すでにシュパンは遥か向こうに行っていた。マダム・ダルジュレの馬は速足で遠ざかっていったが、フォルチュナ氏の部下も負けてはいない。彼は鹿のような脚と長く続く息の持ち主だったので、楽々と後をつけていった。それだけではない。彼の言葉を借りると『コンパスをぶん回し』ながらも、彼は頭の中で思案を巡らしていた。
「もし馬車を使わなかったら、つまりあの御婦人を俺の自慢の脚でつけて行くことが出来たら、一時間四十五スー、チップを入れて五十スーの馬車賃を正当にポケットに入れられる……」
しかしシャンゼリゼーに着くと、残念ながらこの目論見はご破算になることを認めないわけに行かなかった。というのは、アンペラトリス大通りの側道に沿って走る姿は目立ちすぎて人目を引いてしまうからだ。彼は無念の溜息を吐くと、馬車乗り場に行き、例のパリ万博(1867年、日本も初参加して浮世絵や磁器を展示したという、あのパリ万博のことと思われる)の忘れ形見、みっともなくて不便な黄色い辻馬車の一台に乗り込んだ。
「どこまで行きますか、旦那?」と御者が番号札を渡しながら尋ねた。
「ああ君、頼むよ。あの青い馬車を追いかけて欲しいんだ。ほらあれだ、すばらしい麗人が乗っているやつだよ」
この指示は御者にとって別に驚くようなものではなかった。しかし彼が『旦那』と呼びかけた相手は一張羅のフロックコートを着ていたとは言え、こんな冒険をやらかす男のようには見えなかったようだ。
「えーあの、失礼なんすけど」と彼は皮肉な口調で言った。
「今言ったとおりだ!」とシュパンは反撃した。プライドを傷つけられていた。「理屈こねている場合じゃないぞ。さっさと行かなきゃ見失っちまう」
これは正しい所見だった。もしもマダム・ダルジュレの御者が凱旋門にさしかかるところで速度を緩めなかったら、この日の追跡はここまで、となるところだった。しかしこのおかげで黄色の辻馬車は追いつく時間を与えられ、大通り沿いにそこそこの距離を保持したままついて行くことができた。が、ブーローニュの森の入口でシュパンは辻馬車を停めさせた。
「停まってくれ!」と彼は言った。「俺は降りるから……森の料金を払うなんてこと、金輪際ごめんだね……逆立ちして歩いた方がましだ……さぁ四十スー払うよ。それじゃこれで……」
この間も青のヴィクトリア(四輪無蓋馬車)は進んでいたので、シュパンは追いつこうと弾みをつけて走り出した。この術策はここに来るまでの道で考えついたものだ。
「あの綺麗なご婦人は森で何をするんだろうな?」と彼は思っていた。「彼女の馬車は列に加わって湖の周りをゆっくりと回り始めることだろう……俺の方はこの脚で同じことをやるんだ、人目につかないようにして……健康にも良いだろうさ」1.27