ジョドン医師は語られる内容にすっかり引き込まれていた。
「ある人? ある人とは誰です?」
彼はこの質問の不適切さには全く気付かずに尋ねた。しかしマルグリット嬢は抵抗を示した。彼女はこの無遠慮な男を尊大な視線で睨みつけ、この上なく冷淡な口調で答えた。
「名前は覚えておりません」
あからさまに剣突を喰らわされ、ジョドン医師は慌てて師の態度を再び真似した。しかし何事にあっても変わらぬ筈の冷静さはもうそこにはなかった。
「お分かり頂きたいのですが、お嬢さん」と彼はもごもごと言い始めた。「このようにお聞きしたのは、個人的な興味ではございませんで、ひとえに……診断のため……」
彼女は彼の言い訳に耳を貸そうともしていなかった。
「でも」と彼女は遮って言った。「これだけははっきり言えます。シャルース伯爵はこの人がそれに成功しなかったら、そのときは警察に行こうと言っていました。この瞬間から、彼はすっかり満足した様子でした。三時に呼び鈴を鳴らして下男を呼ぶと、夕食を二時間早めるように命じました。それで私たちは四時半にテーブルに着いたのです。五時に伯爵は立ち上がり、陽気に私にキスすると、大いに期待を持っている、真夜中前には帰らないだろうと言い置いて、歩いて外に出て行きました……」
このときまで彼女はしっかりした態度を取っていたが、ここに至ってそれが消え、目に涙を一杯浮かべ息を詰まらせながら、シャルース伯爵を指し、付け加えた。
「それなのに、六時半に、こんな姿で運び込まれてきたのです……」
深い沈黙が訪れた。ベッドに寝ている瀕死の病人の喘鳴が聞こえるだけだった。後は事故の模様を聞かねばならないだけだったので、ジョドン医師はカジミール氏に話しかけた。
「あなたのご主人をここへ連れて来た御者は何を言っていましたか?」
「ああ、殆ど何も。十語も発したかどうか」
「この男を探し出して、ここへ連れてきて貰わねば」
召使が二人、飛び出して探しに行った。そう遠くに行った筈もなかった。彼の馬車は屋敷の前に停めてあるのだから。案の定、彼自身はワイン商の店に停まっていた。好奇心に駆られた連中が彼に酒をおごり、そのお返しに彼が事件のことを語って聞かせていた。彼はすっかりショックから立ち直り、陽気さを取り戻していた。
「さあ、来てくれ。聞きたいことがあるそうだ」と召使たちは彼に言った。
彼はグラスを飲み干すと、不機嫌な様子で彼らの後に従い、何故かぶつぶつと呪いの言葉を吐き散らしていた。ジョドン医師は部屋を出て踊り場の上で彼に質問するという配慮を見せたが、御者は何も新事実を明らかにすることはなかった。
彼が言うには、その旦那は、ラマルチーヌ通りとフォブール・モンマルトルの角で彼の馬車に乗り込み、急いでやってくれと命じた。御者は二頭の馬に鞭を当て進んでいたが、不幸は道中で起こった。彼は何も聞かなかったし、その旦那は乗り込んだときには体調が悪いようには見えなかった。5.22
「いつものように?」
「いつも以上に食べていました。ただ、言っておかねばなりませんが、上の空で、何を食べているのかも分かっていなかったようです。急に立ち上がってはまた座り直す、ということを四、五回繰り返しました。とうとう何か辛い決心を固めた様子で、受け取ったばかりの手紙を引き裂いて、破片を窓から捨てました。庭に面した窓から……」
マルグリット嬢の話しぶりは実に淡々としたものだった。実際、彼女の話はごく普通に起こることでしかなかった。しかし、聞いている者たちは何か驚くべき事実が明かされるかと期待して、固唾をのんで聞き入っていた。人の性とはこのようなもので、何かというと妄想を作り上げ、当たり前のことを怖れたり、謎があると思いたがったりする。マルグリット嬢はしかし、自分の話がそんな効果を与えていることなど素知らぬ風で、医師だけを相手に話しているかのように先を続けた。
