、入れていけば何ぼでも出来るやん。」

「一時の母(一時に何かしてる母)」「一事の母」、少し変えれば「陸自の母(陸上自衛隊の隊員のおかっさん)」「海自の母」「甲斐路の母(山梨のお母さん)」

「あんた暇やねエー、そんなん考えてる暇あったらもっとましな事やんなさいよ」、「世の中、お母さん大変なんだから、家事、育児に妻として嫁として もう休まる暇も無い中で、ブログはきちんと更新したはるんやで」、「全国のお母さんを敵にまわしたら、エライことになるで」。

「ちゃうて、そんなんや ないんや」  「ほな、話題変えよか」。

出生率の問題や。人間の赤ちゃん何で分数や小数点付けて呼ぶ?

2.3%とか、2ポイント上がったとか。0.3人て半端な赤ちゃん誰が産む? それこそ全国のお母さんに怒られるわ。小数点以下切捨てなんてことになったら、どないんするねん。

小数点以下の分は、家にいるときは何もしない「おとーさん」が大人子供としてはいってるンか。

機械的に率で計算するから、工業生産物扱いになるンや。

例えば、赤ちゃん一人産んだお母さんが、何千万人、二人産んだ人が、何百万人、三人産んだ人は何百万人で、よう分かるン、ちゃいますか。

安倍内閣の大臣の数は、少子化対策担当相いれて、18.3人。ウン違った?  端数切り捨てた方がよろしい。切っても切っても、端数出るって。 しゃあァーないなあー。


勝手にカテゴリの巻

2007年02月24日 | ブログ

勝手にカテゴリ。

自分のブログは、自分の管理下にあるので、公序良俗に反しない限り、カテゴリも勝手にできる。賛否を問う事もなく独裁者だ。

今までも勝手に、作ったカテゴリも幾つかある。

「健康法師」吉田兼好をもじったものだ。

「一行法師」記事を一行で済まそうと、一寸法師と西行法師とを足して二で割ったふとどきなカテゴリ。

ところが、一行で済ますはずが、どうたら こうたらと長くなって、何十行にもなる事さえある。看板に偽り有りだ。

実際一行に話を凝縮するためには、かなりの時間をかけて考えなければならずかえって手間がかかる。長考一行だ。

そこでこのたび「一字の母」なるカテゴリをいれ、一字だけの投稿をやってみようと、またまた とんでもないことを考えた。

漢字一文字は、非常に深い意味が潜んでいるので、読む人にとっては、人それぞれの思いで解釈し感じ取ってもらえるので、それでいい。

禅語の世界のようでもあるが、禅語にも無いものも出てきていろいろな広がりが面白いと思う。コメントで自分はこの漢字にこういう思い出があるとか、何かと感想をお寄せいただければ幸いである。

「一児の母」をもじったものとお分かりでしょうが、「一字の母」も、偉大な母の一言に触発されて今の自分があると、思っておられる方も中には居られるやも知れない。

そんなわけで、こんどの新カテゴリは、「一字の母」。


妙に落ち着く、薄汚れたお蕎麦屋さん

2007年02月22日 | まち歩き

今月初めのこと、とあるお寺の参道にそった門前の蕎麦屋さんに入った。他にも小奇麗な食堂も、1、2軒はあったのだが、何故かその店に入った。昼時を少しまわっていたので、空腹感もあり とりあえずの気持ちで、ガラガラとガラス戸をあけた。ちょうど食べ終わった帰りがけの客の中年女性が出るところで、今なら引き返して他の店ヘ行く事もと一瞬考えたが、そのまま手近なテーブルの椅子にかけた。

開店以来、手をかけて無さそうな たたずまいは、どこに目をやっても薄汚れて見える。白髪交じりの中老の主人がカウンターの中にいて、奥さんらしきひとが、今出て行った客の盆と食器を下げて、カウンター脇の階段の三段目に置いた。

コンクリートの土間に、テーブルが二つに、それぞれに椅子が四脚。あと壁にそって細長い座席に、薄い座布団が四、五枚並んでいる。席がいっぱいになったり、行列のできる心配など無縁でこれで充分な広さ、夫婦二人でその日その日の店商い。この先も改装してまで、客を入れる事を考える余裕はなさそう。

開店時の、千客万来の額は贈り主の人たちの連名で、浮き文字がすすけてみえる。その下の棚にアルミの灰皿が十枚ほど重ねてある。

聞かれて親子丼を、注文する。ややあって、盆にのった親子丼と、小皿のたくあんと青菜の漬物、お茶がテーブルに運ばれた。白い小皿は、周りが かけかけで一方の端がぎざぎざしている。

