エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-VIII-3

2021-03-23 11:06:06 | 地獄の生活

 彼女は首を振った。

 「私の出生を記載している怪しげな証書によりますと」と彼女は答えた。「私の年齢は確かに十八歳ですけれど、この身に降りかかった苦労から言いますと、判事様、頭に白髪を置いていらっしゃるあなた様よりも私の方が年を経ているのではないかと思いますわ。不幸な者は若い時がありません。苦労の数だけ年を取るのです。もしあなた様の仰る経験というものが失望、善悪の知識、誰も何物にも頼らないことなどを意味しているのでしたら、年は若くても私の経験はあなた様のものにひけを取りません……」

 彼女は言いさした。躊躇し、それから突然心を決め、叫んだ。

「でも、あなた様からのご質問をお待ちするまでもございませんわ!それは誠実なことでも立派なことでもありません。ああ、あなた様に分かって頂けたなら!忠告をお願いする者は、まず正直でなければなりません……私、ここに自分一人しかいないかのようにすべてをお話します。今まで誰も知らなかったこと、パスカルでさえ知らないことをお話します。私には王侯のような贅沢に囲まれていた過去があります。極貧の過去もあります……でも私には隠さねばならないことは何もありません。もし私が赤面することがあったら、それは他の人のためで、自分のためではありません!」

 おそらく彼女は長年胸に溜めていた感情を吐露したいという強い衝動に身を任せることにしたのかもしれない。自分でもはっきりとは意識せぬながら、天変地異のために生じた底知れぬ断崖のように自分の人生に深淵がぽっかり穴を空けたこの瞬間、自分の良心以外に相談相手を今まで持たなかった彼女が、誰か生きた人間に聞いて貰いたいと思ったのかもしれない。彼女は興奮のあまり、判事の驚きに気がつかず、彼の呟いた言葉も聞いていなかった。彼女は真っ直ぐに身を起こし、記憶を呼び起こそうとするかのように片手を額の上に持ってくると、直截な調子で語り始めた。

 「思い出す限り最初の記憶は高い壁に囲まれた狭い中庭です。窓のない黒い冷たい壁で、あまりに高いのでその頂上が見えなかったほどでした……。夏には正午頃に太陽が射しこんで隅っこの石のベンチに日が当たっていましたが、冬は全然……。中央には五、六本の木がありましたが、か細く苔むしていて、春になると黄色っぽい葉を十枚ばかりつける程度でした。この中庭に三歳から八歳までの女の子が三十人ほどいました。皆茶色の服を着て、肩に青い三角のショールを掛け、週日は青い帽子を被り、日曜は白い帽子を被っていました。それに毛織の靴下、底の厚い靴に首から大きな錫の十字架のついた黒いリボンを掛けていました。私たちの周りには物静かで陰気な修道女たちがいて、幅の広い袖の中で手を交差させ、頭巾の下の顔は青白く、柘植の大きなロザリオに銅のメダルを掛け、歩くときには囚人の鎖のようにそれらを鳴らすのです……。

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1-VIII-2

2021-03-22 09:52:09 | 地獄の生活

 「で、その妹様は生きているか死んでいるかも分からぬのですか?」

 「分からないのです!ですが、お待ちください……私正直にお答えするとお約束しましたので…・・・昨日シャルース伯爵が受け取った手紙、伯爵の死の引き金になったあの手紙ですけれど、あれは御妹様からのものに違いないという気がします。その方しかあり得ないと思いますの。でなければ、あなた様が発見なさったあの手紙……書き物机の秘密の場所に他の思い出の品と一緒に隠してあった……あの手紙の主のどちらかだという気がします」

 「で、そのもう一人の人というのが誰か、貴女は知っていますか?」

 マルグリット嬢は答えなかったので、判事はそれ以上追及せず先を続けた。

 「ところで娘さん、貴女は一体どういう方です?」

 彼女は苦痛に満ちた諦めの身振りをし、苦しそうに言った。

 「分からないのでございます。もしかしたら私はシャルース伯爵の娘なのかもしれません。私がそう思っていないと申し上げたら嘘になります。ええ、私はそう信じています。でもやっぱり、そうではないのかも……。ときどき『そうよ、そうに違いないわ』と思う日があります。そんなときは伯爵の首に飛びつきたくなります。別の日には『いいえ違うわ。そんなことある筈がない』と思います……そんなときは伯爵を殆ど憎んだりします。それに、伯爵は何も言いません。少なくとも肯定的なことは何も。初めて会ったとき、今から六年前ですけれど、伯爵が自分のことを『お父様』と呼ぶな、と私に禁じられたその言い方から、私が何を聞いても答えてはくださらぬだろうと分かりました……」