「その手紙が、少なくとも目の前からは消えたので、コーヒーが運ばれてくると伯爵は葉巻に火を点けました。食後にはいつもそうするのです。でも今日は火が消えるまで放ったらかしでした。私は彼の考え事の邪魔をしたくなかったので黙っていました。すると突然彼がこう言ったのです。『奇妙だ。突然気分が悪くなってきた』 私たちはしばらく何も言わずにじっとしていましたが、彼がこう付け加えたのです。『ちょっと頼みがあるんだが、私の寝室に行ってきてくれないか。この鍵で書き物机を開けると上の棚に、すりガラス栓の小瓶があるから、それを持ってきてくれないか』と。普段はとてもはきはきした喋り方をする伯爵が、それを言うときは吃るというか、口ごもっているのに、私はひどく驚きました。でも、不幸なことに、私は心配もしなかったのです……。それで、言われたとおりに小瓶を取って来ました。彼はそれから八滴か十滴ほど水を入れたコップに流し込み、飲み干しました」
ジョドン医師は一心に聞き入っていたので、素の自分に戻り、師の真似をするのを忘れていた。
「それから?」と彼は促した。
「それから、伯爵は普段の顔色を取り戻し、自分の執務室に引き上げました。あの手紙が引き起こしたショックが癒えたのだろう、と私は思うことにしました。でもそれは間違いでした。午後になると彼はマダム・レオンを通じて、私に一緒に庭に出てくれと頼みました。私は驚いて走って行きました。というのは、そのときは酷い悪天候だったからです。『マルグリットや』と彼は言いました。『私が今朝破り捨てた手紙の破片を探すのを手伝ってくれないか。あれに書かれてあった筈の住所を知るためなら、財産の半分を擲ってもいい。あのときは怒りのあまり、それを見なかったんだ……』 それで、私は手伝いました。それほど無茶な目論見でもありませんでした。というのは、雨が降っていたので、窓から捨てられた紙片は散らばらずに、殆どが真下に落ちたからです。それで、かなりの紙片は拾いました。でも、彼があれほど執心していた部分は見つからなかったのです。何度も彼は嘆き、自分の性急さを呪っていました……」
門番のブリジョー氏とカジミール氏は意味ありげな微笑を交わし合った。彼らは、その日伯爵が探し物をしているところを見て愚の骨頂だと思っていたのだ。今それが納得できたのだった。
「伯爵の嘆きを見て、私は悲しみで胸がいっぱいになりました。すると突然彼は立ち上がって、嬉しそうにこう叫んだのです。『私は馬鹿か? あの住所なら、ある人に聞けば教えてくれるじゃないか!』と」5.21
「はい。少なくとも私がお仕えしてからは一度もございません」
「そうですか! それは好材料です。それでは、眩暈がする、とか耳鳴りがする、とか言っておられたことが何度かありませんでしたか?」
「いいえ、一度も」
マルグリット嬢が何か言おうとする様子を見せたが、医者は身振りと声で静かに、と制し、質問を続けた。
「伯爵は大食する方ですか? アルコールは多量に飲まれますか?」
「いえ、伯爵は非常に節度を保った飲食をする方でございます。ワインは常に水でごく薄く割ったものをお飲みで……」
医者は頭を前に傾げ、じっと考え込む風で聞いていた。眉を寄せ、下唇を突き出し、ときどき髭のない顎を撫でていた。彼の師がやっていたように。
「こりゃまずいな」と彼は小声で言った。「病気には原因がある筈だ。伯爵の体格からは、このような突発性の発作の素因をなすようなものは見当たらない……」
彼は黙った。それから突然マルグリット嬢の方に向き直った。
「どうですか、お嬢さん、伯爵には最近なにか激しく興奮するようなことがあったかどうか、ご存じですか?」