ところが、割り箸で口に運んだ丼の中身は、予想外の美味。

ん~ま。 蕎麦屋さんだけあって、だしがいいのか。

お茶を、注ぎ足してくれた急須が、これもアルミで蓋や周りが黄色くなっている。洗ってはいるのだろうが、永年の汚れが落ちないのであろう。ともかく、どれもが薄汚れたと言う印象はぬぐえない。しかし不潔とか、不衛生と言うのでも無さそうなのでおいしく頂けた。

よく民家を移築して、柱など磨き上げて、煤竹や杉戸の古びた時代を感じさせる建具で、ものを食べさせるお店があるが、そういった所の、対極にある このお蕎麦屋さんは、永年の汚れがこびりついた安普請が、妙に私を落ち着かしてくれた。

お店の人に言葉を交わすこともなく、小半時 丼を味わってゆっくりとして表に出た。

二月ながら、今年は暖かく なんだか癒された気持ちのまま、寺とは反対の方向に所用を済ますために歩んだ。


ブログ初公開 吉天爺の仕事。

2007年02月21日 | 一行法師

昨日、「納戸色」の稿で、悉皆屋(しっかいや)についてふれたので、吉天爺の仕事について明かそう。

ここにその昔、ウインドウズ95の一太郎で書いたチラシがござるよって、再録して公開しよう。

そんなに遠くない20世紀、老舗(しにせ)の番頭さんや悉皆屋(しっかいや)さんの おじいちゃんが回ってきて、きもの好きのおばあちゃんは何かと便利なようでした。

お年を召したり、亡くなられたりで、もう来なくなりました。

21世紀になって代わってやってきた新しいおじいちゃんは、「きもの総合プロデューサー」とか、「きものデザインコーディネイター」とか、なんだか無理に今風ぽい呼び方をしています。

でも名前は変わっても、町の染物屋さんや洗い張り京染めの店とか、悉皆屋さんに先祖帰りした新しい「きものサービス業」のようです。

悉皆屋の「悉皆」とは「ことごとくみんな」という意味で「総合」ともいえなくも無いのね。

「ねえー そうでしょ。おじいちゃん!」

「きもの売る呉服屋さんと言うより、きもののこと何でも めんどう見ましょうと言うサービス業なんじゃよ」

「つまり、しっかいやさんって、おせっかいや。 じゃなくて、きものサービスのコンビニってことね。しっかりやってよ。おじいちゃん!」

「?」

「きものご相談処」の旗上げて9年を迎えます。ご贔屓に願いあげます。


公式ブログってなに?

2007年02月21日 | ブログ

よく誰それの公式ブログとか、公式ホームページとか、いいよるが、公式って何?

爺のブログは何かい、非公式ブログとでもいうのかい。

どこがどう違うのか、聞きてエーもんだ。

OCNブログ人さん。おせーておくれ。

じゃーこんなんどうかい。  ハム式ブログ。


いろ波・6 納戸色

2007年02月20日 | 色の世界

小説「悉皆屋康吉(しっかいやこうきち)」船橋聖一著、(文春文庫1998年1月第一刷)で、主人公の康吉が、ライバルの悉皆屋の伊助爺さんに、「深川納戸」の色について長口舌を聞かされるくだりを、引用しよう。

「だがね、康さん、お納戸には、幾種類もあるんだよ。鴨川納戸、相生納戸、花納戸、橋立納戸、幸納戸、隅田納戸、鉄納戸、藤納戸、深山納戸、深川納戸、大内納戸 ―――ざっと数えただけでも、このとおりだ。今のうちでも、深川納戸と花納戸の見分けなんざ、なかなか素人にはできるもんじゃねェ。橋立納戸と鳥羽鼠(とばねずみ)なんぞもむずかしい。一方はお納戸で、一方は鼠だが、ちょっと見ては、同じようにしか見えねえ。現に、お前さんが引きうけてきた、深川納戸と、鴨川納戸との区別なんか、実に、むずかしいんだ。ありきたりの鉄納戸だって、深川や鴨川と並べて見て、どこがどうちがうってことは、なかなか、口に出しては、いえるこっちァねェ。納戸に花田に鼠にぶどう――こういった傾向の中に、また細かく、種類が分かれていて、鼠のうちの紺に近いものと、納戸のうちの藍がっかたものとでは、ほとんど色気がスレスレになってくる―――大雑把に注文してくるお客はいいが、今のように、深川納戸なんて、細かいところまで注文が出る客には、こっちもまた、それ相応の心得でむかわなくちゃァならねエ。山春に出してやるにも、ただ、深川納戸とだけいってやったんじゃァ、向こうでも間ちがえるおそれがある。やはり、そういう小面倒な色気を注文するなら、ちゃんとこっちから、色見本をつけてやるのが、悉皆屋の務めだ。そうじゃないか、康さん」