 もしも世の中に子供っぽい馬鹿げた好奇心とは全く無縁の人間がいるとするなら、それは自分の時間を細分して隣人の利益のために充てることを義務付けられている男であろう。治安判事がそうであった。その職業柄彼は、家庭の不和、隣人の苦情、中傷、泣き言、愚かな非難の応酬、卑劣極まりない誹謗、胸のむかつくような揉め事、ライバルを貶めようと果てしなく繰り返される繰り言など、を日がな括りつけられたように椅子に座ったまま聞かされるのである……。

 しかし、マルグリット嬢の話を聞くと、その奇妙さに彼の心は捕えられた。謎を前にしたとき人が感じるあの不安な気持ちを彼は感じていた。

 「失礼ながら」と彼は言った。「若さと世間知らずのゆえに貴女は大事なことを見落としておられるのではありませんか。貴女の立場では……」

 彼女は身振りで遮り、悲し気な口調で言った。

 「いえ、それは違います。私は世間知らずなどではありません……」

 この言葉に判事は微笑を隠せなかった。

 「娘さん」と彼は言った。「貴女はおいくつですか……十八歳ぐらいですか?」3.22

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1-VIII-1

2021-03-20 08:53:11 | 地獄の生活

VIII

 

 ついにド・シャルース氏の書斎に治安判事とマルグリット嬢は二人だけになった。ここは伯爵が生前とりわけ愛用していた部屋で、高い位置から吊るされた壁掛けや鉄細工の施された黒い木製の家具などが薄暗く壮麗な雰囲気を醸し出していた。が、今は重々しく陰気に感じられた。デスクの上にごちゃごちゃに積み上げられた書類やすべての錠前、すべての櫃、書架、クロゼットにまで張り巡らされた白いテープは見る者の目に寒々と映った。

 判事はシャルース伯爵の肘掛け椅子をやや部屋の中央に向けて座り、マルグリット嬢は彫刻の施された高い背もたれの椅子に座り顔は光を全面に浴びていた。しばらくの間、二人は互いに向き合ったまま黙っていた。判事は質問すべきことを心の中で整理していた。マルグリット嬢の殆ど非社交的とさえ言える控え目さをよく理解していたので、もし誇り高い彼女をおじけづかせてしまったら、彼女から何も引き出せないばかりか、彼女の助けになろうと思っているのにそれが果たせないであろうと考えていた。というのは、知り合ってまだ数時間しか経たないこの娘に彼は敬意と称賛を覚え、曰く言い難い同情を感じており、彼女の力になってやりたいと強く思っていたからだ。やがて彼は口を開いた。

 「お嬢さん、使用人たちの前ではお尋ねすることを控えておったのですが、この場でもし差し支えなければ、お聞きしたいことがあります。これはもちろん、答える答えないは貴女のご自由であるということは申し上げておく……じゃが、わしは好奇心からでなく、わしの務めと思ってこう言うのですが、貴女はお若い、わしは年寄りじゃ、わしの長年の経験が貴女のためになるとすれば、それを役立てて貰いたいと……」

 「どうぞお聞きになって下さいまし」とマルグリット嬢は遮って言った。「あなた様のご質問に正直にお答えいたします……さもなければ沈黙を守ります」

 「それでは始めましょう」と彼は言った。「シャルース伯爵には親族が全くおられない、と聞きましたが、これは正確な事実ですか?」

 「現実にはそのように言えます。ですが、伯爵について人が言うのを聞いたのですが、伯爵には妹様がおられて、エルミーネ・ド・シャルース嬢と仰います。この方が今の私と同じ年ごろにご両親の邸から家出をなさったのだそうです。二十五年から三十年前のことです……で、ご両親が遺された莫大な財産のその方の取り分を全く受け取っていらっしゃらないとのことです」3.20

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1-vII-9

2021-03-18 09:34:28 | 地獄の生活

 マルグリット嬢は優しく首を振って答えた。

 「あなた様にはどのようにお礼を申し上げても申し尽くすことはできません。あの卑しむべき非難を浴びせられたとき一蹴して下さいました。その他のことについては、私は何も期待したことはありませんし、今もしていません」

 この言葉は彼女が心に思うことを述べたものであり、彼女の口調からはっきりとそう感じられたので、判事はそのことに驚き、また同時に心配にもなった。

 「おやおや、娘さん、そんな捨て鉢なことを言うものではありませんよ」と彼は滅多に見せぬ人の好い親爺風の態度で言った。「そんなことを仰る理由が」ここで彼はマルグリット嬢をじっと見据えた。「あるのでない限り……。ま、しかし今はこれぐらいにしておきましょう。私はこれから一時間ばかり身体が空きますのでな、貴女と話をしましょう、父と娘のように」

 この言葉を聞いて書記官は立ち上がった。しばらく前から、この陽気な男の上には霧が掛かったようになっていたが、今じれったそうに鍵の束をジャラジャラと鳴らした。というのは、封印を貼付する度にその鍵が封印を解く際の責任者である書記官に委ねられていたからである。

