エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-VIII-4

2021-03-24 09:45:38 | 地獄の生活

彼女たちは一様に同じ表情をしていました。当然のような諦め、変わらぬ優しさ、そして何にも耐えられる忍耐づよさという……。それでも意地悪な人たちはいて、その目に悪意を漲らせ、冷たく鋭い怒りを私達子供に浴びせることもありました。でも中に一人、とても若くて金髪の修道女がいて、とても善良で悲しそうな様子だったので、まだ物心つくかつかぬかの私でさえ、彼女は大きな不幸に襲われたのだということが分かったほどでした。休憩時間になると彼女はよく私を膝の上に乗せ、引き攣ったようなやり方で優しく抱きしめ、『可愛い子、可愛い子』と繰り返したものでした……。そうやって抱き締められるとときどき苦しくなることがありましたが、そんな素振りは見せないようにしていました。彼女をそれ以上悲しませたくなかったからです。それに心の中では、彼女のために苦しい思いを堪えることは嬉しく、誇りに思えることでしたから……。お気の毒なシスター!私の幼少期の唯一の幸福な時間は彼女が与えてくれたものです。シスター・カリストという名前でした。彼女がその後どうなったか、私は知りません。心が挫けそうになったとき、私はよく彼女の事を考えました。そして今でも涙なしで彼女の名前を口にすることはできません」

 現に今も彼女は泣いていた。大粒の涙が頬を伝わって流れ落ち、彼女はそれを拭おうとしなかった。話の先を続けるのには努力が必要だった。

 「もうお分かりですわね、判事様、私自身ずっと後になるまで分からなかったことが。私は孤児院にいたのです……私は捨て子でした。孤児院では何不自由ない生活とは言えませんでしたが、慈愛の心をお持ちの善良な修道女様たちに感謝しないのは恩知らずというものです。ああ、でも!修道女様たちの愛情やお世話は三十人の子供たちに行き渡るにはあまりに少なかったのです。他の子供たち全員に与えられる言葉や愛情だけでなく、自分だけに与えられるものがありませんでした。私たちは大寝室に寝ていましたが、ベッドや小さなカーテンは真っ白で清潔でしたし、部屋の真ん中には聖母像があって私達みんなに微笑みかけているように見えました……。冬は火を入れて貰えましたし、私達の着る服は暖かくよく手入れされたもので、食事も十分でした。私たちはそこで読み書き、裁縫と刺繍を習いました。勉強の合間には休み時間があり、よく努力してお利口にしていた子供は褒美を貰いました。また週に二度田舎の方まで歩いて遠足に連れて行って貰いました。この途中の道で行き交う人々から私は自分たちが何者なのか、世間で何と呼ばれているかを知ったのです……。

 ときどき午後の時間に素晴らしい身なりの女の人たちがみえました。健康と幸福ではち切れそうな子供たちを連れて……。修道女様たちから、この方々は『敬虔な奥様がた』とか『慈善の志の篤い方々』であり、愛し敬わなければならず、私達はお祈りのときその方々のことを忘れてはならない、と教えられました。奥様方は私達に玩具やお菓子を配りました。

 また他のときには教会から聖職者の方々や他の偉い男の方々もいらっしゃいました。そのいかめしい顔つきに私たちは恐れを抱いたものです。彼らはあらゆるところを見て回り、あれこれ質問をなさり、すべてがあるべきところにあることを確かめ、中には私達のスープまで味見をする方もいました。いつも皆様は満足なさり、修道院長は最大の敬意を払いながら送り出し、こう繰り返していました。

 『この子たちにはたっぷり愛情を注いでおりますの……可哀想な子供たちですから』

 すると男の方々はこう答えます。

 『ごもっとも、ごもっとも、シスター、この子たちは大変幸せですよ』3.24

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