「ありました。それも今朝のことです。大層激しい苛立ちを見せたのを、私はっきり見ておりました」
「ああ、やはりそういうことであったか」 と医者は予言者の身振りで言った。「何故、最初にそう言わなかったのですか! お嬢さん、私には詳細を知らせてくれないと困りますね」
マルグリット嬢は言いよどんだ。召使たちは、この医者のやり方に眩惑されていたが、彼女は召使たちと同じ気持ちは持っていなかった。こんな医者の代わりに、かかりつけの医者がいてくれたら、どんなに良かったか、と彼女は思っていた。それに、瀕死の病人の枕元で、使用人全員が聞いている前で行うこの乱暴な質問の仕方が非常に無礼だと思った。病人は人事不省に陥っているかもしれないが、耳は聞こえ、理解しているかもしれないのに。
「私にはどうしても事情を知る必要があるのです」と医者は有無を言わせぬ口調で言った。
このように迫られては、もう躊躇うことは出来なかった。彼女は記憶を整理しているような様子で、悲し気な声で話し始めた。
「今朝、私たちが朝食のテーブルについたばかりの時のことです。一通の手紙がシャルース伯爵に届けられました。伯爵はそれを一目見て、顔面が蒼白になりました。彼はすぐに立ち上がり、苦痛と怒りの言葉を大声で叫びながら、食堂を歩き回り始めました。私はどうしたのかと尋ねましたが、私の言葉が耳に入らないようでした。でも、そんな風にして五分ほど経つと、席に戻り、食ベ始めました……」5.20
医者が入ってきた。まだ若い男だったが、頭に殆ど毛がなかった。小柄で痩せていて、念入りに髭を剃り、全身黒づくめの服装をしていた。一言も喋らず、挨拶もなしで、帽子の縁に手を掛けることさえせず、彼はまっすぐベッドまで歩いて行き、すぐに瀕死の病人の瞼を持ち上げ、脈を取り、触診した。それから胸を露わにし、自分の耳を当てがった。診察が終わると、彼は言った。
「重病です」
医者の行動を悲痛な面持ちでじっと見守っていたマルグリット嬢は、嗚咽を抑えられなかった。
「でも、希望がないわけではないんでしょう?」と彼女は手を合わせて懇願するように尋ねた。「なんとか助けてくださいますわね。助けてください!」
「当然、希望を持つことはできます」
それが医者の唯一の答えだった。彼は診察鞄を引き寄せると、冷静に柳葉刀を何本か指の先で調べ、そのうちから適当な一本を見つけ出すと、こう言った。
「お嬢様、お願いがございます。この部屋から女の人たちには出て行って貰わねばなりません。あなたも含めてです。男たちは残って貰います。なにかのときには力を貸して貰うかもしれませんので」
彼女は、不幸に襲われた人々がどんな唆しにも黙って従う、あの諦めの態度で従った。が、自分の部屋には行かず、ドアに一番近い踊り場の階段の一番上の段のすぐ上に留まり、どんな僅かな物音にも、あらゆる想像をめぐらしながら、じっと時が経つのを待っていた。
一方、寝室では、医者がこれ以上は出来ないほどの念の入れようで処置を行っていた。それは性格から来るものではなく、そういう主義なのだった。ジョドンという名前のこの男は、役割を演じている野心家だった。『学問の王道』の門弟である彼は、自らの治療によってではなく、稼ぐ金額によって名を馳せていた。彼は服装、身振りから声の抑揚に至るまで、師のやり方を逐一真似ていた。その範に倣い、怪しげな処方を施し、師と同じ結果を得ることを期待した。すなわち富裕層の患者と大金、である。