 「よく分かったぞ」と判事が応じた。「お前の腹はわしのより辛抱がきかんようじゃな。夕食の時間までココア一杯だけでは足りんと文句を言っておる。よし、昼食を取って来い。行きがけに裁判所の文書課に寄るのだ。わしはここに居るから、食事が終わったらここへ戻って来い。報告書作成の仕事はそこまでにして、皆の署名を貰うがよい」

 作業に予定されていた時間はとっくに過ぎていた。空腹に急き立てられ、書記官は定められた書式を非常な早口で読み上げ始めたので、これを理解できるのはよほど事情に通じた者でなければならなかった。『現調書の表題並びに目に付きたる証拠品の目録作成、及び封印の貼付は上記に記載さるごとく午前九時より正午まで行われ……』

 その後、彼が頭書に記入していた使用人たちの名前を読み上げ、一人一人が順に前に進み出て自分の署名をするなり、Xを書くなりして引き下がっていった……。

 マダム・レオンは判事の顔つきから、退出すべしという命令を読み取ったので、不承不承引き下がろうとした。そのときマルグリット嬢が彼女を押し留め、尋ねた。

 「今日私宛てに何も届かなかったこと?」

 「いいえ、何も、お嬢様、私自分で門番部屋まで降りて行って調べましたから」

 「昨日の夕方、確かに私の手紙を投函してくれたわね?」

 「まぁ、お嬢様、お疑いですの?」

 マルグリット嬢はため息を押し殺した。そして素早く付け加えたが、それにはもう行ってよいという意味が込められていた。

 「ド・フォンデージュ様に来て頂くようお願いしなければなりません」

 「将軍様ですか?」

 「ええ」

 「すぐに使いを遣りますわ」と家政婦は言った。

 彼女は出て行ったが、ドアの閉め方には明らかに不機嫌さが見えた。3.18

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1-VII-8

2021-03-17 10:03:37 | 地獄の生活

 正午には、ド・シャルース氏が自分の財産あるいは遺言書をしまっておいたと考えられるすべての家具調度品が調べられたが何も見つからなかった……ここにもない……ここにも。

 治安判事は長い家宅捜索の経験により培われた冷徹さで辛抱強く作業を続けていた。何から何までひっくり返し徹底的に調べずには置かなかった。というのも、探す物はここのどこかにある、手の届くところに、もしかしたら見える場所にあるのかもしれない、とさえ思っていたからだ。思っていたというより、確信していた。でなければ彼が今までやってきたことは一体何なのだ。シャルース伯爵はあらゆる当然の措置を講じたに違いない。それは自分の財産を受け継ぐにふさわしい血縁者のいない、あるいは自分の愛情や利権を親族以外の者に置いていた孤独な老人によく見られることだ。

 捜索をし尽くしついに終了せねばならなかったとき彼の身振りは失望よりも怒りのそれであった。目に見える成果がなかったからと言って彼の考えは揺るぐことがなかった。彼はじっと不動の姿勢を取り、目は指輪の石に注がれていた。まるで何らかの奇跡が顕れ、誰も知らない隠し場所を教えてくれるのを待っているかのように。

 「伯爵は慎重すぎるのが唯一の欠点と言われた人だ」と彼は小声でぶつぶつ呟いた。「首を賭けてもいい。その点は人がしょっちゅう確認しておるし、わしの知っておる彼の性格からしても……」

 マダム・レオンが両手を天に向かって差し伸べた。

 「ああそうでございますとも」彼女は同意した。「この世であれほど警戒心の強いお方はおられませんでした……お金のことを申しているのではありません!……と申しますのは、あの方はお金ならそこかしこに置きっ放しにしておられましたもの。でも書類ときたら!ご自分の書類は三重に鍵を掛けて保管しておられました。まるで重大な秘密がこっそり盗まれるのを怖れているかのように……それはもう偏執狂のようでした。たった一通の手紙を書くときでさえ、あの方は周りにバリケードを築くのです。これから恐ろしい犯罪に取り掛かろうとするかのように。何度見ましたことか、この私、この目で何度……」

 残りの言葉は彼女の喉に消えた。口をぽかんと開けたまま、目は大きく見開かれ、茫然とした表情で。もうちょっとで深い穴の中に足を踏み入れそうになった者のように。後ひと言でも喋れば、彼の偏執狂的な行動の一つを思わずぺらぺらと暴露するところであった。つまり彼女が閉じられたドアの鍵穴から覗いていたことを……。

 少なくとも彼女自身は、自分がちょっと口を滑らしたものの判事の耳には届かずに済んだと思っていた。判事はマルグリット嬢のことだけを気遣っているように見えた。そのマルグリット嬢は、実際にはともかく表面上はいつもの悲しげな諦めを湛え冷静で控え目な態度に戻っていた。

 「さてお嬢さん」と判事は言った。「私の権限内で出来る限りのことはいたしました。今後の捜索と財産目録作成は偶然の手に委ねることとしましょう。これだけの大きな邸宅です。まだ三室を探しただけですからな、探せばどのような驚くべき物が見つかるか分かりませぬ」3.17

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