大正の終わりから、昭和一けたごろの話だ。

悉皆屋(しっかいや)については、この小説の一章の冒頭に詳しい説明があるが、染物から、和服の解き洗い張り、染替え、染み抜きなどの加工の仲介をする職業、悉皆とは何でもオールという意味があり、きものに関しての便利屋さんというところか。

今は、和装のコンサルタントなどと現代風に称しているが悉皆屋は、悉皆屋。 きものの店は、呉服店、呉服屋といったほうがストレートで分かりやすい。

ところで「納戸色(なんどいろ)」であるが、色は何でも、小説の引用のように口で言い表すのはむずかしい。

小説の、註によると

納戸色  江戸後期に流行したくすんだ藍色。染めの工夫によって様々なヴァリエーションが生まれた。

とある。

藍染の色名のひとつ、納戸色は、お納戸色とも言い、くすんだ色調の濃い青をいうが、色名については、諸説ある。

この色に染めた反物をしまっておく納戸の薄暗い青の色とか、納戸の幕の色だとか、またその納戸を管理する役人の衣裳の色だったとか、つまびらかでない。

さらに濃い藍染は、染めるのに手間がかかるので、一度に大量に染めて納戸に蓄えて置いたとかで、その藍染の色を納戸色というようになったとの推測などで、本当に色名の根拠かどうかにわかに信じがたいので、ただただ、納戸色というしかない。

江戸時代後期から、大変人気のあった青色らしく、天空の星に名前をつけるごとく、小説の引用部分のような、少しの色の差異にも、もっともらしく色名をつけていたものか。藍色に鼠や、茶の混色で微妙な色合いを楽しんだものであろう。

今なら何百万画素ものデジタル色で表現できるが、絹に染めるにはアナログの色彩感覚が味である。


温暖化と暦

2007年02月18日 | 一行法師

明日は雨水

地球温暖化により、日本の四季も怪しくなってきた。

暦の二十四節気は、変らないものの花の咲く時季や、旬に取れる魚や、鳥の渡りにも、少しずつ異変が起きていると言う。

雨水は、旧暦正月の中気で、新暦2月の18,9日。今年は明日の19日である。

歳時記によれば、「雪が雨に変る、雪や氷が解けて水になる、と言う意から雨水と呼ばれた。」とある。今年は、水溜りに張った薄氷も見ていない。

ただでさえ、季語などは新暦で言うものか、旧暦で言うのか私には判然としない。

如月と言えば、旧暦2月の異称であるが、この頃は新暦であれ2月は如月でとおる。

あと15日もすれば、啓蟄であるが、土中に蟄居の虫や爬虫類ももっと早くに出てくるかも知れない。

旧暦(陰暦)と新暦(陽暦)があって、どちらに属する季語のことかと迷い、さらに温暖化による事象で季語の位置づけもあいまいになる。

「は~るになれば、しがこも解けて、どじょっこだの、ふなっこだの、夜が明けたと思うべな~・・・」


丁亥正月元旦 目出度し

2007年02月18日 | 一行法師

旧暦の元旦をもって、スタートと勝手に決めた。

新暦のお正月は、松竹梅といっても、梅は莟にもなっていないので、梅の咲き誇るこの時季のお正月の方が自然ではないかと思う次第でありまし。

ともかく目出度い(何が?)ので、 かみさんが小豆を煮てお汁粉を作ってくれました。

午後から雨も上がり陽がさしてきました。自分だけのお正月を祝ってくれているようなお日様に、そっと手を合わし、西にまわった初日の出を拝みました。(なんと目出度い奴や!!)

かねがね、この二月十八日は、心に決めた正月元旦。

一年の計は元旦にあり。

目標設定、慶賀句作成、(計画作成のこと、本当に目出度い変換魅す)今年こそはと、毎年途中で挫折する事分かっていながら、あくなき挑戦の船出。

目標、計画の達成は、モチベーションの強さ如何にかかわる。

何を目標にするかは、その動機になるものがあってのこと。

その動機 善なりや。

強い動機により自分は何をやりたいのか明確になってはじめて目標の策定が出来る。

目標、方法、手段、真摯なる行動、実行力。

目出度い奴で、終わらない為に。