さて、彼は内心では、シャルース伯爵の病状は大したものではない、と高をくくっていた。実は重篤なものであったのだが、そうとは全く判断していなかった。しかし、瀉血をしても、乾燥吸角(鐘形の小さな放血器で、中でアルコールなどを燃やして皮膚につけ、陰圧で血を吸い寄せる)をしても、病人の意識や感覚を回復させることは出来なかった。相変わらず動かぬままで、呼吸は幾分荒いものではなくなったが、それだけであった。戦いに疲れ、ジョドン医師は応急の処置はすべてやり尽くしたので、『女たち』が病人の傍に戻って来ても構わないと宣言した。そして彼としては、今しがた処方した薬を薬局に取りに行かせ、その効き目を待つしかない、と告げた。マルグリット嬢が伯爵の部屋に入ることを許されたとき、この野心的な医者に投げかけた視線を見た者は誰しも心を動かされたに違いない。当のこの医師以外は。この男の面の皮は研磨機にかけられたほどに固くなっていた。彼が言ったのは次の言葉だけだった。
「まだはっきりしたことは言えません」
「まあ、どうしましょう……」彼女は呟いた。「神様、どうか私にお情けをくださいまし」
ジョドン医師は既に暖炉のところに行き、あくまでも師の真似をして、背を凭れかける姿勢を取っていた。
「さて」と彼はカジミール氏の方に向き直って言った。「必要な情報を貰わねばなりません。シャルース伯爵がこのような発作を起こされたのは、今回が初めてですか?」5.19
彼らが『お嬢様』と呼ぶ娘が敷居の上に立っていた。マルグリット嬢は二十歳になる綺麗な娘であった。背はかなり高く、褐色の髪に、深い印象を与える目はそのやや際立った睫毛によって更に暗く見えた。豊かな黒髪は彼女の考え深げで悲し気な顔を包んでいた。彼女にはどこか異国的で人なれしていないところがあり、激しい苦しみに耐えている一種の尊大な諦めのようなものが感じられた。
「一体どうしたのです?」と彼女はそっと尋ねた。「今聞こえた騒ぎの原因は何? ……私は呼び鈴を三回も鳴らしたのに、誰も来なかったわね」
誰も答えようとしなかった。彼女は驚いて辺りを素早く見回した。彼女の立っているところからはアルコーヴに置いてあるベッドが見えなかったが、召使たちの沈んだ様子や床に散乱している衣服、部屋全体に漂う混乱状態を一瞬で見て取った。普段、この寝室は飾り気はないが壮麗な部屋であるが、今は門番のブリジョー氏のたった一本のランプのみで照らされていた。彼女は怖くなり、全身を震わせ、動揺した声で尚も尋ねた。
「何故あなたたち全員がここに揃っているの? お答えなさい。何があったの?」
カジミール氏が一歩前に進み出た。
「大変なことが起こりました、お嬢様、伯爵が……」
彼はここで言葉を止めた。次に続く言葉に自分でも怖くなり、先を続けられなかったのだ。しかし、既にマルグリット嬢は察知した。あたかも致命傷を負いでもしたかのように、彼女はさっと両手を胸に当て、一言漏らした。
「亡くなったの……」
彼女は真っ蒼になり、頭を後ろに仰け反らし、目を閉じ、よろめいた。二人の女中が飛び出して彼女を支えようとしたが、彼女は優しく女中たちを押しやり、呟いた。
「ありがとう……ありがとう…・・・大丈夫だから……放っておいて」
実際、彼女は気丈にも心弱りを乗り越えた。力を振り絞り、顔面蒼白になりながらも、歯を噛みしめ、涙を見せず目を光らせながら、ゆっくりとアルコーヴの方へ近づいていった。そこで、一瞬立ち止まり、なにか聞き取れない言葉を呟いていたが、ついに苦痛に打ち負かされ、ベッドの前にがっくり膝をつき、顔を隠し、泣き始めた。
哀切な、また同時に素朴でもあるこの絶望の光景を目の前に心を打たれた召使たちは、息をひそめ、これからどうなっていくのか、を考えていた。しかし長くは続かなかった。マルグリット嬢はすぐ元気よく立ち上がった。希望の光が突然彼女の心に差し込んだかのようだった。
「お医者様よ!」彼女は短く叫んだ。
「今お医者を探しに行っております」とカジミール氏が答えた。そして階段から話し声と足音を聞きつけて、付け加えた。
「幸いにも見つかったようです。今来られました」5.18